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ヒストリア・北方文化博物館「ライトさんと二人の文吉館長」の書籍が刊行された

2019年08月31日 | 伊予松山歴史散策

北方文化博物館は、昭和21年越後の豪農第七代当主伊藤文吉とGHQ新潟進駐軍民間情報教育部長ライト中尉、この二人の出会いで生まれた。 

私が尊敬する、新潟県新潟市江南区沢海にある、北方文化博物館・神田勝郎館長が、北方文化博物館創立70周年記念誌として刊行された「北方文化博物館と澤海の風景」に次いで発行された「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」の歴史書で、令和元年5月1日付で刊行され早速私に贈って頂いた。 

北方文化博物館は、江戸時代中期から初代が身を起こし、代を重ね富を築き越後随一の豪農の伊藤家である。
明治に入り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1370町歩あり昭和に入り新潟県下一の3万俵の収穫があった。
大東亜戦争終了後、GHQ(連合国最高司令官総司令部・最高司令長官マッカーサー元帥)により農地は解放され伊藤家の家屋は、GHQ新潟司令本部として接収される予定であった。
GHQ司令本部から配属された民間情報教育部長に命じられたライト中尉が伊藤家の調査に訪れた。
(この調査にはもう一つの意味があった。それは、旧日本陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)

 ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で返答があった。・・中略・・ライト中尉の事は後で説明します。
ライト中尉は、伊藤文吉七代当主が母校ペンシルバニア大学の先輩とわかり交流を深めることになる。
ライト中尉は、伊藤家を価値ある文化遺産と位置付け、以降、北方文化博物館開設に絶大な支援を与えることとなる。北方文化博物館は、戦後、アメリカと日本の友情による絆が芽吹いた場所となるのである。

 柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司、司馬遼太郎も訪れ建物は勿論、所蔵している美術品の素晴らしさに絶賛し司馬遼太郎は、博物館でなく、美術館と評している。
この書籍は、194Pの構成で残念ながら非売品である。

書籍は、新潟県立図書館・新潟市立図書館に納本してあると思いますので、他の図書館との資料貸出制度(相互貸借)を利用して是非一読されて下さい。
書籍最後の章に、北方文化博物館・佐藤隆男副館長が執筆されている「八代文吉館長とともに三十五年」の記事が心に残る文章である。

では、「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」の概要を紹介いします。

 

表紙を開けると、標題紙「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」が出て来る。
そして平成15年7月24日、今生天皇・皇后両陛下が皇太子殿下、同妃殿下時代に北方文化博物館を訪れた時に八代文吉館長がご案内された写真が出て来る。

昭和24年5月、今から70年前の越後最大の豪農、伊藤邸の大玄関と主屋で、GHQ新潟司令部が調査した時の資料写真。アメリカ国立公文書館所蔵。・・が出て来る。

北方文化博物館の多行松と大玄関。
下の写真は、財団法人に移行した現在の旧伊藤邸主屋。

日米友情の記念碑と旧伊藤主屋の玄関。

下の写真は、八代館長伊藤文吉の念願叶った「日米友好の記念碑」。

北方文化博物館、集古館で2000俵を収納した米蔵。

終戦前まで作業場であったが、北方文化博物館となってからは、売店地酒館となっている。

下の写真は、六代伊藤文吉の設計により建築された「三楽亭」。

36年振りに再会したライトさんと八代文吉北方文化博物館長。

下の写真は、左が伊藤家七代伊藤文吉、北方文化博物館初代館長。

右が、GHQ新潟進駐軍民間情報教育部長ライト中尉。

次に、新潟市長、中原八一の「刊行を祝す」が掲載されている。

書籍「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」の目次。

柳宗悦

GHQより史蹟文化振興会の、振興が軍国主義を振興する恐れありとして名称変更を求められ、親交のあった、柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・の助言を受けて、スウェーデン・ストックホルムにある、北方博物館に文化を付け加えて「北方文化博物館」と名称を変更した。(ストックホルムにある、北方博物館の了解を得て名称利用)

北方文化博物館を世界にその知名度を広めた柳宗悦で、七代伊藤文吉と親交があったので助言をした。

イギリスの陶芸家「バーナード・リーチ」

柳宗悦がイギリスの陶芸家「バーナード・リーチ」をつれて、昭和28年10月12日、北方文化博物館を訪れその時、「私がこれまで見た中で最も魅力ある家宅であると絶賛した。」

上の画像は、昭和63年10月22日、36振りに北方文化博物館を訪れ日米友情の記念碑建立式典に臨んだライトさん。

ライトさんについて

昭和20年8月28日、連合軍は日本本土に進駐を始めた。(昭和20年8月30日、マッカーサー総司令長官が専用機「バターン号」で沖縄から厚木に到着した。)ラルフ・ライト中尉は、当初GHQ本部から青森県担当としての内示があったが、此れを辞退、次は、埼玉県担当、此れも辞退、そして新潟県担当はとの打診があり何故か新潟を了承したそうだ。
新潟に赴任したライト中尉は、米陸軍第8軍第27師団新潟軍政部、民間情報教育部長としての任務で、新潟県下の文化や教育改革が主な任務であった。

 昭和20年10月、ライト中尉は伊藤家を調査に訪れた。(伊藤家の調査にはもう一つの意味があった。それは、旧陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で文吉から返答があった。ライト中尉は、ミスター伊藤その英語は何処でマスターされましたかと問うと、文吉は、私は、アメリカ合衆国のペンシルべニア大学に留学しその卒業性で、そこで英語を身に付けたことを説明した。(ドナルド・ジョン・トランプ、現米国大統領もペンシルべニア大学卒である。ペンシルバニア大学は米国第4位にランクされる名門大学。)

 するとライト中尉もペンシルバニア大学卒業生で、伊藤文吉は、ライト中尉の先輩にあたる事になり、それからライト中尉と伊藤文吉の友情が育まれ交友が始まった。第八代となる伊藤文吉は17歳中学生の時であった。
ペンシルべニア大学の校風は、先輩後輩を互いに尊敬しあうことを大切にする大学であったのでライト中尉は、先輩文吉を敬い建物を文化財としての価値あるもの、そして所蔵している美術品等々を、新潟引いては日本の文化財として残す努力を考え、新潟県知事から、マッカーサー総司令長官に伊藤家を博物館として存続させる請願書を提出した。その事務手続き全てライト中尉が行ったのである。 

マッカーサー総司令官は、伊藤家の博物館開設を許可した。
マッカーサーは、公立にすると運営にはいろいろと支障を来す事があるから、私立として開館し自由に運用出来る方が良いとアドバイスがあった。
昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。荒んだ中で、昭和21年、史蹟文化振興会として博物館が開設された。今年が71周年である。

昭和24年8月10日、GHQより史蹟文化振興会の、振興が軍国主義を振興する恐れありとして名称変更を求められ、親交のあった、柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・人間国宝の陶芸家、浜田庄司、の助言を受けて、スウェーデン・ストックホルムにある、北方民族博物館の許可を得て北方文化博物館と改名した。
昭和24年ライト中尉が日本を去る時、第七代伊藤文吉、初代北方文化博物館長は、ライト中尉を館に招き送別会の宴を行い、中庭に記念の碑を建設する用意をしたが、ライト中尉は、私一人の力でなく多くの人々の支援があり、北方文化博物館は開設出来たのでその様な特別な行為はしない様にと言われ帰国した。

昭和33年、第七代伊藤文吉先代が亡くなり、第八代伊藤文吉・北方文化博物館長は、美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する銅板が見つかり、それからライト中尉探しが始まった。しかしライト中尉の消息を行うも困難を来した。ある時、マンスフイールド駐日大使が来館した時ライト中尉探しを依頼。
アメリカは個人情報保護が厳しくそう簡単に探し出す事は難しく、太平洋に落とした一粒の真珠を探し出すくらい困難な事であった。

しかしその後ミネソタ州ロチェスターの高校の校長さんをされている事が判明、第八代伊藤文吉館長はミネソタ州に飛び36年振りに再会をした。
美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する予定であった銅板を基に記念碑の設立委員会を発足、ライトさんと第七代伊藤文吉館長さんのリレーフ制作、リレーフは東京芸術大学名誉教授、千野茂先生の作だそうです。

除幕式は、昭和63年10月22日に行われ、主賓にライトさんご夫妻とお嬢さん、ライトさんを探しだしたパリッシュ夫妻が米国から来館して盛大に挙行された。翌日の新潟日報に大見出しで報道されたとある。
ライト中尉が担当する都道府県が、新潟県以外に赴任していたならば、北方文化博物館は開設されてなく、伊藤家は解体されていたのではないか?人との出会いは不思議なご縁がある。

ライト中尉の本来の務めは教育改革であったそうだが何故か伊藤家を博物館とし位置づけ解体を免れたのは、軍服を着た教育者ライト中尉であたからなしえた事であったと私は思う。
戦後全国初の、マッカーサー総司令長官お墨付けの私立博物館第1号「北方文化博物館」の誕生であった。

財団法人北方文化博物館が戦後民間第一号の博物館として認可されたのは昭和21年2月12日の事であった。
戦後荒廃した中で、当時博物館として国の許可を得るには、米国駐留軍新潟軍政部民間情報教育部長・ラルフ・ライト中尉と先代館長、七代伊藤文吉の劇的な出会いがあった。

博物館が地域文化の紹介の拠点として、その名を全国に知られるようになった。
昭和63年10月22日、北方文化博物館にラルフ・ライト中尉と先代館長、七代伊藤文吉記念碑を建立し、両氏の功績と日米友情の証を後世に伝える事にした。

記念碑には、東山魁夷が「古い家のない町は 思い出の無い人間と 同じである」と揮毫されている。

日米友情の記念碑「ラルフ・ライトと先代館長、七代伊藤文吉の碑文。

記念碑の左側に、囲いで揮毫されている言葉が、東山魁夷が「古い家のない町は 思い出の無い人間と 同じである」と揮毫されている。

七代伊藤文吉館長の略歴。

ラルフ・E・ライト(Ralph・Edwin・Wright-Peterson)さんの略歴。

北方文化博物館と名称変更した理由。

昭和21年2月12日、財団法人史跡文化振興会として許可を得て開館したが、振興の意味がGHQに軍国主義を振興するとの意味に解され名称変更を余儀なくされた。

変更には、柳宗悦、浜田庄司、バーナード・リーチの方々からの助言を得て、スウェーデンのストックホルムにある世界最古のスカンセン野外博物館の一郭にノルデスカ・ムジ―(北方博物館)がある。この施設の了解を得て、北方博物館に文化を付けて「北方文化博物館」と名称変更をした。新潟市の北方文化博物館とノルデスカ・ムジ―(北方博物館)とは親子関係にある。

佐藤隆男北方文化博物館副館長が「八代文吉館長とともに三十五年」と題して記述がある。

最後の記述に「根底には人間が好きという、人間伊藤文吉は、徳を以て人を感化し人を育てて来た。この上のない魅力ある人物である。私は多くの薫陶を受けて育ってきた一人であるが、個性豊かで鋭い感覚を持ち、世界的視野にたち、ウイットに富む話術と聡明なる人物に終焉を迎えるまでお仕えさせていただいたことに誇りに思う。二度とこのような人物にはあうことはないだろう。
八代文吉館長が生前、素封家伊藤家の時代は終わった。代々続く文吉襲名は、私の代で終わりにする。と遺言を残し「LAST文吉」となって、平成28年10月25日、89歳でこの世を去った。と、佐藤隆男北方文化博物館副館長は書かれている。

ライトさんと七代・八代伊藤文吉館長の思いを受け継ぎ活動を続ける北方文化博物館を支えるメンバー。

書籍「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」裏表紙。

司馬遼太郎が書いた「風塵抄」の中に北方文化博物館の事を書いている。

司馬遼太郎の「風塵抄」で書かれている「日本文化を守っている第八代伊藤文吉北方文化博物館長」の事項で「明治の陸羯南は、今の時代でこのような思想的実行者として存在しているのかと思った。と記述している。

今まで掲載されたことのない、日本経済新聞に北方文化博物館の記事が掲載され、日経新聞の記者に言われたそうです。「前代未聞」ですと。

各社マスコミに話題を様々な形でいつも提供している北方文化博物館ですが、日経新聞だけは皆無でした。ということで、これは記念すべきすごいことだとスタッフ一同驚いているそうです。令和元年8月16日の日本経済新聞です。

「ライトさんと七代・八代伊藤文吉館長」の思いを受け継ぎ活動を続ける北方文化博物館・神田勝郎館長。日米友情の記念碑の前にて

神田勝郎館長さんとの出会いは、北方文化博物館に隣接する日枝神社境内にある、秋山好古が揮毫し建立された「忠魂碑」の所在情報を頂き取材に行った事が切っ掛けでご厚情を頂いています。

コメント (3)
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