幕末、276の藩あり、そのうち城持ち大名は135藩で城には天守があった。
明治6年2月、政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。
存続を願い、伊佐庭如矢は、大蔵卿大久保利通に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと存続を上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿木戸孝允は公園化を条件で認め存続の許可が下りた。
松山城を含め政府は19城の天守の存続を認めた。先の大戦で6城の天守が焼失、松前城天守は火災で焼失、残った12城が現在の「現存12天守である。」
松山城は
幾人かの努力により、災難を乗り越え、保存修復を繰り返しながら存続している現存12天守の一つ松山城天守です。
近々では、平成16年10月19日から文化庁の指示指導に従い、天守他4棟の保存修理「平成の大修復」工事が行われた。
その時の様子を画像で回顧してみましょう。
保存修復工事は、平成16年6月から始まった。
先ずは工事用足場が必要です。現在、足場は鉄製ですが、以前は丸太を組合わせて、8番線の特殊な針金を特殊工具一本で職人さんが手際よく括り留めて造っていた。
保存修復工事に必要な資材を運び上げる道路も整備し、資材置場は本壇天神櫓南塀の下にある広場を使った。
足場の建設が完備され安全保護用のネットが張られた。
天守は工事中でも観光が出来たので、観光者の安全を護るためその安全には最大の注意をはらった。
本壇、築竹門東塀からの天守で、足場が設営されていった。
本壇、築竹門東塀からの天守南面。
足場を設営する作業員。
手前の作業員が居る所は、三ノ門南櫓。
天守最上階からの画像で、作業用足場を組み、作業台を造り工事は始まった。
工事は、天守を観光する観覧を受け入れしながら作業は進められた。
作業台には、剥ぎ取った古い瓦等が置かれ、地上に降ろすまでの仮置場である。また新しい瓦等の置き場になる。
天守は、瓦・漆喰の壁等を剥ぎ取ると、軒桁の中はこんな状態に腐食していた。
天守の垂木もシロアリで傷んでいた。
天守軒桁の漆喰の中もこんな状態、今回の大修理は漆喰壁も剥し新たにやり変えた。
天守三階屋根の野地板で、腐食がある板のみ取外し新しい板と取替えた。
天守二階の屋根瓦の下は画像のようになっている。
作業手順は当時の技法の通りに修復していく。
天守保存修復工事記念の行事が天守中庭で行われた。
天守に新しく揚げる瓦に氏名を記載する「あなたの名前を松山城に残しませんか」のイベントです。
「あなたの名前を松山城に残しませんか」の受付風景。
観光に来られた方が記念に氏名を記載された。
県内外から来られた2万人の方々の氏名が書かれた瓦。
瓦は愛媛県今治市菊間瓦で、京都御所にも使われた優秀な製品で有名な瓦である。
その中に、当時松山市長であった中村時広さんも名前を書かれていました。
現在は、愛媛県知事として活躍されていて、今は新型コロナ蔓延防止のために日夜尽力されています。
愛媛県の中でも松山市の蔓延が多く、蔓延防止等重点措置が実施されることとなり、令和3年8月20日から9月12日まで、松山城・道後温泉を休館することを決定した。
皆さんの名前が書かれた新しい瓦が葺かれ、漆喰で仕上げていく。
天守最上の屋根には新しく製作された「鯱」と三つ葉葵の鬼瓦が上がった。
鯱の製作者は、奈良市の小林さんで、小林さんは文化庁の文化財選定保存保持者で鬼瓦職人の第一人者である。
鯱には「雄の鯱」と「雌の鯱」があり、画像は雄の鯱・・松山城天守の鯱の愛称を募集した結果「雄鯱を・天丸」「雌の鯱を・まつ姫」と決定した。
天守の瓦の葵の紋は、松山藩第3代目から徳川親藩になります。
3代目藩主が、徳川家康の異父同母の弟の嗣子、松平定行が伊勢国、桑名藩から入府しますので葵の紋になりました。
初代藩主:加藤 嘉明「カトウ ヨシアキ」外様 20万石 家紋:蛇の目
2代藩主:蒲生 忠知「ガモウ タダチカ」外様 24万石 蒲生氏郷の孫 家紋:左三ツ巴
3代藩主:松平 定行「マツダイラ サダユキ」親藩 15万石 家紋:三つ葉葵
平成18年12月3日、午前10時30分に伊予水軍太鼓を合図に、平成の保存大修復の完成式典が本丸広場で行われた。
平成の大修復で化粧替えをした天守をバックに完成式典に馳せ参じた東雲神社の神輿と担ぎ手達。
平成の大修復工事完成祝に駆けつけた松山市民。
平成の大修復で新装なった松山城天守・・小天守から撮影。
安政元年に復興されました国指定重要文化財「松山城天守」は度重なる苦難を乗り越え(火災・地震・台風等々で)破損がひどく、平成16年12月から文化庁の指示に従い保存修復工事を実施した。