EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その12 NHK松山放送局 「碑文に残された好古の思い」

2021年05月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

秋山兄弟生誕地に展示された秋山好古揮毫の石碑写真展。

NHK松山放送局 放送部編成専任部長・阿部さんは、秋山兄弟生誕地に来られて好古揮毫石碑写真展示をご覧になり話された。

秋山好古については、いろんな資料が数多く残っているが、好古が揮毫し全国に存在する石碑調査をこれだけ綿密に調査していることに驚き、そして揮毫から建立に至るまでの経緯が詳細に記されている事が貴重なものだと評価して頂いた。

そして、番組を編成企画し制作立案しましょうと言って頂いた。

遂に番組制作が決定しロケが行われることになった。

放映は、スペシャルドラマ・坂の上の雲第3部が始まる前に、現地ロケを行い放映することに決定した。
この時点で好古揮毫の石碑は全国に48基が発見されていた。

NHK松山放送局が制作して頂き放映されたタイトルは⇒「碑文に残された好古の思い」となった。

私は、番組編成部長の阿部さんの指示にしたがい、私が取材撮影した48基の石碑画像と説明文をCDにコピーして送った。

ロケ収録は、平成23年10月20日に決定、午後2時にNHK松山放送局に来るよう連絡があった。

放映は時間に制限があるので、現地での収録は、ニヶ所の石碑にみとなった。

一つは、松山市神田町1番7号、厳島神社にある「表忠碑」で、もう一つは今治市大西町山之内の石碑は「衆心和暢化乃成」である。この日は雨天で雨の中のロケ収録であった。

現地収録第一現場、松山市神田町1番7号、厳島神社にある「表忠碑」で、収録については事前にNHK松山放送局が、厳島神社に許可を取っていた。

私が持参するものは、石碑取材に使ったカメラを持参するようNHK担当者からあり、雨天決行ですと連絡があった。
そして午後2時にNHK松山放送局舎に来るよう連絡があり、NHKの車で現地に移動した。

当日は、雨天であったのでカメラさんは雨合羽を着用し、スタッフに傘をさしてもらっての撮影となった。

放映されたのは、スペシャルドラマ・坂の上の雲第3部が始まる前の平成23年12月16日から坂の上の雲第3部放映の紹介を兼ねて数回放映された。

雨天の中収録は始まった。

松山市神田町1番7号、厳島神社境内にある「表忠碑」。

厳島神社は境内が広く、この広い境内に合わせるかの如く大きな立派な石碑です。

神社は、松山の秋祭りのなかで、市内で一番早い宮出しと神輿の鉢合わせが行われる有名な神社である。(暁の宮出しと言われ早朝4時に境内で鉢合わせが行われる。)

松山市神田町1番7号、厳島神社境内にある「表忠碑」で天候が良い日に私が撮った石碑で秋山好古揮毫の石碑の中(53基)一番大きな石碑、高さ4m63cmある。

石碑の概要

1.碑   文 : 表忠魂

2.所 在 地: 松山市神田町1番7号 厳島神社

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 裏面に世話人8名の記載有り判読困難

5.建立年月日: 記載無し 

6.碑石大きさ: 高さ 4m63㎝ 横幅 2m50㎝ 厚み53㎝

「表忠碑」の裏面で、三津浜地区から日清・日露戦役に出征し、戦病死された264柱の氏名が合祀され記載されている。

 

松山市神田町1番7号、厳島神社の表忠碑の収録が終わり、次の収録地今治市大西町山之内薬師堂に移動、距離は松山から約40kmあり1時間程掛かる。今治市大西町に着いたのは午後4時30頃で雨天なので、周囲は霧が掛かりすこし薄暗い状態であった。

私は、編成部長の阿部さんに採光が良くないですが綺麗な画像が撮れますかと伺うと、雨天の画像も情緒があっていいですよ、腕のいいカメラマンですからと返事が帰ってきた。

腕のいいカメラマンと、使用するカメラは業務用仕様のカメラですから問題なかった。

放映された画像をTVで見ましたが流石プロの画像だと改めてその凄さを痛感した。

予定の収録も無事終わり松山のNHKに帰ったのは、午後6時過ぎであった。

今治市大西町に着いたのは午後4時30頃で雨天なので薄暗い状態での映像でレンズに雨粒が写っていた。

映像「碑文に残された好古の思い」の語りは、NHK松山放送局アナウンサーの田中紀英さんでした。

※碑文=衆心和暢化乃(しゅうしんわちょうかだい)成(せい)とは

衆心⇒みんなの心が 

和暢⇒やわらぎのどかであれば(のびやか) 

化⇒教育は 

乃⇒まさに(間違い無く)  

成⇒実ってゆく 

NHK松山放送局編成部長・阿部さんは、現地収録に二つの石碑を選んだのは、一つは日本の國を左右する大きな戦い、日清日露戦役で戦病死された方々を敬う表忠碑ともう一つは、地域の発展には老若男女の教育が必要である。この事を考えて選定されたんだと私は考えた。

秋山好古は陸軍大将まで上り詰めたが、人生の出発点は、福沢諭吉の学問のすゝめを読み教育の必要性を鑑み、大阪師範学校(現・大阪教育大学)を卒業し名古屋師範学校(現・愛知教育大学)の付属小学校の教師として社会に出ていった。

郷土の先輩、和久正辰(名古屋師範学校教務官)と名古屋鎮台山本忠昭武官の強い勧めで陸軍士官学校に入学し日本の騎兵隊を創設し、日本騎兵の父と言われた。

その後大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。
大元帥は元帥を辞退した秋山大将に、特旨として官位従二位を与えた。

好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊予松山から要望に答え北豫中学校長として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し同年3月北豫中学校長を辞任した。
同年11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。

最後は、教壇に立ち北豫中学校長として故郷のために尽くした。

番組「NHK松山放送局制作・碑文に残された好古の思い」はこの画面から始った。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑で、日清戦役で戦死をした秋山好古の騎兵隊員15名が戦死その哀悼の意を籠めて秋山好古自身が建立した。

画像の大きな石碑の右側の小さな石碑である。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑の碑文。

新潟市江南区沢海にある忠魂碑で日本海側に発見された貴重な石碑である。

新潟日報・愛媛新聞にも大きく報道され、NHK松山放送局も現地取材をした。

何故新潟市にあるのかは、日本騎兵育ての父秋山好古が、短い期間であったが新潟県高田市に大正2年1月15日、第13師団長として着任していた。

当時揮毫嫌いとして有名であった秋山好古に揮毫してもらうには、新潟県知事から揮毫を頼むしか手立てはないと、新潟県中蒲原郡横越村(現、新潟県新潟市江南区)神田又一村長は考え、伊澤多喜男新潟県知事に「忠魂碑」の揮毫を秋山好古に依頼してもらった。

伊澤知事の前任地は愛媛県であり秋山好古とは懇意の間柄であった。

そして石碑は

新潟市江南区沢海にある北方文化博物館・神田勝郎館長の努力で平成26年3月13日、新潟市民文化遺産に認定された。

その後NHK松山放送局は新潟市江南区沢海日枝神社にある(北方文化博物館に隣接する日枝神社境内にある秋山好古揮毫の忠魂碑)石碑を取材している。

註1:第13師団は大正2年4月12日、新潟県高田市から満州遼陽に移転、そのため第4代師団長秋山好古は渡満する。新潟県高田市には僅か2ヶ月間しか居なかった。

註2:伊澤多喜男新潟県知事は前任地愛媛県知事時代、住友別子銅山の精錬所から出る亜硫酸ガスによる農作物煙害が大きな課題となっていた。この大問題を解決した。その後新潟県知事・警視総監・台湾総監・東京市長等々の重職を努め活躍された。

秋山好古揮毫した石碑・忠魂碑が、北方文化博物館神田勝郎館長さんの働きで、平成26年3月13日、新潟市民文化遺産に認定された認定書である。

秋山好古は、郷土の先輩、和久正辰(名古屋師範学校教務官)と名古屋鎮台山本忠昭武官の強い勧めで、明治10年陸軍士官学校騎兵科に入学し日本の騎兵隊を創設し日本騎兵の父と言われた。

郷里の伊予松山からの強い要望に答え北豫中学校長として、大正13年3月から昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し同年3月北豫中学校長を辞任し同年11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在、東京青山霊園に眠っているが、北豫中学校長時代一切軍服を着ることはなく、軍人時代の話を一切しなかった。

軍馬慰霊之碑。

最後の揮毫となった石碑が、千葉県船橋市にある陸上自衛隊習志野駐屯地基地内に「軍馬慰霊之碑」が昭和5年10月5日に揮毫されこの筆が絶筆となった。石碑は同年11月建立された。

昭和11年11月1日、東京市麹町区丸ノ内二丁目18番地、秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」である。

この秋山好古の背文字は、陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」を写したものである。

秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」は「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」の署名写したものである。

伊予松山城天守から撮った北豫中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)。

北豫中学校校長として活躍し、好古校長が赴任してから校風がガラッといい方に変わったそうです。

好古校長は、出張以外は大正13年3月から昭和5年3月迄の6年間、松山で一人で生活をし、一日の休暇も取らず校長職を貫いた。

秋山好古が北豫中学校校長時の卒業証書。

肩書に従二位と官位が記載されているが、教職員がこの官位を持つものは秋山好古ただ一人である。

北豫中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)から見た松山城天守。

現在の愛媛県立松山北高等学校で、秋山好古校長資料館の前で秋山好古校長を偲ぶ在校生。

 

秋山好古、無言の教訓・無為の感化

北豫中学校長時代の秋山好古は学校到着は、毎朝決まって始業20分前。
好古の通勤する姿を見て沿道の人々が時計を合わせ直したという話まである時間厳守。
欠勤の教員がいると、好古自身ができるだけ代講を務め、休講になってしまうのを極力避けようとした。
たとえば、西洋史の教員が欠勤の時、好古は、英語で書かれた歴史書を教室に直接持って行って、その場で翻訳しながら生徒に語って聞かせたという。

漢文は、伊予松山藩藩校、明教館仕込み、英語・フランス語にも堪能で、獣医学をはじめ自然科学にも明るかったので、たいていの科目の代講を務めることができたようである。

校長がこのようであるから、学校全体が引き締まり、生徒の欠席や教職員の欠勤も随分と減っていったとある。

 

愛媛県西条市の幻の記念碑

北豫中学校長在任中、西条市から一級河川「加茂川」の改修工事が完了したのでその記念碑を建立したいので文字を揮毫してほしいと頼まれ快く引き受けた。
そしてその記念碑が完成したので竣工式を行うので臨場の連絡があり、且つ農民の為になるような講演を頼まれた。

好古は、延々と2時間農事に関する最近の事情、農耕に関する新式の方法等にも及ぶ話をした。

聴衆一同すっかり驚いた。

しかし「加茂川」の改修工事が完了の記念碑の所在が今持って不明である。もしかしたら暴れ川加茂川が反乱した時に石碑は倒壊埋もれたのか?未だ不明である。

加茂川は改修工事後も反乱している。

西条神社の宮司さんと一緒に石碑を捜索したが発見できなかった。久松定武愛媛県知事時代の改修工事記念碑はありましたが。

NHK松山放送局制作の「碑文に残された好古の思い」の終わりの画像。

そしてスペシャルドラマ坂の上の雲、第3部の紹介画面が流れた。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋山好古揮毫石碑・取材にご... | トップ | 秋山好古揮毫石碑・取材にご... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で」カテゴリの最新記事