ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

原発事故3

2011年03月23日 | 原発事故
            
18:00~24:00Jの勤務。10年ぶりの線表勤務を終えて00:15帰宅した。
原発事故が終息するまでOB組が現役組のサポートをする事になったが、我々アナログ人間に今や現役と対等に出来る仕事は無く、視聴者対応の窓口業務と放射線量の測定だ。自分は職員+OB5名の6人体制の線表勤務に組込まれて、この簡単な二箇所に設置された3台の線量計で30分毎に24時間連続測定して掲示板の表に記入周知する単純作業だ。
この線量計は民放に出演していた学者先生が「腕時計+αで誰でも買える」と紹介していたが、絶対量が少なくここ原発取材最前線の職場内に出入りする記者とカメラマンのごく一部にしか携帯は見られなかった。大多数のスタッフは刻々変化する掲示板の放射線量を参考に各取材現場に出向いている。学者先生方は「20歳以上は大丈夫だ」と解説してたが、我が社は『人命第一』とも耳にした。
22:30過ぎだったろうか「3号機中央制御室点灯」のニュース速報がテロップで流れるとTV操縦室付近から「おお!」と歓声が起こった。しかしこれまでに体験した人命救助の瞬間などより比較にならないほど弱いもので、単に一点の光が見えただけの安堵感だったのかも知れなかった。
現役時代には数限りなく取材現場の最前線にも出向いていたが、今の職場内にはこれまでに体験した事が無かった先の見えない不安と強い緊迫感が感じられている。