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伊豫国・湯築城跡 (現、道後公園)

2012年05月02日 | 伊予松山歴史散策
「城」といえば・高くそびえる天守・大きな石垣・水をたたえた堀を思い浮かべるが、これは近世の城のイメージである。
 織田信長が安土に城を築いたが、これが近世の城の見本となり広がって行った。 中世の城は、天守をもたず、石垣もなく土の城で、そしてその大部分は小高い山に築かれた山城、山頂を削り此処に館を造り、麓に家臣の居住を造りその外に土で土塁を構築して城の防衛施設を造った。
 
 湯築城の築城年代は、室町時代から安土桃山時代にかけて約250年間に渡り伊予国の守護であった河野氏の居城として存続した城跡である。

この時代の城跡が観光地で住宅街の中に存在する事自体が全国でも非常に珍しく貴重な遺稿である。
  
 さて、河野氏が史上に登場するのは、通清が源平合戦の戦いからでこの時、源氏に荷担いたし戦死する。 その子、通信が合戦後、西国御家人として優遇され伊予の御家人の統率権が認められた。 また、この時期に時宗の開祖「一編上人」が宝巌寺で誕生したといわれている。「1239~1289」51歳、神戸市真光寺で生涯を終える。
 
 湯築城の築城
詳しい文献もなくよく分からないが、興国3年(1342)に躯綱氏が城を攻撃したと記録があるので、この頃までに河野通盛によって築城されてと考えられる。
 その後、全国統一を目指す羽柴秀吉の命を受けた、小早川隆影が河野通直を打ち破り、河野氏の伊予の支配は終わる1585年である。

その後、政治の中心は、加藤嘉明が築城した松山城に移り、湯築城は廃城となる。
湯築城跡は中央の丘陵部が(南北210m/東西310m 比高差31m)内堀・外堀に囲まれた平地部を合わせた南北350m・東西295mの平山城で、やや南北に長い亀甲形を基本として、北東部が鉤形に大きく屈曲している。

 明治時代になり公園として整備され昭和の戦後、道後動物園が開園その後移転に伴い、愛媛県が計画していた日本庭園整備のため昭和63年に発掘調査をしたところ湯築城跡の遺構・遺物が極めて良好な状態で残っていたので、その保存を求める県民の強い要望もあり、日本庭園計画を中止し文化財を生かした公園として整備し平成14年4月12日に開園した。
動物園のあった場所の発掘調査の結果を基に、武家屋敷や土塀を復元し、土塁の展示室を設け公開している。

日本100名城第80番に指定されている。


中世の城跡「国指定 湯築城跡」表示板。(現在の道後公園)


湯築城跡資料館にある「湯築城の模型」


湯築城を南方面から見た画像、後ろに見えるビル群は道後温泉のホテルで、城跡の裏手に子規記念博物館がある。
中世の城が平地に築城された事は非常に珍しく、防御するには大変である。


湯築城南西方向からの画像で、復元された武家屋敷1(手前)武家屋敷2(奥)と土塀。


東南方向からの画像で左手に武家屋敷2(復元)内堀と外堀、奥に見える広場が城主の居住場所とされている。


資料館内部、発掘調査で出土された遺物が展示してある。


復元された武家屋敷1の内部で、京都から連歌の師匠を招き河野家の家臣たちが連歌の指導を受けている光景を展示している。
連歌とは、和歌の上の句と下の句に相当する5・7・5の長句と7・7短句と唱和を基本とする短詩の形態で、中世・近世にわたって流行した短詩系文学、これを交代しながら100句読みつづけるのが通常とされている。


復元された武家屋敷2で、内部の展示物ここにも出土された遺物が展示してある。


全国の城郭展示で唯一である土塁の展示場があるその入り口。


土塁展示内部1。


土塁展示内部2。
ここは、湯築城の土塁の中で一番高く一番良く残っている所で底辺が約22m・高さが5mありこの土塁は、外からの進入防止と、中の様子を隠す遮蔽の役目をする。


伊予国の守護職、河野氏の家系図。


伊予国の守護職、河野氏の家系図で湯築城を築城した河野通盛時代までの家系図(1300年代)。


河野通盛が築城した時代、湯築城を防御する支城の配置図。


湯築城跡城内ではよく見られる光景(結婚祝いの前撮り記念写真撮影風景)。
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