EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その11 愛媛県松前町北川原の石碑

2021年05月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今回の石碑取材にご協力頂いた方は、愛媛県伊予郡松前町北川原在住の大西宏和氏である。

大西さんは、元公益財団法人常盤同郷会理事・鷹尾氏の友人で、連絡頂いた石碑は、宏和氏の曽祖父、和一郎さんの「米壽記念碑」で、普段は屋敷内に建立されているから外から見ることは出来ない。

記念碑は、大西和一郎氏88歳・米壽のお祝いに家族が建立し、揮毫は秋山好古

にお願いした。

門を潜ると、主屋まで花崗岩で敷き詰められた石畳がありその途中に記念碑「米壽記念」がある。

米壽記念碑建立については、北予中学校に多大な支援をして頂いたお礼に好古は揮毫した。

個人の邸宅にある石碑は、令和2年10月現在53基の石碑が発見されているが屋敷内にある石碑はこの一基だけである。

一般の方は見る事が出来ない。石碑を見学するには主の許可が必要である。

主屋の玄関手前に、高さ1m53cmの立派な石碑が建立されている。

1.碑   文 :  米壽記念

2.所 在 地:  伊予郡松前町北川原347番地  大西 宏和氏邸宅内

3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:  大西 二郎

5.建立年月日:   昭和 4年 3月 「御大典奉祝記念」

6.碑石大きさ:   高さ・1m 53cm  幅・52cm  

 

大西和一郎氏は、

天保12年(1841)生まれで、好古より18歳年上である。

20歳の時、母と6人の子供をの残し父に死なれ苦労した。その後努力をして大西家の基礎を築きあげ、伊予郡役所に奉職し郡長の補佐役を務めるまでになり県知事からも認められる役人に成長した。

温泉郡生石村の立て直しを県知事に託され就任、村内種々の難問を解決、また地元の耕地整理にも多大な尽力をしされ、後年は政界、実業界に活躍された。

教育についても理解があり特に北予中学校については、秋山好古との関係で側面から多大なる支援したと言われている。

昭和4年4月 米壽お祝いを記念して石碑を建立したあとまもなく逝去された。

米壽記念碑建立については、北予中学校に多大な支援をして頂いたお礼に好古は揮毫した。

個人の邸宅にある石碑は、令和2年10月現在53基の石碑が発見されているが屋敷内にある石碑はこの一基だけである。

石碑側面に「昭和四年三月・北川原中」と刻印されていた。

大西家の家紋で、「米壽記念碑」の傍に置かれていた。

大西和一郎氏に迎えられた松山歩兵第22連隊旗とその旗手。

松山歩兵第22連隊は明治16年6月創設された。昭和2年伊予郡岡田村で22連隊の秋季演習時がありその時に際し第22連隊旗とその旗手が大西邸に宿泊した時の記念写真である。画像左から二人目が大西和一郎氏である。

22連隊長と連隊旗が宿泊した由緒ある家系で、歩兵連隊旗が個人の屋敷に宿泊するなど超珍しい事である。

陸軍歩兵第22連隊は、愛媛県松山で編成された日本陸軍の歩兵連隊で、数々の戦役に出征して武勲を重ね『伊予の肉弾連隊』と称され、日本軍屈指の精鋭部隊であった。

特に、日露戦争での奉天の戦いに参加して激戦を展開し、この当時の戦いぶりは、22連隊旗手・櫻井忠温中尉の戦記、肉弾は有名である。

また、大東亜戦争末期の、激戦沖縄戦では、22連隊から多くの戦死者を出している。

参考事項

明治22年町村施行により伊予郡大字西古泉・恵久美・大間・北川原・庄之内・上高柳・西高柳の7か村が合併し、伊予郡岡田村として発足。

昭和30年3月31日、 松前町と北伊予村が合併して伊予郡松前町となり、岡田村は自治体としては消滅した。

大西宅は、旧伊予郡岡田村大字北川原、現在は、伊予郡松前町で平成の大合併では、どの自治体とも合併はしなかった。愛媛県内で合併せず単独の道を歩んだのは、松前町と北宇和郡松の町のみである。ただし、松野町は合併を拒否している

わけではないため、その意味で愛媛県内で唯一、合併しない決断をした自治体である。

同町には、東レ愛媛工場があり、複合材料技術の開発部署も設置されており東レの炭素繊維・複合材料の生産・開発拠点であり、ボーイング787型機用の炭素繊維の生産が、日本では東レ愛媛工場で行われている。PAN系炭素繊維メーカーとしては、世界最大手である。

松前地区は、一級河川、重信川があり、伏流水が豊富で自治体領地には山も丘もない全国でも珍しく、農地は、耕地整理がされており農作物の耕作がやりやすくはだか麦の生産が県内第2番めである。

藩政時代、伊予松山藩20万石の初代藩主、加藤嘉明が以前居住していた城松前城(正木城)があった地で、加藤嘉明が徳川家康の許可を得て松山城を築城、居を松山城に移す際松前町の商人達を移住させた所が現在の松山市松前町である。

令和3年3月現在の人口は、30,491人である。

ここからは、道草をしてボーイング787型機にふれてみよう。

愛媛県伊予郡松前町にある東レ愛媛工場で生産されている炭素繊維(複合素材)を使い、次世代中型機としてボーイング社が制作した787型機(愛称・ドリームライナー)を世界で始めて日本で就航した。

平成25年1月16日から松山空港に駐機していたANAボーイング787型、JA811A機。機器の不具合が発覚し全てのボーイング787型は営業運行停止となった。

787型機には、愛媛県伊予郡松前町(松山市の南隣町)にある東レ愛媛工場で生産されている炭素繊維(複合素材)を機体に使い軽量化した結果、燃費がよく、揺れが少なく、騒音も軽減され機内も、照明はLEDにし窓も従来機の1,3倍の大きさにした。機内の湿度も高く設定でき、肌に優しく特に女性には喜ばれている。

ボーイング社と全日空の整備士が松山空港に来て点検修理をした。

松山空港は大きな格納庫がなく屋外で作業は行われた。

エンジンカバーを開けて詳細な点検。

エンジンは、ロールス・ロイス社製で、ロゴが表示されていた。

全日空は次世代中型機としてボーイング787型機(愛称・ドリームライナー)を世界で始めて日本で就航した。

平成25年1月26日山口空港発東京羽田行きの787型機が発煙トラブルで高松空港に緊急着陸、その後787型機は運行停止となり、松山空港でも一機が駐機し緊急修理した。

ボーイング社はバッテリーの交換、配電盤等々の修復等を施し試験飛行を重ねた結果、平成25年4月21日改修指示書が届き、22日から松山空港に駐機中の787型機もボーイング社と全日空15名の整備士が新しいバッテリーの交換やエンジンの点検をした。

改修作業は5月から6月はじめまで掛かり商業運航は6月中旬以降になった。
松山の787型機は改修が終わると試験飛行を兼ねて東京羽田に回送してから再度試験運航を行いその後の結果商業運航再開となった。

画像は、平成25年4月3日、撮影したANAボーイング787型機ドリームライナーである。

松山空港を離陸するボーイング787型機(愛称・ドリームライナー)。

羽田空港に向かって松山空港を飛びたったボーイング787型機(愛称・ドリームライナー)。

私、平成24年3月24日と同年10月28日に松山から羽田間にボーイング787型機に搭乗したが、この時は何のトラブルも無く快適な飛行であった。

機内の照明は、節電型のLEDが使われていた。

ボーイング787型機のトイレ、綺麗でした。

ボーイング787型機の主翼で他の飛行機よりも主翼が細い。機体が炭素繊維で仕上げてあり軽いから細くて大丈夫なのか?

撮影したのは、相模湾上空で雲がなければ主翼の下に富士山が見えるがこの日は残

念に見えなかった。
東京に行く時は必ず左の窓側の席を予約する。富士山を撮るために。

松山から羽田空港の飛行ルートは、西日本最高峰・石鎚山上空を飛び遠州灘上空に来ると天候が良ければ、北アルプス穂高連峰のシンボルである槍ヶ岳を見ることが出来る。そして間もなく、画像のように富士山が見える。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋山好古揮毫石碑・取材にご... | トップ | 秋山好古揮毫石碑・取材にご... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で」カテゴリの最新記事