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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 12、愛媛県宇和島市吉田町の石碑「忠魂碑」

2019年01月23日 | 伊予松山歴史散策

              愛媛県宇和島市吉田町の石碑「忠魂碑

愛媛県宇和島市吉田町は、旧北宇和郡吉田町で藩政時代は伊予宇和島藩10万石、藩主は、仙台藩主伊達政宗の庶長子、伊達秀宗、その後宇和島藩は秀宗の5男伊達宗純に3万石を分知して伊予吉田藩を創設した地である。
宗家・宇和島藩は富国強兵政策とり、高野長英・村田蔵六(後の大村益次郎)らを招き藩の繁栄を計った。

幕末幕政にも関与、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬と並び幕末の四賢侯と称され、その背景にした伊予吉田藩であった。伊予吉田藩には、慶応元年4月9日、伊予吉田藩江戸屋敷で誕生した簡野道明がいる。
4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字を学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。

卒業後は愛媛県南予地区で教鞭を執り、その後、漢和辞典「字源」を編集し刊行した有名な人を輩出した土地柄である。
また石原慎太郎、石原裕次郎の父、石原潔(愛媛県大洲市出身)が勤務した山下汽船(現商船三井)の創業者、山下亀三郎の出身地でもある。
そして、吉田町は、日本有数の温州みかんの産地で、平成30年7月に発生した平成最大の「西日本豪雨」で大きな被害があった地区でもある。

そんな由緒ある地に、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部・最高司令官・マッカーサー元帥)の命令で撤去の対象となった秋山好古が揮毫した石碑「忠魂碑」があり、その石碑を訪ねることにする。

1.    文  忠魂碑

2.所 在 地:  宇和島市吉田町河内甲371番地  安楽寺

3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:  記載無し

5.建立年月日:  大正13年11月 

6.碑石大きさ:  高さ 1m56㎝  横幅 82㎝  厚さ 21㎝

7.石碑の由来:   大正13年に建立した当時の場所は、小学校の前にあった。

  忠魂碑は、日清日露戦争でこの地区から出征し護国の為に戦死をされた霊を祀る為に建立された碑である。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部・最高司令官・マッカーサー元帥)は、忠魂碑は戦争を賛美し教育的な意図をもって、小中学校の敷地内に立てられたものもあった。特に軍人が揮毫した石碑・扁額の撤去命令が下された。
愛媛県下でも秋山好古が揮毫した石碑・扁額が撤去に該当した石碑が3基、扁額が2面ある。喜佐方小学校前の忠魂碑も撤去の対象となった。

この地の安楽寺の奥山住職は、GHQの撤去命令が下されたが命令に反し、危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り我が命に代えてでも保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守り現在に至っている。
安楽寺は、吉田町出身で山下汽船(現・商船三井の創業者・山下亀三郎の本家とは、親戚同様の交際がある寺である。
中にはGHQの撤去命令を恐れ石碑は倒され地中に埋められたりした石碑はたくさんあったと言われている

安楽寺奥山住職の奥様曰く・・
「好古にこの忠魂碑の揮毫依頼をしたのは、亀三郎さんですか」と、安楽寺奥山住職の奥様に聞くと「そうです」と答え、さらに「現代の人々はこの時代のことなど関心がなくなりました。NHKで坂の上の雲が放映されるので、時代を振り返り、良いものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一助になればいいですね」と述べられた。

註:忠魂碑の揮毫は大正13年なので、秋山好古が北豫中学校長として赴任した年なので松山の自宅(現秋山兄弟生誕地)で揮毫したのである。

安楽時にある忠魂碑の裏面で「大正13年11月」建立と刻まれている。

宇和島市立喜佐方公民館から徒歩で約10分の所に安楽時がある。

18段の石段を上がると安楽時の境内に辿り着く。

臨済宗妙心寺派安楽寺本殿で、忠魂碑は本殿の右手に大切に保存されている。

安楽寺住職(我が命に代えても我が寺で保存をすると言われた先代奥山昭典住職の息子さん)

臨済宗妙心寺派安楽寺の表札。

安楽寺境内入口には、山下汽船の創業者、山下亀三郎が寄進した石柱があり、石柱には「横浜市 山下亀三郎と揮毫されている。

現在の宇和島市立喜佐方小学校で、GHQの撤去命令が下された忠魂碑は学校の前にあった。

現在の宇和島市立喜佐方小学校の校札。

宇和島市立喜佐方公民館。

現在、喜佐方公民館横には忠霊塔が建立されている。
日清・日露・大東亜戦争にこの地から出征し戦死された方々の合同慰霊碑で、ある人が安楽寺の奥山住職に、忠霊塔が建立されたので、安楽寺の「忠魂碑」はもういらないのではないかと言ったら、住職は、何を言いうのだ、忠霊塔と我が寺にある忠魂碑は意味が違うのだと言って激怒されたと住職の奥さんは言っておられた。

戦後建立された忠霊塔で、喜佐方地区から日清・日露・大東亜戦争にこの地から出征し戦死された方々のお名前が記載されている。

昭和48年12月27日建立された忠霊塔の裏面にある碑文。

 

ここで山下亀三郎について触れておく。

山下亀三郎は、旧吉田藩伊予北宇和河内村(後の喜佐方村・現在の愛媛県宇和島市吉田町)出身で、亀三郎は、「自分が少しでも国家の役に立てる人間になれたのは母のおかげである」として人材育成、特に女性の教育に力を注ぎ、山下実科高等女学校(現、愛媛県立吉田高等学校)や第二山下実科高等女学校(現、愛媛県立三瓶高等学校)を設立した。また、故郷の小学校や図書館への寄付や道路やトンネル、運河の建設など公共事業にも尽力した。

山下家は、この地区の庄屋で亀三郎は山下家の7人兄弟の末子として慶応3年4月9日に生まれた。日本の三大船成金の一人で、勝田銀次郎、内田信也、山下亀三郎を言う。山下汽船は現在商船三井となっている。
東郷元帥の名参謀秋山眞之とも親しい間柄であったので日露戦争が間近にせまっており民間船も徴用される事を察知、山下は喜佐方丸を購入これが山下汽船の大きな発展の原点となった。 

石原慎太郎・裕次郎の父親、石原潔は愛媛県大洲市の出身で、山下汽船に勤務した。石原一家が逗子で最初に住んだ家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸であった。山下亀三郎は、秋山眞之が「日本は中国との貿易を活発にしなければならない」と話すのを聞いて汽船会社を創業し大成功した。船舶事業で財を成した、勝田銀次郎、内田 信也と並ぶ三大船成金の一人である。

秋山眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、山下亀三郎の小田原の別荘に滞在していたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で死去した。当時小田原には腹膜炎を治す医者が居なかったそうだ。

何故眞之は小田原に居たのか、それは山県有朋にこれから日本の国造りは山県さんが中心になって行われます。その中で米国とだけは事を構えない日本を創って下さい。物量豊かな米国と事を構えると(戦争)日本は滅びます。・・この事をお願いに・・山県有朋は小田原の別宅に居たからである。

その時に読んだ辞世の句が不生不滅明けて鴉の三羽かな」三羽とは、正岡子規と清水則遠、と秋山眞之の事で、この三人は、松山中学時代の同級生、末は博士か大臣かと大きな志を抱き東京大学を目指し上京した友人を指している。三人とも若くして逝去した。

現在秋山眞之は、神奈川県鎌倉霊園に、正岡子規は東京都北区田端の大龍寺に、清水則遠は東京都台東区谷中霊園に眠っている

安楽寺の帰りに山下亀三郎の実家を訪れた。画像全部が山下家の屋敷である。

 

山下家の傍に大雷神社がある。
神社の注連石は亀三郎が寄進している。

大雷神社の拝殿内部。

神社拝殿側から見た山下亀三郎が寄進した注連石で、裏面に山下亀三郎の名前と寄進した年月日が刻印されている。
注連石の裏面には、横浜港 喜佐方丸船主 山下亀三郎と刻印されている。

宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館。

図書館の建物は寺院風である。初代の奥山昭典館長が、命がけで守った「忠魂碑」の保存者、安楽寺の住職で、奥山住職が館長だから寺院風に造ったのかと視察に来た人達から言われるそうだが、図書館建設委員から京都二条城を模して建築したそうだ。
何故二条城なのかは?で簡野道明の寄付により図書館は開館した。

註:簡野道明は、伊予吉田藩には、慶応元年4月9日、伊予吉田藩江戸屋敷で誕生した
4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字を学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。
卒業後は愛媛県南予地区で教鞭を執り、その後、漢和辞典「字源」を編集し刊行した有名な人物である。

宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館表札。

画像は、秋山眞之が逝去した場所で、小田原の山下亀三郎の別宅。

秋山眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、山下亀三郎の小田原の別荘に滞在していたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で死去した。
その時に読んだ句が不生不滅明けて鴉の三羽かな」三羽とは、正岡子規と清水則遠、と秋山眞之の事で、この三人は、松山中学時代の同級生、末は博士か大臣かと大きな志を抱き東京大学を目指し上京した友人を指している。三人とも若くして逝去した。

現在秋山眞之は、神奈川県鎌倉霊園に、正岡子規は東京都北区田端の大龍寺に、清水則遠は東京都台東区谷中霊園に眠っている何故眞之は小田原に居たのか、それは山県有朋にこれから日本の国造りは山県さんが中心になって行われます。その中で米国とだけは事を構えない日本を創って下さい。物量豊かな米国と事を構えると(戦争)日本は滅びます。・・この事をお願いに・・山県有朋は小田原の別宅に居たからである。

東郷元帥の名参謀として最も信頼の大きかった秋山眞之、惜しい人物を早く亡くしたものだ。
元日本海軍連合艦隊司令長官・海軍大将東郷平八郎元帥は、秋山眞之の銅像建設にあたり贈った言葉が「智謀湧如」である。

 

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