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秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その2 竹下景子さん来館

2022年05月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

平成20年2月12日、スペシャルドラマ「坂の上の雲」広報番組の制作ロケが秋山兄弟生誕地で行われた。

ドラマ「坂の上の雲」は、平成21年11月29日~平成23年12月25日迄、足掛け3年間に渡り放映され、史上初のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の制作回顧録である。

制作費用は、いままで制作してきた大河ドロマとは桁外れの費用が注がれ、ロケ開始は、平成19年11月19日から行われ、ロケ地も出演する俳優さんたちも全て決まり順調であったが、脚本家の野沢 尚さんが不慮の事故でご逝去されたのが誤算であった。しかしこの事以外は全て予定通り進み収録され放映された。

秋山好古・眞之の母役を演じられた「竹下 景子さん」素晴らしい女優さんでした。
竹下 景子さんの所属事務所の方女性二人と、NHK「坂の上の雲」制作チーフデレクターそれから撮影スタッフが秋山兄弟生誕地に来られ撮影が行われた。

竹下 景子さんは、撮影前に、秋山兄弟武道場で秋山兄弟生誕地観光者用に制作されたDVDを視聴された。

秋山兄弟生誕地観光者用に制作されたDVDを視聴されあと、撮影スタッフの方から、何かご意見があれば発言お願いしますと促されたので、私はいらぬことであったかもしれませんが・・と断って下記のような発言をしました。

「秋山好古も、眞之も自ら進んで軍人になってのではなく、好古は、16歳の時に福沢諭吉の学問のすゝめを熟読し、感銘を受け、日本の近代国家を構築するには教育が必置である、よって学校の教員になろうと志、大阪師範学校(現、大阪教育大学)に入学し、卒業後名古屋師範学校(現、愛知教育大学)の教師として赴任した。当学校には、伊豫松山藩出身の教務官(教頭)和久正辰がいた。そして名古屋鎮台に、やはり伊豫松山の先輩、山本忠昭武官がおり、この先輩達の強い勧めで、軍人になることを決心し、教職を退職、明治10年陸軍士官学校騎兵科に入学した。

眞之は、正岡子規・清水則遠と共に、末は博士か大臣になろうと東京大学を目指したが、尊敬する兄・秋山好古に経済的な負担を掛けないようにと、兄・好古の許しをえて海軍兵学校に入学し、兄弟揃って軍人の世界に身をおいた。」

しかし、軍人は有事となれば、殺戮の行為を行い相手の領土を奪い、支配下に置く野蛮な行為をする熾烈な世界であるので、好古・眞之共に子供達は軍人にさせてない事をお含み下さいと」私は発言した。

そして

竹下景子さんが演じられる、秋山 貞は、特に好古・眞之には、大きくなったら「世のため・人のため・故郷のために尽くせる人間になるようにと」幼少時代から躾育されました。・・と付け加えました。

いいご意見ありがとうございましたと言葉をいただいました。

DVDを視聴後、竹下景子さんの了解を得て写真を撮らせて頂きましたが、大女優を撮らせて頂くため写真を撮る秋山兄弟生誕地の研究員は、緊張して手が震えシャッターを上手く押せずカメラブレをしています。

各年代の秋山好古の画像

好古は、大正5年11月16日陸軍大将に昇任、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、

今まで元帥を辞退した者はいなかった。
大元帥(大正天皇)は驚き、このことに付き天皇は、特旨として官位従二位を好古に与えた。
大正13年故郷伊豫松山から、北豫中学校長に名前だけでいいから出して欲しい、帰松時に学校に来ていただいたのでいいからとの内容であったが、好古は、それでは教師や、生徒に対して失礼だろう、僕は校長として松山に帰るよと快く引き受けた。

家族は、東京で暮らし好古は単身赴任であった。大正13年3月から昭和5年3月迄、6年間であった。そして退職し東京の家族の元へ帰った。

東京の人たちは、元帥を辞退し、田舎の中学校の校長として都落ち、馬鹿な男よと・・馬鹿呼ばわりされたが、好古は何も気に留めなかった。・・これが故郷への恩返し(母の教えであった。)

昭和5年11月4日、東京の陸軍軍医病院で逝去、享年72歳であった。

北豫中学校長の時、愛媛県下陸上競技大会で優勝した時の記念写真で、前列左から3人目が秋山好古校長です。

北豫中学校長、大正13年3月9日の卒業証書、学校長が従二位の官位を持つのは秋山好古ただ一人で全国でも注目の的であった。

壮年時代の秋山眞之。

正岡子規・清水則遠・秋山眞之の3名は、東京大学を目指し上京、東京大学予備門時代に夏目金之助(漱石)と同級生であった。清水則遠は、予備門時代病に陥り逝去した。

眞之は東大に進学する予定であったが、兄、好古に経済的負担を掛けるのは忍びがたしの気持ちで、学費の要らない海軍兵学校を選んだ。(海軍兵学校第17期を首席で卒業した。)

海軍兵学校時代、夏休みを利用して薩摩を訪れ、薩摩の郷中教育を視察し参考にして、故郷伊豫松山に、文武両道を実践とする教育「松山同郷会」を設立し郷土の青少年教育の発展に寄与した。現在の常盤同郷会である。(母の教えの故郷のためにである。)

秋山眞之は、小田原の別宅にいた山縣有朋にお願いに行った。

これから近代的な日本の建国は、山縣有朋閣下が中心となりなされていかれます。

その過程で有事となりその時は、米国とだけは事を構えないようにお願い致します。米国と事を構えると日本はだめになってしまします。・・その他、多肢に渡り眞之の考えを話しお願いをした。
眞之は翌日、盲腸炎を患い、腹膜炎を併発した。小田原には腹膜炎を治療出来る医者がいなく急死した。小田原の山下汽船の社長・山下亀三郎の別荘でのことであった。

その時の辞世の句が、「不生不滅明けて烏の三羽かな」で・烏の三羽は、正岡子規・清水則遠・秋山眞之のことである。

そして、山下亀三郎氏に世話になった、家族のことを宜しくお願いしますといって旅立ったと言われている。

日本海海戦出撃の際の報告電報の一節で、名文と評された「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」がある。

大正7年2月4日逝去、享年49歳であった。

最終階級は、海軍中将。

平成22年3月15日、秋山兄弟生誕地研究員は戦艦三笠で研修会を実施した。その時の記念写真で後方が東郷平八郎司令長官と、連合艦隊旗艦の三笠である。

最後列、左から二人目の女性は、秋山眞之の孫で「大石尚子氏で、元参議院議員」最後列、左から三目の男性は、秋山好古の孫で、秋山宗家第10代の秋山哲兒氏で、両家のお孫さんも研修会に参加された。しかしその後お二人共ご逝去されました。・・ご冥福をお祈りします。

秋山兄弟生誕地の研究員は、18名在職し無報酬でそして奉仕で活動しており毎年県内外で研鑽しご来館者にご案内いたしております。近年は、コロナ禍の中生誕地内での研修になっています。館内研修は3ヶ月に一度実施しています。

画像は、戦艦三笠の艦橋で、日本海海戦の時、東郷平八郎司令長官・加藤参謀長・伊地知艦長・秋山参謀が立たれていたプレートである。

プレートには、次の画像のように名前が刻印されている。

旗艦三笠艦上での記念写真、前列真ん中が、東郷平八郎司令長官で、前列右端が秋山眞之参謀である。

日本海海戦出撃の時の報告電報の一節で、名文と評された「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」がある。

秋山眞之は、優れた文才であった。

東郷平八郎司令長官の日本海軍連合艦隊解散の辞も秋山眞之参謀が素案した。

母、貞は苦しい家計の中、眞之の文才を認め塾に行かせていた。

秋山眞之は、小田原の別邸にいた山縣有朋にお願いに行った。
画像は、眞之が、大正7年2月4日逝去した場所、山下汽船社長の小田原の別邸で、ここで逝去した。

この屋敷で、辞世の句、「不生不滅明けて烏の三羽かな」で・烏の三羽は、正岡子規・清水則遠・秋山眞之のことである。

そして、山下亀三郎氏に世話になった、家族のことを宜しくお願いしますといって旅立ったと言われている。

享年49歳の若さであった。
次期、日本海軍連合艦隊司令長官候補と言われていた人物であった。

撮影の準備時間の間に、秋山兄弟生誕地の記念にと、竹下景子さんは色紙にサインを揮毫して頂きました。

竹下景子さんは、何時も公務で外出する時は必ず落款を持参しておられるそうです。

画像は、「坂の上の雲」秋山 貞 役と揮毫され サイン用の竹下景子と署名をして、落款を押印された。

では、これから番組紹介用の撮影開始、深呼吸をして気持ちを引き締められた。

お付きの女性と目線があった。

竹下景子さんお付きの二人の女性のうちのお一人と撮影場所に移動!!

さー撮影開始。

カメラが回る前に、皆さんこれから撮影しますから合図があるまでは静粛にお願いしますと撮影スタッフから指示があった。

いい表情で撮影が始まった。

屋外の撮影は無事終了、次は屋内です。

秋山兄弟生家と庭での撮影風景。

秋山兄弟生家内で撮影、カメラを移動するレールの準備。

照明の様子を伺う撮影スタッフ。

撮影準備完了、お付きの女性が竹下景子さんのメークをチェック。

近所のみなさんが見学に駆けつけました。

秋山兄弟生誕地は、画像のようにビルに囲まれていて、松山城が近くにありますが、観光客は、大街道三丁目商店街を歩かれて松山城に行かれますのでこの道は歩かれません。

生誕地前の道は、あまり人通りは少ないが、撮影当日はご近所の方々が見学にやって来た。

藩政時代は、この一角は下級武士の屋敷跡であったが、現在は、ビルが立ち並び、木造建築は秋山兄弟生誕地の家屋だけで藩政時代の面影はない。

それは

昭和20年7月26日深夜から27日未明に掛けて、テニアン島・サイパン島から空飛ぶ要塞B29爆撃機110機が飛来し爆撃をうけ、松山の城下町は一夜にして焼土となり、藩政時代から明治時代の建築物は焼失してしまった。

これからの画像は「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」についてです。

全国の「坂の上の雲」愛好者から再放送をして欲しいとの機運が高まり、30、033人の署名を添付してNHK松山放送局に「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」の陳情を行った。

NHKはその希望を叶えて頂きました。

画像は、陳情に行った時の写真です。

右から、竹田祥一愛媛県議会議員・野志克仁松山市長・中村時広愛媛県知事・宮村泰司NHK松山放送局副局長・平松昇公益財団法人常盤同郷会理事長・宇都宮良治同常務理事です。

全国の「坂の上の雲」愛好者から再放送の機運が高まり、30、033人の署名簿です。

そして

NHK松山放送局は、TVニュースで報道する前に、松山放送局から内示として

「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」決定の資料が秋山兄弟生誕地事務局に送られてきました。

「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」のポスター。

再放送は、平成26年10月5日(日)から平成27年3月29日(日)で放映時間帯は、正午から45分・全26回と決定された。

放映する映像は、本放送の時の映像をそのまま放映するのではなく、再放送するための編集が必要であった。

本放送は、3部構成、全13回。1回90分で制作されていたが、再放送は、1回45分全26回に編集され放映された。そして放映される電波は、BSプレミアムで毎週日曜日正午からであった。

「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」のポスター裏面。

松山市歩行町二丁目にある秋山兄弟生誕地には、署名活動にご支援して頂いた方々に再放送決定の通知とお礼のポスターを掲示した。

愛媛県下一番の商店街、松山市湊町商店街(通称。銀天街)には、各商店がこぞって「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」のポスターを掲示し祝い歓迎した。

県下一番のL字型商店街、松山市湊町商店街(通称。銀天街)各店舗が「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」のポスターを掲示し祝い歓迎した。

銀天街商店街に掲示された「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」のポスターは壮大な風景であった。

そして、もう一つの愛媛県県下一番の商店街、L字型商店街「大街道商店街」には大きな「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」のポスターを掲示した。

L字型商店街は、北側口には、三越松山店が、西側口には、いよてつ高島屋があり商店街がL字型で繋がっている大型商店街で、大街道商店街は、毎年8月開催される全国高等学校俳句大会(通称・俳句甲子園)の会場となる広い通りの商店街である。

L字型の両商店街には、アーケード(屋根)が付けられている。

 

それから、JR四国は、特急「しおかぜ号・いしづち号」に「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲放送」の、ラッピング列車を運行した。

地元紙、愛媛新聞も、「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」を大きく報道した。

NHKが今世紀最大のスペシャルドラマ坂の上の雲の放送・再放送を松山市民全体で喜びを表し喜んだ証であった。

今後この様な喜びはないかもしれない!!出来事であった。

 

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