秋山好古揮毫石碑の取材で一番苦労して探した石碑である。
松山市河中町在住の方から両新田神社に、秋山好古揮毫の石碑があります、と連絡を頂いた。
その時、神社の鳥居にありますとは連絡はなかった。
早速神社に行き、記念碑の所在を境内くまなく調査したが碑はなく、あきらめて取材のカメラや三脚を片付け境内を出て鳥居を潜りふと振り返ると、なんと鳥居の社号額が好古の揮毫碑であった。
その時声が聞こえた感じがした。
「仙波君、私が揮毫したのは社号碑でここにあるよ。振り返ってみなさい」と好古さんが囁いた言葉が聞こえたように感じた。
それ以来、地上はもとより、空間にも気を付けて探すよう心がけている。
好古が揮毫した鳥居の社号額は2基ある中の一つである。
1.碑 文 :両新田神社
2.所 在 地:松山市河中町295番地「両新田(りょうにった)神社(じんじゃ) 鳥居」
3.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:記載無し
5.建立年月日:大正14年
6.社号額大きさ:縦・80㎝ 横・50㎝ 厚み・15㎝
両新田神社の由来:
南北朝時代(1336年~1392年)、関東地方の武将新田義貞の三男・新田義宗と義弟、脇屋善治は各地を転戦したが、応永10年(1403年)11月、四国に落ち延び、当地山麓で死亡したと伝えられる。
義宗と善治が戦死した場所には諸説がある。しかし後年、両将を弔うため、源氏系の伊予の武将河野通直は天文17年(1548年)3月18日、二廟を建立し「上新田廟」「下新田廟」としたが、その後二廟は合祀され「両新田神社」と改めた。
鳥居にある「両新田神社の社号碑には新田氏の家紋「一つ引両」が書かれている。
鳥居をくぐり一礼して神社の聖域に入り、注連石の奥に「両新田神社」の石碑が目に入った。
この石碑が好古さん揮毫の石碑と思い、近づきよく見ると違っていた。
そして境内をくまなく探すも見つからなかった。
両新田神社の社号碑の揮毫は、秋山好古以外の方であった。
石碑散策の中で大きな椿の木を見つけた。
昭和48年8月19日、松山市指定の天然記念物で、愛媛県第一の大きな「ヤブツバキ」である。根回り5,1m、高さ10m、枝張りは東西に13m、南北に14,5mの樹形で4月終わり頃の花盛りには、全株無数の花に被われ見事な美しさである。(松山市の文化財より引用)
この椿は「新田椿」とも呼ばれ、南北朝時代、上野国で戦いに敗れた新田義宗・義弟の脇屋義治らが四国まで落ち延びてきた時の悲しい伝説がある。義宗が遠路の旅の疲れで歩くのもままならぬ様子をみて、家来が道脇の木を切りそれを杖にした。義宗は杖にすがり歩き、ようやくこの地までたどり着いて、杖を地にさした。ところが木は根を張り、芽がでてやがて立派に育ったのがこの椿と言われている。(伊予路の文化より引用)
松山市・松山市教育委員会が設置している「市指定・天然記念物・ツバキ」の説明板。
境内には、新田義宗が腰を掛けて休んだと言われる「義宗腰掛けの石」がある。
記念碑の所在を境内くまなく探すも碑はなく、あきらめて取材のカメラや三脚を片付け境
内を出て鳥居を潜りふと振り返ると、なんと鳥居の社号額が好古の揮毫石碑であった。
その時「仙波君、私が揮毫したのは社号碑でここにあるよ。振り返ってみなさい」と好古さんが囁いた声が聞こえたように感じた。
さて、両新田神社のある、松山市河中町では、毎年お盆の8月15日に川施餓鬼が行われている。
この地区の戦いで戦死した七人の武将の霊を供養する祈祷が行われる。
今から436年前、天正13年(1585年)土佐の長宗我部元親は四国統一のため伊予国に侵攻、伊予国守護、河野通直の居城、湯築城(現、道後公園)の支城、奥之城がこの地域にあった。土佐国(長宗我部軍)との合戦時、この地区を流れる石手川で激戦となり、同城7人の武将達は深手を負い石手川で戦死した。
この7人武将の魂を慰めるための供養行事が川施餓鬼である。その後、豊臣秀吉の四国平定の戦いに、小早川隆景を伊予国に配し平定後、伊予国守護は小早川隆景となり、その後福島正則が守護となりが正則は居城を今治に移し湯築城は廃城となった。
川施餓鬼は、明治天皇が崩御された時に中止されたが、平成4年に日浦公民館主催行事とした復活した。
川施餓鬼の見せ場は、7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぎ、鐘や太鼓に合わせて石手川を練り歩き、武将の供養と五穀豊穣・無病息災を祈願する。また当日は、魚のつかみどり大会や、お楽しみ抽選会も合わせて実施さる。
地区には、両新田神社があり、新田義宗・脇屋善治両名の供養も合わせて行われているのではないでしょうか。
川施餓鬼行事は、コロナが蔓延している折中断されています。
祈祷が終わると、地元日浦小学校の生徒たちが打ち鳴らす伊予水軍太鼓で行事が始まる。
武者幟は、高さ12m、重さ30Kgあるので担ぎ移動するのは大変である。
武者幟は、下部から約1m位な場所に孟宗竹を十文字にくくり付け4人が担ぎ川を上り移動する。そして重心を保つために先端に縄を四方に張り、幟が倒れないようにバランスを取る。
武者幟を4本の引縄でバランスを撮る、担ぎ手とロープの引き手の阿吽の呼吸が必要で、画像のように傾くと元の姿に戻すのは一苦労である。
武者幟が最終地点に達すると、その後は子供たちが楽しみにしている「魚のつかみどり大会」や「お楽しみ抽選会」が合わせて実施さる。
松山市河中町(日浦地区)は、山間の集落で松山市の一番北東の地に有り、隣接は今治市である。
ここからは、両新田神社縁の新田神社がある、群馬県太田市金山町、金山城跡に行ってみましょう。
画像は、平成24年5月22日、神奈川県平塚市にある秋山好古揮毫石碑取材の前日に行った時の画像です。
金山城、南曲輪にある日本100名城認定記念碑で、平成24年5月22日に撮影した。
神奈川県平塚市に秋山好古揮毫の石碑が発見され、その取材にお世話になる平塚市の添田氏と日時の約束をしていた。
一日速く松山を出て日本100名城巡りをするため、群馬県太田市にある金山城と、栃木県足利市にある第15番、足利氏館(鑁阿寺)と足利学校を見学した。
金山城は、日本100名城第17番目の指定で、私は79番目の紀行である。
東京駅から上越新幹線で高崎駅下車、それからJR両毛線で伊勢崎に東武伊勢崎線で群馬県太田市に11時19分に着いた。この頃から雨天となりその後雨は降り続いた。
太田駅からタクシーで金山城&新田神社―タクシーを待たせておき足利氏館&足利学校見学、この日は東京を発つ時は曇天だったが太田市に着く前から雨天になった。
太田駅からタクシーで金山城まで、駐車場でタクシーを待たせ約1時間30分雨天の中を散策し休憩所に置いてある100名城スタンプを押した。
皆さん、スタンプの保管状態が悪いと悪評判であったが私が行った時はいい状態であった。取り替えたのだろう。
直ぐ傍にある新田義貞縁の「新田神社」をお参りし駐車場に下山、太田駅に出て東武電車で足利市駅経由で足利氏館に行くよりは、タクシーで直接移動した方が時間の無駄が無いと思いタクシーを利用した。
タクシーの運転手さん、日本100名城第15番、足利氏館跡の所在一をご存じでなく無線で確認して行ってもらった。
結構タクシー料金は高かった。運転手さんは、長距離有難うございます・・この後もいい旅が出来ますようにとお見送りの言葉が帰ってきた。
この日は、東京スカイツリーの営業開始日で、大安であった。
境内には新田義貞一族の系図が表示してあった。
石段を上がるといよいよ新田神社が見えてくる。鳥居を潜り一礼して境内に入る。
雨天で、標高の高いところうにある新田神社は霧がかかり幻想的に拝殿が見えた。
新田神社拝殿。
新田神社のある金山城は、中世の城跡でどの城も土で造られていたと言うことが通説であるが、金山城は、沢山の石垣が残っており、その保存手入れが行き届き中世の城跡とは思えぬ遺構である。
金山城の休憩所には「イノシシ注意」の張り紙があった。・・休憩所に入ると若いカップルが雨宿りしていた。・・その二人から何処から来られましたと、問われ、四国愛媛県松山市からと応えると、遠路ご苦労様と労いの言葉を頂き、お城巡りですか、よければスタンプ帳見せて欲しいとの由、凄いですね金山城は何城目ですか・・79城目です。・・後少しですね頑張って100名城達成して下さいとエールの言葉が返って来た。
金山城からタクシーで、日本100名城第15番、足利氏館(鑁阿寺)に移動。
画像は、足利氏館跡と足利学校の位置関係。
日本100名城第15番、足利氏館(鑁阿寺)と足利学校を見聞し、東武伊勢崎線、足利市駅発15時43分「特急・りょうもう30号浅草行き」で16時55分に東京スカイツリー駅で下車、スカイツリーのライトアップを撮る予定であった。
行動は予定通りだったが、天候は違った・・生憎雨天となった。
吾妻橋から片手で傘を持ち片手でシャッターをおした・・上部は雲の中、殆どスカイツリーは雲と霧とで確認できず・・下部が少し見えるだけであった。
雨天だったので諦めてホテルに帰った・・ホテルの窓には横殴りの激しい雨が降っていた。
夜風が出たので雲が途切れたのか、翌日の新聞画像には午後7時9分撮影とあった、雅でライトアップされた綺麗な画像が載せてあった。
プロのカメラマンは必ず見えることを信じ待機していたのだ。・・流石プロ!!
開業日の特別演出として、通常営業では一日交代点灯で「粋」と江戸紫の「雅」が日替わりでライトアップされる計画ですが、開業記念に30分毎に切り替え点灯されたそうだ。・・撮れなく残念!!
平成24年5月22日、営業開始した東京スカイツリーで、画像は、営業2日目の23日に撮った。
営業開始日は、本降りの降雨で東京スカイツリーは雨雲に遮られ見えなかった。
報道関係者のカメラマンたちは、雲が途切れて必ず見えることを信じて待機していた。
趣味で撮る私としてはカメラを雨に濡らすわけにはいかないし現状では見えるとは思わなかった。・・営業2日目は、天候はよかった。
営業開始2日目(平成24年5月23日)の東京スカイツリー、高さ634m。
二日目は天候は回復しよく見えた。