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伊予今治市紀行 綱敷天満宮「志島ヶ原」 散策

2013年02月09日 | 伊予松山歴史散策
伊予今治藩主の墓所見聞のあと、訪れた場所は、菅原道真公縁の綱敷天満宮に行ってみた。
社伝によると、菅原道真が大宰府へ左遷される途中、燧灘の桜井海岸沖で嵐に遭ったが、現宮司(菅氏)の祖先である広川修善と里人に助けられて志島ヶ浦に辿り着き、急なことで敷物が無く、漁網を敷いて敷物の代わりとしたことから「綱敷」の社名が付いたとされる。鮮魚を里人に献上されるなどの厚意に感じた道真は梶柄に自像を刻み「私は菅原道真である。もし私が無事帰洛できたなら、この像を証拠として都を訪ねなさい。私が配地で没したと耳にしたなら、この像を素波神(そばがみ)と称し祀るように」と述べた。

道真は大宰府にて没し、素波神は当地南端の祠に祀られることとなった。時は下って享保5年(1720)6月、第5代伊予松山藩主松平定英の命により、現在地に社殿が築かれた。神社の敷地は広大で11万平方メートル、3千本の黒松と、菅公縁の「衣干岩」があり、道真にちなんで梅林がある。

「こち吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとも春な忘れそ」

道真公はその後陸路現在の松山市に移動、途中我が家の近くにある辰岡天満宮(松山市北久米町)で休息、そして履脱天満宮で暫しの休養をした。この地で具足を脱ぎ休んだので神社を「履脱天満宮」と命名、大正時代に氏子が秋山好古に揮毫を依頼し「履脱天満宮」の社号碑を建立した。

またこの地は、桜井漆器の産地として知られ、かつて漆器の販売のために桜井港から漆器を各地に運んだ船は椀舟と呼ばれ、漆器は高額であったことから桜井商人は割賦販売を編み出した。このため、桜井は日本の割賦販売発祥の地でもある。
幕末この地は天領で伊予松山藩預かりであったので、嘉永6年(1853)6月3日ぺりーが黒船を率いて浦賀に来航した際、幕府の命で、伊予松山藩は安政2年(1855)4月より桜井海岸に防備を図る為3台の台場を築造開始6月に完成した。・・その記念碑がある。

画像は、綱敷天満神社の画像とその関係画像。


綱敷天満神社入口。


境内・・奥が本殿。


綱敷天満神社拝殿。


嵐に遭遇し志島ヶ浦にたどり着き、濡れた衣服を乾かしたと言われる岩。「衣干岩」


安政2年築造された台場の記念碑。


台場築造記念碑の裏面「安政二年六月」とある。


境内にある全国月賦百貨店組合連合設立20周年記念碑。


境内の梅林「紅梅」・・幼木の紅梅が沢山開花していた。


境内の梅林「白梅」・・白梅は未だ開花は進んでなかった。


松山市北久米町にある「辰岡天満宮」・・今治市の綱敷天満神社から陸路この地のこられ暫しの休養をされた。


松山市北久米町にある「辰岡天満宮」・・今治市の綱敷天満神社から陸路この地のこられ暫しの休養をされたとき座られた石。


辰岡天満宮から移動され、辿り着いた地が、松山市久保田町の履脱天満宮で、この地で具足を脱ぎ長居をしたため、都から勅使が訪れ早く大宰府に行くよう命が下り、松山市今出の浜から船で大宰府に向かった。・・この時里人が、菅公の船が今出るよ・・と告知して見送ったので、地を「今出」の地名が付いた。石碑「履脱天満宮」を秋山好古が氏子代表から依頼して揮毫した社号碑。

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