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秋山好古と三人の副官・ 全て新潟県出身者 2 建川美次

2020年05月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

秋山好古と三人の副官、その二人目は建川美次でやはり越後の人であった。
満州軍総司令官大山巌元帥は、ロシア軍の主力部隊が何処に集結し攻撃して来るのか確かな情報がなく不安を抱いていた。

大山総司令官は、秋山騎兵旅団長にロシア軍の動向情報収集をするため将校斥候隊を編成し情報収集するよう特命の指示を出した。

特命を受けた秋山騎兵旅団長は、建川美次中尉と山内保次少尉に将校斥候隊を編成、優秀な隊員を選任、重要な任務を背負って斥候に出立させた。

画像は、建川美次将校斥候隊で、

右より

神田上等兵・豊吉軍曹・建川中尉・野田上等兵・竹上等兵の各隊員。

建川美次は、新潟中学6期生で野球が好きで野球部を創設、明治32年11月3日、4日、に高田中学・長岡中学・新潟中学3校による対抗戦が計画された。しかしその日は雨天で試合は中止となった。この時長岡中学に高野五十六、後の山本五十六((連合艦隊司令長官)がいた。五十六は、美次より4歳下であった。

画像は、書籍「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」の表題紙で、平成10年9月16日、新潟日報事業社から出版された。

平成3年11月21日から同年5月30日まで、153回新潟日報夕刊に連載された「流星・建川斥候長の生涯」を改題した書籍である。

映画化されたのは、昭和32年公開された映画、大ベストセラー、敵中横断三百里で、山中峯太郎の「敵中横断三百里」が原作、「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」とは異なる。

映画で主人公、建川美次斥候隊長を演じたのは菅原謙さんであった。

「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」著者、中島欣也のあとがきである。

文頭に「平成3年11月21日から同年5月30日まで、153回新潟日報夕刊に連載「流星・建川斥候長の生涯」を改題したものである。

本書では一部文章に手を入れ、字句や数字に若干の修正を施したが、大筋において連載時と内容は変わっていない。

この連載が一冊のほんとなるのは6年の時日を要した。それは特殊な内容で読者層が限られることから、中央出版社がいずれも二の足を踏んだせいだった。
しかし今回はそれを新潟日報社が引き受けて下さって、本書は日の目を見る事になった。

本書の主人公建川美次は、昭和前期の大ベストセラー「敵中横断三百里」のヒーロー、ある時期の陸軍を動かした実力者、第二次世界大戦前「日ソ中立条約」を結んだ男・・・とその生涯は常に華やかだった。
その彼の一生を貫いたのは何だったのか。私はそこに一人の“越後人”をみていた。豪胆、陽性、果断、親分肌・・・

中略、
私は正統派の越後人「山本五十六」異端派越後人「田中角栄」と書き綴っている。

締めの言葉に「出版に当たってお世話になった新潟日報事業社の皆様方に深く感謝申し上げる次第である。」と括っている。

注:新潟日報事業社は、昭和24年新潟日報社の文化局が分離独立して発足した新潟日報グループの一つである。

私も新潟県魚沼市にある、秋山好古揮毫の石碑調査に行った時、新潟日報編集局 報道部記者 鈴木 孝実氏が、現地に取材に来ていただき大変お世話になった。
新潟日報は、日本海随一の政令都市新潟市にあって、越後にふさわしい親切な新聞社である。

建川美次は:

秋山好古は、明治38年1月4日、騎兵第14連隊の山内保次少尉以下5騎を、同年1月9日に、騎兵第9連隊の建川美次中尉以下6騎を鉄嶺へ向けて派遣した。

建川・山内両斥候隊は、敵軍の後方に深く侵入して敵の作戦意図を探るよう命令が下り、秋山騎兵団の配下として任務をした。

建川美次は、明治37年暮れに日露両軍が対峙した今の中国東北部の沙河にあって、秋山第1旅団長の命令を受け、ロシア軍の動静、陣地の構築状況を調査する挺身斥侯隊を編成し、ロシア軍の敵中突破を図りながら、敵の背後を回って敵情報を詳しく探り、偵察を報告している将校斥侯隊長で階級は中尉であった。

明治38年1月9日から2月1日までの23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊6騎は、帰還予定日を過ぎても帰らず、秋山旅団長は、建川斥侯隊は全滅したと思っていた矢先、人も馬もやつれはてた騎兵6騎が凄い情報を持って全員帰還した。

その後、建川美次は日本の運命が大きく暗転していく針路決定に関わって行き大東亜戦争開戦時、駐ソ連大使として昭和16年4月13日、松岡洋右とともに、スターリンやモロトフとの間「日ソ中立条約」に調印している。

建川美次の経歴

明治13年10月3日、新潟県新潟市生まれ

明治34年 3月、  陸軍士官学校第13期生卒業

明治35年 6月、  陸軍騎兵少尉 騎兵第9連隊付

明治42年 3月、  陸軍大学校第21期生優等で卒業

大正12年 3月、  陸軍騎兵第5連隊長

昭和 7年、     陸軍中将

昭和15年、     駐ソ連大使

昭和20年9月9日、 逝去

斥候隊員は

極寒の時期の斥侯は、大変厳しい任務で、温暖な地方で育った者は到底務まらない任務、よくぞ23日間耐え抜いた斥侯長と隊員である。
斥侯隊長を任命するのは、秋山騎兵旅団長が任命するが、隊員を選任するのは、斥侯隊長が選出し旅団長が許可する。

斥侯隊員は、日頃から斥侯隊長と気質や考え方気心の知れた上に、体力堅固で

1、記憶録が優秀

2、俊敏さがあり

3、協調性必要

4、忍耐力旺盛

5、ロシア語が話せ理解できる勿論志那語も

6、基本的に偵察であるが、時には攻撃、追跡の大きな任務がる・・小心者には務まらない過酷な任務である。

新潟県魚沼市にある秋山好古揮毫の石碑調査に行った時、新潟日報編集局 報道部記者、鈴木 孝実氏が現地に取材に来ていただき報道して頂いた記事で大変お世話になった。

新潟県魚沼市にある秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」。

戦役記念碑は、魚沼市竜光地区から出征し無事生還した隊員が建立した。

戦役記念碑は、大正3年8月建立で、秋山好古が揮毫、この時秋山好古は第13師団長として大正2年1月15日新潟県高田に着任していた。

 

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