EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その7 子規と秋山兄弟の青春「坂の上の雲」の世界 第2回 秋山好古

2022年08月02日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

2009年(平成21年)8月7日号の週間朝日、P100からP103に「子規と秋山兄弟の青春(坂の上の雲)」の世界!!

第2回 好古の遺伝子・・が掲載された。

写真は、朝日新聞本社、小林 修氏が撮影。・・コントラストの効いた小林さん独特の写真である。

「子規と秋山兄弟の青春(坂の上の雲)」の世界!!

第2回 好古の遺伝子・・が掲載されている。

(2009年(平成21年)8月7日号の週間朝日、P100からP103)

春や昔15万石の城下哉・・子規

松山藩15万石の松山城本丸を、小林 修氏が上空から撮影。

第2回 好古の遺伝子は、・・週間朝日・平成21年8月7日号のページ100からはじまる。

書き出しは「松山市の上空から見ると、夏の瀬戸内海が見に飛び込んでくる。

市の中心は松山城、深い緑に囲まれた小山にあり、ここから放射状に町が広がっている。市域はずいぶん広く、人口52万人は四国最大の都市だ。

城の観光客が、登城する松山藩士に見えた。標高132メートルの松山城について、司馬さんは書いている。・・である。

朝日新聞東京本社週刊朝日編集部、編集委員の村井重 俊氏は、秋山好古(信三郎)の職歴は軍人がはじめではない。まずは小学校の先生になっている。お父さんの平五郎がいう。「信や、貧乏がいやなら、勉強をおし」

伊予松山藩は佐幕藩であり、子弟は学問をするほかに立身出世の可能性はない。

ある日大街道で「池内のオイサン」に会った。

池内のオイサンの一言は好古の人生を変えた。

大阪に師範学校というものが出来たぞなもし。これは無料(ただ)の学校ぞな。

師範学校の入学は19歳からで、この時好古はまだ17歳。

※ 記事は、朝日新聞東京本社週刊朝日編集部、編集委員の村井重 俊氏と太田 サトル氏、写真は、本社カメラマン、小林 修氏です。

注:池内のオイサンは、この人の四男が高浜虚子である。

注:なもしとは、伊豫松山の方言で「~ではないですか」のように主に謙遜して使う方言言葉である。

日露戦争で「日本の騎兵がロシアのコサック騎兵をやぶれるはずがない。おそらく西洋人」の顧問がいるのだろう」と疑う人が多く、陸軍騎兵学校に来て好古を見た。

好古の顔を見て「やはり、西洋人がいた」と、彼らはしきりにうなずきあい、好古が日本人であることを容易に信じなかったという」

平成21年7月、朝日新聞東京本社週刊朝日編集部、編集委員の村井重 俊氏と太田 サトル氏、本社カメラマン、小林 修氏は、第10代秋山家宗家、秋山 哲兒氏の自宅に取材に行った。

週間朝日8月7日号のページ101にその記事はある。

職歴を教員からスタートさせた好古だったが、陸軍大将で退役してからも、郷里に帰って北豫中学(現松山北高校)の校長になっている。「軍人ですが、生涯教育者だった人だと思いますね」と言われたのは、秋山哲兒さんで、秋山好古の孫である。

都内にある、哲兒さんの自宅で話を聞いた。

「祖父は福沢諭吉先生にたいへん傾倒し、子どもたちは兵隊になる必要は毛頭ない、福沢先生に学べと。それで親父も私も私の兄も皆、慶応で、私の息子とたちも慶応ですね」

自宅には、好古の晩年の写真が飾られていた。

日露戦争で「日本の騎兵がロシアのコサック騎兵をやぶれるはずがない。おそらく西洋人の顧問がいるのだろう」と疑う人が多く、陸軍騎兵学校に来て好古を見た。

好古の顔を見て「やはり、西洋人がいた」と、彼らはしきりにうなずきあい、好古が日本人であることを容易に信じなかったという」

哲兒さん、「そんなに西洋人のように見えるかなあ?

好古さんは、お酒が大好物で、戦地で猛攻に耐えつつ、飯代わりにブランデー、コーリアン酒など飲んでいたが、哲兒さん、お父さんも酒は飲みませんでした。哲兒さんは下戸である。

好古の遺伝子はどこに行ったのか。・・と書かれている。

秋山家宗家・第10代 秋山 哲兒氏、自宅のリビングには、「天地無私」と書かれた好古の書が飾られている。

好古には7人の子どもがいて、40歳のときに生まれた長男の信好さんが哲兒さんの父親。

私は、海軍にあこがれ、眞之さんのほうが三笠の上でノートを取ったりして、カッコよく思えたな、海城中学から海軍に進むことを夢見ていたが、終戦を迎えた。「その後は、時代が時代ですから、好古の孫だとか大叔父が眞之だとか、話したこともありませんでした」

1968(昭和43年)に産経新聞で「坂の上の雲」の連載が始まり、周辺がにわかに騒がしくなった。「お前が秋山将軍の孫か」哲兒さんも父、信好さんと同じ道を歩き、三菱銀行に努めていた。上司に同じように陸軍大将を父にもつ人がいて、ある日、哲兒さんのデスクにやってきた。「秋山君、今日の坂の上の雲読んだか?

部課長クラスが熱狂していました。・・中略、

哲兒さんには、ふんわりとした雰囲気が、やはり好古さんを感じさせた。

注:秋山家宗家・第10代 秋山 哲兒氏は、令和元年(2019年)10月2日、逝去されました。享年87歳でした。

注:秋山哲兒さんの後ろに掲げてある、秋山好古さん揮毫の扁額「天地無私」は、平成21年5月17日、に千葉県習志野市大久保商店街に建立された秋山好古顕彰碑に使われた書が、「天地無私」を模したもので、提供は、哲兒氏がした。

秋山家の家系図。

秋山宗家は、長兄には「久」の字が付けられていたが、第7代・則久で絶えた。

則久には、嫡男がいなく、次男は他家に養子に行き、3男の好古が第8代秋山家を相続した。

平成21年5月17日に建立された「秋山好古顕彰碑」

※ 石碑の下部に、秋山哲兒さんが提供した「天地無私」が使われている。

習志野騎兵連隊史跡保存会会長、三橋正文氏から顕彰碑の建立経緯を伺ったその一つに、石碑に秋山好古の功績を称え、現代的に写真を織り込むことにしました。

私は、写真は金属に焼き付けて埋め込んであるものと思って観察すると、なんと直接石碑に彫刻してあった。現在は特殊な技法があることに驚いた。・・あっぱれである。

※天地無私の意味は:天地に「私」すなはち、不公平は無い。人は皆平等だから努力をすれば善い人生がおくれる。好古の好きな言葉である。

 

秋山好古顕彰碑

 1.碑     文: 天地無私(天地に「私」、すなはち、不公平は無い。人は皆平等だから)

努力をすれば善い人生がおくれる)

2.所  在  地: 千葉県習志野市大久保一丁目17番14号

   学園大久保商店街 薬師寺前(三橋秀紀住職)

3.揮    毫: 秋山好古

4.書の出所  : 好古嫡孫・秋山哲兒氏

5.建  立  者: 習志野市大久保 学園大久保商店街(三橋正文理事長)

         習志野騎兵連隊史跡保存会代表(三橋正文)

 

6.建立年月日:平成21年5月17日

7.石碑大きさ: 高さ1m20cm  横幅1m20cm 厚さ12cm 

8.好古と習志野について:

騎兵第1旅団は明治34年12月、習志野に創設された。

好古は明治36年4月2日、陸軍少将(44歳)で第2代騎兵第1旅団長に就任。

同年6月、母・貞や家族とともに習志野の官舎に移転した。

明治37年2月、日露戦争が勃発すると好古は、同年4月9日、同旅団長として習志野から出陣。満州(現在の中国東北部)各地で敵の情報収集や後方撹乱など騎兵の近代的戦法を駆使して戦った。

とくに、黒溝台では、当時世界最強といわれたロシア・コサック騎兵団が、数十倍の兵力で日本軍の好古騎兵団を襲撃。

これに対し、好古は騎兵同士の戦いは不利と判断し、陣地を急造して機関砲を用いて応戦。

この意外な反撃にコサック騎兵は戦死者を多数出して退却した。

この好古の柔軟な発想と、不利な条件の下で全滅を覚悟しながら戦線を持ちこたえた騎兵軍団の勇敢な戦いぶりが、日本軍の大きな危機を救った。

「日本騎兵に秋山あり」と世界的に名をとどろかせ、また「騎兵の町、習志野」も有名になる発端になった。

しかし、好古は戦後、この時の武勇談をせがまれても「機関砲があったからよ」とポツン答えるだけで質問者を困らせた。

戦争で多くの部下を失ったことに、もっとも心を痛めていた好古にとって、武勇談などは頭の片隅にもなかったのだろう。

明治38年9月、日露講和条約が締結されると翌39年2月、好古は歴戦の痕跡を残す連隊旗と共に習志野大久保に凱旋したのである。

しかし母は、前年の6月19日に亡くなっていた。

戦地で「母死す」の知らせを受けた好古は、めったに入らぬ風呂で身体を清め「母上は 散りにけり山桜」と詠んだ。

松山の知人には、「母上は、眞之の活躍を伝える電報を持って父上に会いに行かれた。

この面白さを知るのはあなた様くらいです。」と手紙を書いた。

令和の今、習志野大久保商店街の方々の熱意で好古の石碑が建てられ、毎日多くの大学生や地元の人が石碑の前を通っている。

この石碑を見て当時の歴史に触れ、より良い世の中を築いてくれればいいと思う。

石碑は、軍馬の形で赤色の花崗岩に秋山好古の写真を彫り込まれ、下部に好古揮毫の「天地無私」が彫られている。

好古揮毫「天地無私」の出所は、秋山宗家第10代秋山哲兒氏からである。

平成21年5月17日、習志野市大久保商店街・除幕式時に現地取材をした。

           森田千葉県知事を迎えて除幕式

平成21年5月17日、千葉県習志野市大久保商店街の一角に(真言宗豊山派、薬師寺入口)秋山好古顕彰碑が建立された。

秋山好古と縁が深い、千葉県習志野市大久保には、習志野騎兵連隊史跡保存会があり保存会代表の三橋正文氏は、秋山好古騎兵第1旅団長が在籍したこの地に、NHK大河ドラマとは別枠で「21世紀スペシャル大河ドラマ」として平成18年に放送する予定が発表されたのをきに、大久保商店街に秋山好古顕彰碑を平成21年5月17日に建立し除幕式が行われた。

除幕式で祝辞を述べる森田千葉県知事

平成21年4月、第18代千葉県知事に就任、秋山好古顕彰碑除幕式に来賓として参列し、祝辞を述べた。

千葉県知事初当選した時であった。

秋山好古顕彰碑除幕式で挨拶をする秋山宗家第10代秋山哲兒氏。

陸上自衛隊習志野駐屯地所属の「儀礼隊」も参加して盛大に除幕式が行われた。

※平成21年5月17日、千葉県習志野市大久保に(真言宗豊山派、薬師寺入口)秋山好古顕彰碑が建立された除幕式の写真は、私が撮影しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする