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秋山兄弟生誕地・秋山両将遺邸之碑

2017年04月22日 | 伊予松山歴史散策

秋山両将遺邸之碑

松山市歩行町二丁目3番地6に、秋山兄弟生誕地があり、生家の裏に、秋山両将遺邸之碑があります。

平成17年1月18日、生家、秋山好古騎馬像、秋山眞之胸像の復元整備が完成し、18日、NHK総合TVニュース「おはよう日本」で生誕地からライブ放映され、全国に紹介されました。

整備事業に掛かった費用は、全国の秋山兄弟支援者からのご寄付で行われ、ご寄付頂いた皆様方のご署名簿は、大切に秋山眞之胸像の台座の中に保管保存いたしております。

生誕地の建造物は、昭和20年7月26日、松山大空襲により焼失されましたが、井戸と秋山両将遺邸之石碑が残りました。なお、松山に対する空襲は、昭和20年3月18日から15回に渡り攻撃されました。

 今回、その石碑をご紹介いたします。

石碑は、本来生家の表にありましたが、この度の整備事業で、秋山好古騎馬像、秋山眞之胸像を生家前に建立するため、石碑は裏側に移設しました。石碑に罅があるのは、平成13年3月24日、15時28分に発生した芸予地震、震度5強の揺れで倒壊し、その時に出来たもので、修復し再建立したものです。この石碑は、花崗岩で熱に弱く、松山大空襲の時周囲の火災の熱をかぶり、石の組織が弱くなっていて、芸予地震で倒壊した時に罅割れを起こしました。

秋山両将遺邸之碑 

1.碑   文 :別途説明(碑文の要約等参照)

2.所 在 地:松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生家裏

3.揮 毫 者:題額、陸軍大将 南次郎

        撰文、井上 要

4.建 立 者:記載無し

5.建立年月日: 昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 

6.碑石大きさ:高さ2m70㎝ 横幅1m50㎝  厚さ30㎝

7.石碑の由来:井上要他秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建立した。

8.題額を南次郎に揮毫依頼した経緯は不明

 

秋山両将遺邸之碑  陸軍大将 南 次郎

碑文
陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功二級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵蕭然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ館ヲ捐ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投ジテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳風ヲ傳ヘントス而シテ其保護管理ハ挙テ松山同郷会ニ託シタリ同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曾テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ於テ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトヽセリ若シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目ニアリ復タ縷説ヲ要セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上要撰幷書

秋山両将遺邸之碑 題額揮毫、陸軍大将 南次郎

       秋山両将遺邸之碑の説明

 秋山両将(あきやまりょうしょう)遺邸之碑(いていのひ)   

 陸軍(りくぐん)大将(たいしょう)南次郎書(みなみじろうしょ)

陸軍(りくぐん)大将(たいしょう) 秋山(あきやま)好古(よしふる)君(くん) 従(じゅう)二位(い)(官位十六階中、上から四番目)勲(くん)一等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)二級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)海軍(かいぐん)運中将(ちゅうじょう)秋山(あきやま)眞之(さねゆき)君(くん) 従(じゅう)四位(い)(官位十六階中、上から八番目)勲(くん)二等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)三級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)秋山(あきやま)真之(さねゆき)君(くん)兄弟(きょうだい)生誕(せいたん)ノ地(ち)タル松山(まつやま)城東(じょうとう)中(なか)歩行(かち)町(まち)ノ邸宅(ていたく)ハ天保(てんぽ)年間(ねんかん)考(こう)(亡父)久敬翁(ひさたかおう)ノ構築(こうちく)ニ係(かか)リ環堵(かんと)蕭然(しょうぜん)(狭い住居が貧しくてもの寂しいさま)トシテ素朴(そぼく)ヲ極(きわ)ム大将(たいしょう)ノ晩年(ばんねん)帰(かえ)リテ北豫(ほくよ)中学(ちゅうがく)(現松山北高等学校の前身)校長(こうちょう)ノ任(にん)ニ就(つ)クヤ旧屋(きゅうおく)(古家)中(ちゅう)ニ起臥(きが)(生活)シ僅(わずか)ニ墻壁(しょうへき)(囲いの壁)ヲ修(しゅう)治(じ)(修理)セシノミ今(いま)ヤ両将(りょうしょう)既(すで)ニ館(やかた)(立派な屋敷)ヲ捐(す)(すてる、)ツ遺邸(いてい)(のこる住宅)ノ漸(ようや)ク(だんだん)朽廃(きゅうはい)(荒廃)ニ帰(き)セントスルヲ憂(うれ)ヒ同志(どうし)ノモノ其(その)保存(ほぞん)ヲ計(はか)ラントスルニ際(さい)シ久松(ひさまつ)伯爵(はくしゃく)久松定謨(ひさまつさだこと)及(およ)ヒ山下亀三郎(やましたかめさぶろう) 新田長次郎氏(にったちょうじろうし)等(など)資(し)(資金)ヲ投(とう)シテ之(これ)ヲ助成(じょせい)(シ)テ旧邸(きゅうてい)ヲ購(あがな)(買う)ヒ修補(しゅうほ)(つくろいおぎなう)ヲ施(ほどこ)シ且(かつ)両将(りょうしょう)ノ遺品(いひん)ヲ蒐集(しゅうしゅう)シテ永(なが)ク其(その)徳風(とくふう)(立派な心がけや功績)ヲ傅(つた)ヘントス而(しこう)シテ其(その)保(ほ)護(ご)管(かん)理(り)ハ挙(あげ)テ松山同郷會(まつやまどうきょうかい)(財団法人常盤同郷会の前身)ニ託(たく)シタリ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ青年(せいねん)教養(きょうよう)ノ為(た)メ中将(ちゅうじょう)(秋山眞之)ノ創設(そうせつ)セル所(ところ)ニシテ大将(たいしょう)(秋山好古)モ亦(また)曽(かつ)テ舎長(しゃちょう)(常盤舎の監督、東京都文京区本郷四―一〇―一)タリシヲ以(も)テナリ是(これ)ニ於(おい)(碑文の字は俗字)テ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ更(さら)ニ其(その)西隣(にしどなり)ノ地(ち)ヲ求(もと)メテ會舘(かいかん)(松山同郷会の道場、建物)ヲ移(うつ)シ以(もっ)テ旧邸(きゅうてい)管理(かんり)ノ任(にん)ニ便(べん)スルコトトセリ若(も)シ夫(そ)レ両将(りょうしょう)ノ人格(じんかく)勲業(くんぎょう)(功績)ハ赫々(かっかく)(光り輝くさま)トシテ人(ひと)ノ耳目(じもく)ニアリ復(ま)タ縷説(るせつ)(こまごまと説明すること)ヲ要(よう)セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山(あきやま)両将(りょうしょう)遺邸(いてい)保存會(ほぞんかい) 井上(いのうえ)要(かなめ)撰(せん)(著)并(へい)書(しょ) 

 碑文の要約

秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

 

秋山両将遺邸之碑に記載してある人物紹介

 1.陸軍大将南次郎

(1874年8月10日~1955年12月5日、81才没、大分県豊後高田市生れ、陸相、朝鮮総督、貴族院議員、A級戦犯となる)

2.陸軍大将秋山好古

(1859年1月7日~1930年11月4日、71才没、松山藩士秋山久敬三男、北予中学校校長は1924年4月~1930年7月、墓所は青山霊園(松山市鷺谷共同墓地は分骨)

3. 海軍中将秋山眞之

(1868年3月20~1918年2月4日、49才没、松山藩士秋山久敬五男、1887年松山同郷会を結成、1890年海軍兵学校を首席で卒業、1905年連合艦隊首席参謀)墓所は鎌倉霊園

4.久松伯爵(定謨(さだこと))

(1867年9月9日~1943年2月19日、75才没、松山藩最後の藩主(定昭)の嗣子(しし=あとつぎ)、 陸軍少将、 東京に学生寮「常盤舎」を設立、1921年松山城の麓に萬翠荘を建築、模範農園を設置)

伊予松山城存続に尽力 久松家第17代当主

5.山下亀三郎

(1867年4月9日~1944年12月13日、77才没、元宇和郡河内村出身、1882年上京し明治法律学校に学ぶ、実業家、山下汽船創設者、参議、山下実科高等女学校(現吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現三瓶高校)を設立)

6.新田長次郎

(1857年5月29日~1936年7月17日、79才没、元温泉郡山西村出身、実業家、1885年製革業を創業、1902年緑綬褒章を受章、1911年大阪市難波に私立有隣尋常小学校(現、大阪市立栄小学校)を設立、1923三年私立松山高等商業学校(現、松山大学)を設立、温山と号す)

7.井上要

(1865年5月5日~1943年3月18日、77才没、元喜多郡菅田村出身、実業家、有友兵衛の長男として生る、1883年井上コンの養嗣子となる、1885年独学して代言人試験に合格、1888年東京専門学校(現早稲田大学)に留学、1906年元伊予鉄道社長、1890年県会議員、同年12月同議長1902年衆議院議員、1903年11月愛媛進歩党を結成、1913年伊予水力電気会社社長を兼務して1916年伊予鉄道会社と合併、1927年松山商工会議所会頭、1933年69才で伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈、伊予教育義会会長、北予中学校理事、松山高等商業学校理事、道後グランドを造成、伊予史談会を援助、高浜不去庵で悠々自適の生活、徳富蘇峰の撰になる頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)は梅津寺公園にある)秋山好古を北豫中学校校長に就任以来した

   以  上

平成17年1月18日、再建事業が完成した秋山兄弟生家入口。

秋山兄弟生誕地の全体。

秋山兄弟生誕地の生家と好古の騎馬像、生家の裏庭に秋山両将遺邸之石碑ある。

井上要さん、陸軍大将秋山好古に北豫中学校校長に就任依頼、好古は、元帥を辞退し、田舎の中学校校長に就任する馬鹿な男よと言われた。大元帥(大正天皇)は、好古が元帥を辞退したことに大変驚かれ、特旨として従二位を授与した。この官位従二位拝命し北豫中学校校長に就任する。

前陸軍参事官・陸軍大将・従二位勲一等功二級という肩書を持つ国家的重鎮が、郷里とはいえ、地方都市の私立中学校校長に就任するという、当時としてはほとんど椿事(ちんじ)のような話は、井上要からの中学校校長に就任要請について、たった10分間で決まったという。
「適当な後任が見つかるまで当分の間」であったはずのものが、大正13年2月から昭和5年4月まで、好古の校長在任は、6年2ヶ月の長きにわたることとなった。
しかも、「時々学校へ来て生徒と遊ぶ」どころか、6年2ヶ月の在任中、公務出張以外は全くの無遅刻無欠勤。見事なる皆勤賞であった。
校長就任の時点で65歳。退任時には実に71歳。
文字通り老骨に鞭打って、校長職を大真面目で務め、退任後、7ヶ月で亡くなった。・・好古・眞之を育て上げた母の教えが凄い、「大人になったら、自分を犠牲にしてでも、世のため、人のため、お国のために尽くす事が出来る人間になるようにと、そしてもう一つは、故郷のために尽くす事も忘れずに・・と母は育てた。

元帥を辞退し、なんのためらうこともなく単身で北豫中学校長として故郷のためにとの思いで帰った好古は、凄いの一言に尽きる。

眞之は、そんな兄好古の姿を見て成人していった。

兄、秋山好古騎馬像と目線を合わすように、眞之胸像を建立してある。

【秋山家の人々】

父・秋山(あきやま)久(ひさ)敬(たか)
旧松山藩時代は徒行目付として信望が厚かった。
明治維新後は県の学務課に勤める。
「親が偉くなりすぎると、子供が偉くならない」が口癖。

伊予松山藩きっての温厚で無口であった。
母・秋山 貞(さだ)
松山藩士の娘で、秋山久敬に嫁ぐ。
眞之が幼少の頃、ご法度の花火遊びをして警察に検挙された時、自分も死ぬからと、短刀を突きつけて叱った。子供の躾には厳しい母、大きくなったら「世のため、人のため、故郷のために尽くせる人になるように」が教えであった。
長女・種(たね)
早世。
長男・則久(のりひさ)
漢学の造詣が深かったが、壮年時代に病を得て廃嫡となる。家督を好古に譲り隠居する。
次男・正矣(まさなり)
岡家に養子に入る。
日本鉄道会社勤務などを経て、朝鮮京(けい)城(じょう)電気株式会社の重役となった。
三男・好古(よしふる)
好古の妻・多美(たみ)
好古が少尉時代に離れを借りていた旧旗本・佐久間家の娘。
非婚主義者の好古だが、母の懇願に負けて結婚。
(好古35歳、多美24歳)
四男・道一(みちかず)
西原家に養子に入る。
実業家を志し、横浜で貿易商を営むが、日露戦争の前年、事業が大成することなく没した。
五男・眞之(さねゆき)
眞の妻・季子(すえこ)
宮内省御用掛ごようがかり、稲生真履いのうまふみの三女。
眞之が海軍兵学校の教官時代、海軍大佐・八代六郎の仲介で結婚。
(眞之36歳、季子21歳)

 

鎌倉市から、南次郎さんの子孫の方が生誕地にお越しになり、まさか南次郎が書いた石碑があるとは知らずに来てビックリしましたと言われ、来てよかったです。そして千葉県習志野市にある、東邦大学にも立派な南次郎さんが揮毫した石碑がある事をお話ししますと、この事も南さんのご親族は知らなかったのでご案内すると、是非伺いますと言われた。・・この度秋山さんの生家を訪れてよかった。・・と言われ暫く石碑の前で佇んでおられた。

開館当時暫くは、松山観光協会から派遣された、マドンナが来て案内に協力していました。

千葉県習志野市、東邦大学習志野キャンパスにある、南 次郎が揮毫した石碑。

南 次郎が揮毫した立派な石碑で、千葉県船橋市、東邦大学習志野キャンパスにある。この地は、騎兵第13連隊の跡地で、日露戦争の時南次郎は、13連隊長として習志野から出兵した。13連隊は、騎兵隊の中で一番の精鋭部隊であった。

南 次郎の墓所

南 次郎は、第2次世界大戦後、A級戦犯として東京裁判にかけられ,終身禁錮の判決を受けた。東京巣鴨拘置所獄中、大病を患い特別に出所が許可され、自宅療養が許され鎌倉の自宅で逝去、81歳であった。

お墓は、大分県速見郡日出町の神田団地傍にあり、日出町では、南次郎の顕彰は行っていない(それはA級戦犯として東京裁判にかけられ,終身禁錮の判決を受けたためでは?と私は思う)墓参に訪ねて来られた人にはご案内をしている程度に留めているようだ。南次郎の墓と書いた表示板が掲げられていた。

大分県速見郡日出町の神田団地の傍にある南次郎のお墓。

自ら進んでA級戦犯になるような事をしたのではないでしょうが、上層部からの指示で行動したと思います。お墓の花が枯れていました。時々清掃をしてあげて下さい!!

 

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