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今年も咲きました秋の花・松山市窪野町北谷の彼岸花群生地

2017年09月21日 | 伊予松山歴史散策

四国で一番と噂のある、松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地で、今年も秋の花が咲きました。

この地は、官有地で許可を得て彼岸花の球根を移植し、その後地元住民たちが支援して大切に管理育成し、雑草も取り除き鑑賞する通路にはロープを張り環境を整えて管理している。

群生地には、28年前に染井吉野桜も植栽され56本あった。面積は、3ヘクタール位あるそうだ。

この地区には、四国88ヶ所第46番札所・浄瑠璃寺、第47番札所八坂寺があり、45番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)から巡礼する遍路道がある。昨年は、逆打ちで空海弘法大師様に巡り会えたという伝説が残る60年に一度の丙申にもあたることから、お遍路さんにとって“特別の年”と言われ例年になく逆打ちお遍路さんが多かった。

 昨日、(9月20日)松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」群生地の撮影&鑑賞に行ってみると蕾が多く開花は8割であった。昨年は、9月26日、に行ったが花は既に散っていた。今年は、23日頃が見頃になると思う。

私は、今年で7年目になるが、毎年花が少なくなっている。手入れが追い付かないのか、気象条件のためか?です。

松山市内から鑑賞に来ていたご夫婦は、何時もこの時期に来ます。楽しみにしていますと言っておられた。

彼岸花群生地区は、非常に珍しく愛媛県ではこの地だけではないでしょうか、県外からも鑑賞に来られる有名な所となった。

「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑がある。一遍上人は、時宗の開祖で鎌倉時代の僧侶である。

画像は、9月20日、撮った松山市窪野町北谷の彼岸花です。

窪野町北谷の彼岸花を撮りだしてから今年で7年目になりますが、毎年花が少なくなっています。

しかし、一面に広がる、赤のじゅうたんは壮大、最初に行った時は、此れは凄いなと驚いた。四国一と言っても過言でないと私は思います。

何といっても、地元の方々が皆さんに綺麗な彼岸花を鑑賞してもらおうと、管理育成に努力している事を忘れずに有難く鑑賞したいものです。四国88ヶ所第46番札所・浄瑠璃寺、第47番札所八坂寺のある地区、お接待お持て成しの心の表れでしょうか。ご苦労様です。

 先日、私のブログに松山市窪野町北谷の彼岸花群生地に行きたいのですが、道順を教えて下さいとありましたのでご案内します。

一級河川、重信川に掛かる橋「久谷大橋」を目標に、橋を渡り道は、県道207号線、三坂、松山線を、道なりに直進、途中右側に、松山市役所久谷支所がありますが、直進し約2km程走行すると、伊予鉄バスの「丹波バス停」がります。此処を左に折れると約2,5km先に群生地があります。バス停前に案内版があり、途中にも案内板があります。バスは、便数が少なく、バス停からなだらかな坂道を約3km歩きますので車で行ってください。アサヒ動物霊園の直ぐ下です。

駐車場は無く邪魔にならない様に路上駐車です。

 伊予鉄バス、丹波バス停前にある地元の方が掲げている案内板があります。

 県道207号線の表示板です。

 見頃は9月23日ころです。

群生地には、小さな川があり、先日の台風18号の豪雨で、山肌に保水された水が勢いよく流れていた。

花をアップにして撮ってみました。

松山市内から来たご婦人曰く・・来るのが少し早かったです。残念・・と会話をしながら周囲の花々を鑑賞していた。殆どの皆さんはカメラ持参での鑑賞です。

彼岸花の花言葉の一つに「また会う日を楽しみに」がありますが、また来年会いましょう、お元気にと言って群生地を後にする方も居られました。

 

松山に関係した俳人が彼岸花を詠んだ句があった。

曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男

なかなか死ねない彼岸花咲く  種田山頭火  

群生地に「御霊木・一遍上人の欅」と揮毫された石碑が建立してあった。

夫婦で来られたご主人は真剣にアングルを定めシャッターを押していた。

松山市内の介護センターから彼岸花鑑賞に来ていました。

 窪野町彼岸花群生地区周辺の農地の畔には、彼岸花が沢山咲いている。

群生地手前1,5Km地点にあるヒガンバナ群生地の案内板。

一遍上人生誕750年・没後700年の記念事業として記念碑が群生地に建立されている。

一遍上人は、時宗の開祖で、延応元年(1239)伊予国の豪族、河野通広の第2子として生まれ、幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥にある宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。本家の河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で宮方について祖父の河野道信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。河野一族の極楽往生を願い全国遊行を行っていたが、父の死をきっかけに還俗して伊予に帰る。しかし一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。窪寺は、一遍上人成道の地として極めて重要な所である。

道後温泉近くにある、湯築城が、伊予国守護、河野氏の城跡である。

昨日行ってみると工事をしていた。

9月17日、台風18号の影響で群生地にも画像の様な土砂崩れが起こっていた。

 

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