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 伊予松山城本丸に現存する重要文化財の建造物 その1

2012年10月16日 | 伊予松山歴史散策
標高132mの丘陵に築城された伊豫松山城本丸には、藩政時代の建造物が多く現存する。その建物は、昭和10年5月13日、国宝に指定され、昭和25年5月に文化財保護法の制定により国指定の重要文化財に変更指定された。

現存12天守の内、姫路城についで多くの建造物があり、21棟が国指定の重文建造物である。
城郭の建造物は単独でない建物が多く、区別するのに大変、松山城21棟全てに説明板が設置されてないのでなおの事分かりにくい。
重文21棟の内訳は、城門が7棟、櫓が7棟、続塀が7棟である。

日本城郭協会が「日本100名城」の決定をうけ、平成18年2月に文部科学省記者クラブで発表、認定証を各城郭管理者に届け、平成19年6月から「日本100名城」にスタンプを設置、スタンプラリーが開始され、多くのお城愛好者がガイドブックとスタンプ帳を持参で名城めぐりを開始してその城の往時を偲んでいる。

松山城にも沢山の方々が観光に来られ、またTVでも各お城の紹介が放映されなお一層の城郭愛好者が増えた。

今回再認識のため伊豫松山城本丸にある、21棟の重文建造物を2回に分けて画像で追ってみることにする。・・松山城本丸にお越しの節は皆さんの目で確かめてみて下さい。


1:「松山城戸無門」
最初に現れる建造物は、で隘路を突き進むとある。門は高麗形式で創建は寛永~正保年間(1624~1647)創建当時から戸を持たなかった門である。これを過ぎると筒井門、隠門の防衛線に行き着く。
註:本丸最大の筒井門は、昭和24年狂人の放火により焼失、同45年復元に着手同46年3月竣工した。


2:「松山城隠門」
二番目の重文建造物は、である、戸無門を通過して筒井門に迫る
寄手の背後を隠門から出撃し急襲する策略が秘められた門で、形式は、渡櫓門である。・・城内の建造物の内、最古の乾櫓・野原櫓に次ぐ慶長年間に建てられた貴重な遺構である。門の形式は櫓門である。


3:「松山城隠門続櫓」
画像は、隠門2階の渡櫓で筒井門続櫓と接続するもので東から登城する者を監視する櫓で高さ15mの石垣の上にある。・・隠門と同様に慶長期の建築である。


4:「松山城紫竹門」
この門は、本丸上の大手と搦手を仕切る門で、本壇上の小天守の南真下に建つ脇戸付高麗形式の門、門の奥に紫竹が植えられ竹の茂みに隠れて本丸広場方面を監視する仕組みを持つものでこの名前がある。天明の落雷で焼失し嘉永期に再建された。


5:「松山城紫竹門東塀」
紫竹門の東に矩折りに設けられた塀で、画像は内側で本壇入口一ノ門前の登り道にある。狭間の一部は本丸大手広場に対して射界を持ち、残りは搦手乾方向に向けられている。延長16,5mで狭間11ヶ所ある、建築時期は紫竹門と同時期である。


6:「松山城紫竹門西塀」
紫竹門の西に延長し、西端は本丸を構築する石垣に臨んで終わるが、元はその先の本丸渡塀(現在は欠落)に接続していた。延長14,47m、狭間10ヶ所ある。建築時期は紫竹門と同時期である。


7:「松山城乾櫓」
松山城最古の櫓で、築城の際旧松前城から移築したと伝えられている慶長期の建物、乾方向にある北の郭からの登城が本丸に達する要地に築城されている。搦手を防衛する重要な構えである。


8:「松山城野原櫓」
この櫓は、乾櫓東の本丸石垣に臨んで建てられ、北側搦手を防御する2層櫓、通柱が無く、城郭建築が大屋根上の物見櫓から発達したとされる望楼起源説の名残を示す櫓として注目されている貴重な遺構。野原櫓の名前は、豪商の野原氏が寄進して出来たのでその名前を付けたとの言い伝えがある。・・乾櫓に次いで古い建物である。


9:「松山城一ノ門」
いよいよ本壇に入る。本壇入口の虎口に西面にして建つ最初の門で、脇戸付高麗門、門扉は珍しく中間の横板張りで上下は格子となり、敵兵の員数を計る仕組みとされている。また一ノ門全面及び枡形に対して小天守をはじめ四隅の櫓から銃火が集中され本壇防衛上最も堅固な守りに徹した造りである。建物は嘉永期の再建。


10:「松山城一ノ門南櫓」
本壇入口を固める単層櫓で、出入口は枡形から石段を登り中に入る。南と西の本丸広場及び本壇入口側の2面には、石落し、格子窓、狭間を構えている。建物は嘉永期の再建。



11:「松山城一ノ門東塀」
一ノ門南櫓とニノ門南櫓を繋ぐ本壇石垣に建つ渡塀で、本丸広場に対する備えを持つ、延長10,14m、狭間10ヶ所、石落し1ヶ所、建物は嘉永期の再建。
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