EEKの紀行 春夏秋冬

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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その13 愛媛県今治市大西町の石碑

2021年05月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今治市大西町の石碑情報を頂き、お世話になった方は私の知人で、今治市史談会でご活躍されている「菅 正憲氏」である。

菅 正憲氏は、松山市史談会の会合によく参加されており、その都度秋山兄弟生誕地にも訪れよく懇談した。

紹介します石碑は、漢詩で碑文を揮毫しており好古が揮毫した石碑53基の内この石碑のみで非常に貴重な石碑である。

NHK松山放送局が制作した番組「碑文に残された好古の思い」で取材された石碑である。

ある時
菅 正憲氏から連絡があった。

今治市大西町にある秋山好古揮毫石碑は調査済みですかと連絡が届いた。

未だ取材はしておりませんので詳細な所在地と、碑文をお教えくださいとお願いの返信をした。

直ぐに詳細な情報が送られてきた。

同時に秋山氏の祖先は今治の出で、ある神社に秋山氏の社が有り、秋山一族は毎年小規模ではあるが祝祭をしていますと・・この事も添えて連絡があった。

秋山氏の社は次回の機会にブログに掲載します。

大西町の石碑。

碑文を漢詩で揮毫した石碑はこの碑「「衆心和暢化乃成」1基のみである。

衆心和暢化乃成の意味はこのあと説明します。

なお、揮毫の肩書には陸軍大将とは書かれていないのは、好古は昭和4年に陸軍大将を退役し軍人でなくなっていたからである。

秋山好古夫妻で右が妻、多美さんです。

好古は、足の状態が思わしくなく昭和4年北豫中学校長を辞任するつもりで、東京から奥さんの多美さんを松山に呼び住居の整理やお世話ななった人達に夫婦で挨拶をし、辞任届けを提出東京に帰る支度をした。

辞表を井上要理事長に提出するも受理されず辞任は1年延長された。

秋山好古の略歴

安政 6年:1月7日、伊予松山藩徒目付、秋山平五郎久敬の三男、名は秋山信三郎元服して好古となる。                      

明治 8年:大阪師範学校入学(現、大阪教育大学)(17歳)

明治 9年:同学校卒業、名古屋師範学校(現、愛知教育大学)附属小学校教諭(18歳)

明治10年:同校依願退職し陸軍士官学校騎兵科入学(19歳)

明治16年:陸軍大学校第1期生として入学(25歳)

大正 2年:第13師団長(新潟県高田)この時に新潟市の石碑「忠魂碑」を揮毫(55歳)

大正 3年:近衛師団長(57歳)

大正 5年:陸軍大将(58歳)

大正 9年:教育総監(62歳)

大正12年:元帥に推薦されるも之を辞退・大元帥から特旨として官位従二位を拝命(65歳)

同   年:予備役

大正13年:北豫中学校長就任(66歳)

大正14年:後備役(67歳)

昭和 4年:陸軍大将退役(71歳)

昭和 5年:北豫中学校長辞任(72歳)

同   年:11月4日逝去

秋山信三郎好古の信条は

簡単明瞭質素倹約 清く正しく心豊かであれ・・そして元気な間は働けであった。

母の教え⇒大きくなったら「世のため、人のため、故郷のために尽くせる人になるようにと躾けられた。」

新潟市の北方文化博物館、第7代故・伊藤文吉館長は、江戸時代の武士の教養を身に付けた、現代日本では見られない風格を感じる人物と称され、今日本に必要とされる人であると言われた。

28センチ榴弾砲をバックに小島要塞研修会

ここからは、平成25年4月8日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしている研究員18名の館外研修会が毎年開催されており今回は、今治市来島小島にある芸予要塞跡・今治城・好古揮毫石碑の研修の回顧である。

現地案内説明は、私の知人・今治市史談会の菅正憲氏にお願いした。

先ず

小島の芸予要塞跡から始まった。

日露戦争で203高地奪回に苦労していた乃木希典第3軍司令長官の指揮をみていた児玉源太郎・満州軍参謀長は、満州軍総司令長官・大山巌の許可を得て小島の芸予要塞にあった28センチ榴弾砲2基を移設し、これを持って203高地を攻略した。

瀬戸内海来島海峡にある芸予要塞・小島。

今治市小島に展示保管されている「28センチ榴弾砲」。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部「二〇三高地」のロケで使われた実物で、ロケ終了後記念にとNHKは松山市に贈り、松山城ロープウェイ山麓駅舎2階広場に展示した。

その後今治市から28センチ榴弾砲はもともと小島芸予要塞にあったものだから今治市に譲ってほしいと請願された。
松山市は、関係者と相計い、今治市に譲ることとした。現在は小島港に展示してある。今治市は元あった所に移設することも考えたが、心無い者により傷つけられてはいけないと考え誰もが監視できる港に設置した。

今治市小島に展示保管されている「28センチ榴弾砲」説明板。

松山城ロープウェイ山麓駅舎3階広場に展示してあった当時の28センチ榴弾砲。

28センチ榴弾砲の大きさは、実物大で、全く鋼鉄で製作されているように見えるが、実は強化プラスチック製で、製作は映画撮影機材を造る京都市の専門会社で製作された。

本物の大砲は、瀬戸内海にある小島に設置されていたが児玉源太郎が大山巌の了解を得て旅順に運び203高地を攻略した大砲である。

展示場所は、松山城ロープウエイ東雲口駅舎3Fに展示してあった。人と比較して大きさを見て下さい。

小島砲台28cm榴弾砲跡。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲第3部「二○三高地・後編」に出てくる28cm榴弾砲跡。

日清戦争以降、帝政ロシアが中国大連に総督府を置き、旅順に軍港を造るなど南下政策を強めるなか、来たる日露戦争に備え、国防力の強化が至上命題となっていた。
こうした時代を背景に、瀬戸内海の交通の要衝、来島海峡にある小島では、明治31年の陸軍省告示により、30万円(当時)の巨費を投じて、翌32年から軍事要塞の建造工事が始まった。島の南部、中部、北部の順に砲台が築かれ、合計16門の大砲が設置された(明治35年工事完了)。
小島砲台にあった28cm榴弾砲のうち2門は、日露戦争(明治37~38年)において、実際に旅順に運ばれ、同地攻略に大いに力を発揮した。

画像は

小島芸予要塞でこの位置に28センチ榴弾砲が設置してあったその跡地である。

ロケに使われた28センチ榴弾砲は当初ここに設置する予定であった。

28センチ榴弾砲基地からは、視野不能なので小島山頂にある司令塔からの方位角度等々の指示を下して砲弾を撃つ。

画像は、小島芸予要塞司令塔跡。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部「二〇三高地」の映像。

小島砲台にあった28cm榴弾砲のうち2門は、日露戦争(明治37~38年)において、実際に旅順に運ばれ、同地攻略に大いに力を発揮した。

203高地は当初あまり重要視されなかったが、旅順港停泊中のロシア海軍太平洋第一艦隊(通称旅順艦隊)に砲撃しようとする際、着弾を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山眞之少佐が、この高地を攻略することを児玉源太郎、満州軍参謀長に進言した。
203高地から、旅順港が良く見通しが出来る高地で、日露戦争の決する重要な鍵を握る場所になった。

今治市小島に展示保管されている「28センチ榴弾砲」。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部「二〇三高地」ロケに使われた実物である。

芸予要塞での研修が終わり、次の研修地である今治城に移動した。

画像は、藤堂高虎の騎馬像と20万石であった今治城天守。

現在の天守は、今治初代藩主藤堂高虎が築城した天守とは違う望楼型天守で、何故か今治市は造った。

藤堂高虎が五重天守を創建したと伝わる形は、当時最新鋭の層塔型であったと言われており、高虎の伊賀・伊勢転封と同時に解体され徳川家康に寄進された。

家康は、これを丹波亀山城天守として使ったとのいわれがある。

現在の今治城天守は、昭和55年に市政60周年記念として本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守である。
藤堂高虎が創建した天守は、最新鋭の層塔型天守であったのに、専門家たちは何故今治市は望楼型にしたのか訳が知りたいと言われている。

今回最後の秋山兄弟生誕地研究員の研修地は、今治市大西町に建立されている好古揮毫石碑の見聞で研修は予定通り全て終了した。

この日は絶好の研修日和であった。

今治市大西町山之内の石碑。

1.揮毫碑文  :衆心和暢化乃成

2.所在地   :今治市大西町山之内小山「山之内薬師堂境内」

3.建立年月日 :昭和3年1月

4.揮 毫 者 :好古

5.建立者   :建設連名:代表 近藤 大作

6.碑石大きさ :高さ・3m30㎝ 横幅・1m60㎝ 厚み・13cm

参考資料1

碑石建立は、好古を最も尊敬していた、近藤大作氏が揮毫をお願いして標記碑文の碑を建立したと言われている。碑石の石材は花崗岩であるが石碑裏面に建立に関係した建設者36名・世話人8名の氏名が刻印されているが名前の読み取りが困難である。

 

 ※ 衆心和暢化乃(しゅうしんわちょうかだい)成(せい)とは

衆心⇒みんなの心が 

和暢⇒やわらぎのどかであれば(のびやか) 

化⇒教育は 

乃⇒まさに(間違い無く)  

成⇒実ってゆく 

出展ナシ 

地域を豊にするには、心から豊にしていかねばいけない、意識改革を起こしていくと新しい社会が生まれていく、それが教育の真髄。・・その意を籠めて好古は揮毫した。                    

参考資料2

近藤 大作は:
明治11年越智郡朝倉の古谷で長井家の次男として誕生し、愛媛県師範学校を卒業、小学校教員となる。
明治41年この地の近藤家の養子となり弓削小学校校長、大正3年新居郡視学・愛媛県視学と歴任。(現在の新居浜市・西条市)大正10年今治第二尋常高等小学校(現 美須賀小学校)校長に就任。
大正13年病気療養の為退職。(秋山好古北予中学校校長就任・松山で元内閣総理大臣、清浦奎吾氏との出会いの年)
昭和2年小西村村長に就任、昭和21年まで連続5期村長を務めた。

参考資料3
小西村は、藩政時代、伊予松山藩に属し明治になり町村制施行が行われ愛媛県野間郡小西村が誕生。その後明治30年越智郡に統合され愛媛県越智郡小西村となり、昭和30年大井村と合併し大西町となり、平成の大合併で今治市に吸収合併され現在に至る。

石碑建立は昭和3年(昭和天皇即位大典)、近藤大作が村長に就任して間もない頃、陸軍大将従二位の偉人であり教育者、そして北豫中学校長として名声高きの秋山好古を、近藤大作は尊敬していたので、この石碑建立にあたっては是非好古校長にとの思いで揮毫を依頼した。

秋山好古の信条、簡単明瞭・質素にして清く正しく心豊かであれ。そして世の為、人の為、故郷の為に尽くせる人間になるようにと、母貞から小さい時から強く躾をされた。
此れを胸におき人生を送って来たその生き方に尊敬の念を抱いていた、
近藤大作(小西村長)は、好古に揮毫を依頼し、好古も石碑建立の経緯を確かめ、その事に感銘をうけ好古オリジナルの漢詩で答えたのである。

石碑裏面に建立に関係した建設者36名・世話人8名の氏名が刻印されているが名前の読み取りが困難である。

近藤村長の思いは、小西村を住みよい村を構築せねばならない、それには村長が先頭に立って村民団結し、村づくりを行うには、基礎となる教育が必要。
現在の、学校教育、家庭教育、社会教育の充実で、そして昭和3年は即位の礼(御大典紀念)昭和天皇の誕生で元号も昭和となる。
その記念に村の座右の銘となる言葉を秋山好古北豫中学校長に依頼し好古は、近藤村長の意を汲み漢詩で「衆心和暢化乃成」を作り以って之に答えた。
近藤大作村長は、建立地は何時も村民の目に触れる所、薬師堂入口に建て村民教育を推進した。

石碑の上にある山内薬師堂で、ご本尊は薬師如来である。

薬師堂は、薬師如来を本尊とする仏堂の呼称である。
薬師如来が病気平癒の仏とされることから、製薬や医療の分野でも「薬師堂」の名前が使われることがある。また、薬師堂があった場所の地名となっているところもある。

小西村の村民の健康維持と村の平和、五穀豊穣を祈念して自分はもちろん、家の人などが長く治らない病気になったときにこのお堂に泊り込み、病気が治るよう薬師様にお祈りをしたのだと言い伝えがある。

その事を鑑み近藤大作村長この地に石碑を建立した。

薬師堂から見た石碑。

私が取材したのは平成19年であったが、当時は説明板が無く「衆心和暢化乃成」の意味が分からず、知人の今治市史談会・菅正憲氏にお願いしましたところ画像の説明板が設置された。

令和2年10月1日現在の全国に建立されている秋山好古揮毫石碑所在一覧である。

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