日本裁判官ネットワークブログ
日本裁判官ネットワークのブログです。
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旭川在住のN弁護士のメールに接して、北海道を旅したことを思い出した。
もっとも、北海道に行ったのは合計3回にすぎないので、思い出もほんの一握りのものでしかないが、そのうち一回は、冬の札幌だった。
 
 10年近く前のことと思うが、ネットワークのメンバーが毎年、札幌の市民集会に招待されていたことがあった。ある冬、それに応募した形で、家内を同伴して訪れた。寒いのが苦手なので、風邪を引かないよう、行く前からかなり用心し、また凍結した道路で滑らないようにと、近所の靴専門店で「スベラーズ」を買い求めて、出発した。札幌のホテルで、その滑り止めを靴につけようとしていたら、地元の人から、そんなのを着けている人はいないよと笑われてしまった。それでも、こけたら大変なので、しっかり着けて、集会に出たように記憶している。

 集会では、裁判所のなかに市民が「裁判をする人」として来ることを歓迎する趣旨のことを話したように思う。くわしいことは忘れたが、冒頭、札幌に来たのは初めてなので、冬なのに「キンチョー」(緊張)していますとしゃべって、笑いをとったことはしっかりと覚えている。次の日、小樽に足をのばしたが、折から吹雪に見舞われた。普通なら、寒さでぶるぶる震えて、外に出るのもいやがったはずだが、興奮していたのか、それとも小樽の街のたたずまいが気にいったのか、足下の雪をむしろ楽しみつつ、運河沿いをゆっくりゆっくり歩いた。

 ところで、最近、きっかけがあって、三浦綾子の「氷点」「続氷点」を読んだ。「氷点」は、新聞連載以来であり、「続氷点」は初めてだ。ご承知のとおり、自分の娘を殺した犯人の娘を養女として迎え、その子を育てていくという筋立てで、かなり不自然な設定のうえ、読者に想像を許させない書きぶりなど、気にいらない部分もあるのだが、「続」になると、そうした嫌みも薄れ、結構、読み応えがある。なんといっても、北海道が舞台であることが「救い」になっているし、とりわけ、最後の「流氷」の場面が感動的だ。

 裁判官としての終点が近くなって、定年後のことを時々考えるようになった。大好きなドイツに長期滞在するのが一番の夢であったが、本を読んだあと、北海道を旅するのも悪くはないなと、いう気になった。そう思うと、早く定年がきてほしいような気になってくるから不思議だ。もっとも、目の前の仕事が壁のようにたちはだかっているので、夢想を楽しむにはまだ早いのだが・・
                             (風船)

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 鹿児島県の選挙違反事件や富山県の婦女暴行事件等の「冤罪」事件の再発防止を期すため,警察庁は,今月24日「取り調べ適正化指針」を発表したという。高圧的な取り調べにより虚偽の自白がなされて「冤罪」を生んだことへの反省に基づくものだ。
 しかしながら,その指針では,取り調べの際に被疑者の身体に触れたり,被疑者の尊厳を著しく害する言動を禁止するなど定めを置く,また,密室での取り調べ状況を警察内部の者がマジックミラーで見守るなどの監視強化策に止まっている。ある新聞の社説でもいうように,このような内部での改善策で,高圧的な取り調べの防止に,はたしてどの程度の効果が期待できるのか,疑問である。
 只,警察庁は,「冤罪」事件に対する世論の厳しい批判が背中押しとなって,このような指針を打ち出さざるを得なかったのであろう。そして,その背景には,ここ数年の,特に裁判員制度を控えて,取り調べに対する可視化(注)を求める声の高まりが,これまで強い抵抗の姿勢を見せてきた警察をして,もはやこれを無視できないところまできた点もあったと思われる。追い込まれている感じはあるものの,警察は,まだ,可視化への第一歩を踏み出すには至っていない。

 1月26日大阪弁護士会で開かれた「可視化を求めるシンポジウム」を傍聴した。鹿児島事件の担当弁護士や江川昭子氏の可視化を求める説得的な話やパネルデスカッションなどで盛り上がり,可視化を求める運動の着実な高まりを実感した。もはや,可視化は世界の流れであり,時代の要請である。
 具体的事例を挙げての江川氏の話は,全般的に分かりやすく,裁判官に対する厳しい批判も,考えさせられ,反省を迫られた。しかし,ひとつだけ気になる点があった。それは,同氏が,裁判に一番期待するものして「真相解明」を挙げた点である。確かに,被害者あるいは市民が,なぜ被告人がそのような行為に及んだのか,被害者はなぜ死ななければならなかったのか,その真相を知りたいとの思いは当然である。日本の裁判は,かなりこれに答えてきた。
 しかし,それは,詳細な自白調書があったから出来たのである。犯行の動機が微に入り細に入り被疑者の口から供述調書の形に語られてきたからである。自白中心主義裁判の積極面であったのだ。
 取り調べの可視化は,自白追求を困難なものにすることになろう。高圧的な取り調べができなくなれば,口を閉ざしたままで真実を語らない被疑者も少なくないと思われるからである(自白追求は,無実の者に虚偽自白を迫るマイナス面と,真犯人に真相を語らせるプラス面とがあるのだ)。
 有罪無罪の認定を,被疑者の自白からではなく,客観的証拠から認定しする,そのような裁判に変容していくのが,取り調べ可視化のもたらす現実であろう。そのことは,これまで真相究明に役立ってきた「動機についての自白」も得がたくなるということだ。事件の背景などの客観的状況から「推定される動機」でよしとせざるを得ない。
 「自白追求」という野蛮で中世的な手法からもはや脱却すべきだと考えている私は,それもやむを得ないと考えている。
(注・取り調べの状況を録画などに記録しておいて,後の裁判で「自白は強制された嘘のものだ」との主張が出された場合に備える方策。これにより,暴行,脅迫を伴う取り調べはもちろんできなくなるし,供述を強制しかなねい高圧的態度による取り調べも難しくなる。)
(無勢)

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 大寒のころらしい寒さが続く。
 寒いのが苦手な私が、この寒さになんとなくほっとするのは不思議だ。
 このところ、四季感がうすれる気候が続き、しとしと雨よりもスコールに似た雨が多くなるなど、日本が亜熱帯化するのではないかと感じさせる不気味さがある。
 
 NASAは、地球温暖化に伴って、南極の氷床が解けるペースが96年から06年の10年で1.75倍になったと発表した。
 
 折しも、ダボス会議で福田首相が、途上国の温暖化対策の経済的支援や温室効果ガスの国別総量目標を設定するなどの包括的な地球温暖化対策を発表した。EU等の厳しい削減目標に比べて、まだ後ろ向き過ぎるとの批判もあり、まったなしの温室効果ガス削減競争の時代に入った。
 
 昨年、温暖化により海中に沈みつつあるツバル諸島(ポリネシア)で生活する島民の様子と、石炭採掘によって日々の生活費を稼ぐ中国の労働者の様子と、排出権の投機的取引をするニューヨークの商人の様子を同時中継したテレビ番組があった。その中で、「神は私たちを見捨てはしない」と信じるツバルの長老の家が海水につかって行く場面は衝撃的だった。
 ゴアが制作に関与した「不都合な真実」の映画でも、温暖化に伴って、ハリケーン「カトリーナ」が猛威を振るうなどの気候変調が現実のものとなり、近い将来、地球上の多くの都市が水没する危険が迫っていることなどが生々しく描かれている。
 
 早急な地球温暖化対策が必要であることが、ようやく、多くの人々の共通の認識になってきた。
 
 石油産出で外貨を稼いでいるUAEのアブダビでも、高額な資本を投入して、太陽光発電などの技術開発を進め、低炭素化社会を実現しようとしているという。

裁判所でも冷暖房制限や、電気の消費抑制等がなされ、私たちもクールビジやウオームビジで対処しなければならなくなっている。
 私たちが文明の意味について考える良いチャンスだとも思う。
 省エネ・エコ生活もなじめばそれなりに快適である。
 星空を眺めるゆとりを持つためにも、夜間の不必要な照明は、それぞれが自覚して抑制したいものと思う。
(あすなろ)

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 今週は,「司法試験「年3千人」見直し 法務省、合格者減も選択肢」(朝日)との刺激的なニュースが流れました。「合格者の急増による「質の低下」を懸念する声が相次いでいることに危機感を募らせたためで、「年間3000人は多すぎる」との持論を展開している鳩山法相の意向も受け、年度内にも省内で検討を始める。同省が慎重路線にかじを切ることで、今後の検討内容によっては現在の「3000人計画」が変更され、合格者数を減少させる方向に転じる可能性も出てきた。」(朝日)とのことです。
 法曹人口の拡大は,平成司法改革の柱の一つで,合格者3000人計画を盛り込んだ司法制度改革推進計画が閣議決定されており,先進国で法曹人口が少ないわが国が,少なくともフランス並みの法曹人口になるように制度設計されたと記憶しています。これが後退するのかどうか目が離せないですね。規制緩和,構造改革を進めた小泉改革が後退した世の中の風潮と何か関係があるのでしょうか。今後,法務省だけでなく,経済界,法科大学院,日本弁護士連合会などの動きが注目されます。
 次は,「<最高裁>検察審査会の配置見直し案 東京は3倍の6カ所に」(毎日)とのニュースです。検察審査会の適正配置というところでしょうか。かつて,簡易裁判所,地方家庭裁判所支部の適正配置の動きが昭和から平成にかけてありましたが,今度は検察審査会ですね。内容としては,都市部で増設,地方で統廃合というイメージでしょう。
 さらに,時節柄,やはり刑事関係の動きのニュースが続きました。「容疑者が取り調べ記録、自白強要をノートで防ぐ──弁護士会「差し入れ」、ご当地版も続々」(日経)とのニュースがある一方,捜査側の警察庁も,「尊厳害する言動規制 警察庁が取り調べ指針、県警誤認逮捕を検証」(北日本新聞)とのことです。後者は,富山の誤認逮捕問題や被告12全員が無罪となった鹿児島県の選挙違反事件を受けたもののようで,警察庁が「取調適正化指針」をまとめたとのニュースです。
 そのほかには,「公取委、談合対象の審判廃止へ 不服企業は訴訟に」(朝日),「来月4日に初の和解へ 薬害肝炎訴訟、福岡高裁で」(共同)などのニュースがありました。前者は,企業側が「審判で審判官と事件を摘発する審査官が、同じ公取委なのでかばいあう姿を見る」と批判しており,日本経団連や経済産業省が審判制度を全廃するように求めていたものに応じたもののようです。廃止されれば,直ちに裁判所で争うことになる構想のようですね。ADR(裁判外紛争解決手続)の重要性が叫ばれる中で,ちょっと意外な感じもしないではないですね。
 全体としてみると,司法試験合格者数見直しのニュースを始めとして,従来の司法改革路線とは少し違った動きも感じた一週間でした。



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 平成20年1月21日の月曜日の朝は一面の雪景色となっていた。岡山ではおよそ10年振りの大雪だろう。約10センチ積もったが,新聞には2センチとなっていた。かねてから大雪が降れば岡山後楽園の雪景色を写真に撮りたいと待ち構えていたので,午前中の急ぎの仕事を片付けて,いそいそと後楽園に出かけた。大勢の人がカメラを持参して写真撮影をしていた。私は65歳になったので入園は無料である。芝生は真っ白で,遙か彼方に岡山城が見える。私のはまだ光学カメラであるが,フィルム1本分を撮影し,すぐに現像に出した。まずまずの写真が出来てきた。
 撮影の目的は,半切(はんせつ)の大きさに引き伸ばして額に入れ,事務所のドアの内側の壁に飾るためである。私は季節感溢れる事務所にしたいのである。「もうすぐ春だな」などという季節に,2週間ほど季節感を先取りした写真を飾ってゆくという計画である。今はたまたま昨年撮影した水仙の写真を飾っているが,これはかなりお気に入りの写真である。今年は春の写真として,菜の花,つくし,猫柳,ふきのとう,梅,桜,すみれなどを撮影したい。それらの写真を2週間に1回の割合で取り替えてゆくのである。朝顔,萩,彼岸花,コスモス,すすきなど10枚くらいの写真が用意できており,全部で24枚にする予定である。今は季節を後追いしているが,全季節の写真を先取りできるようになるまでにはあと半年はかかるだろう。事務所の壁の別の所にも,伯耆大山や蒜山など,時折取り替えることになる各種の写真が飾られている。この工夫は案外楽しい。
 残業タイムに1人でコーヒーを手に写真の前に立ち尽くしていることもある。これはいろいろと物思いにふけっているためであるが,そういえば,「さまざまの こと思い出す 桜かな」(芭蕉)という俳句もある。あれっ,これは水仙の句ではないが,まあいいか!水仙の句は又にしよう。
 事務所には,もう1つ工夫がなされている。ドアの内側の写真の上側に電波掛時計を設置したのである。事務所のすぐ前の交差点の対角線の位置に裁判所がある。事務所から100メートルにも足りない距離である。事務所を出て5分もあれば法廷に到着できる。原則として法廷の15分前に事務所を出ることにしているが,出かける直前に電話がかかってくることもある。そうすると靴も履き替えて,出かける体勢のままで電話の子機を手にして,掛時計の秒針を見つめながら,「あと30秒で電話を切りますよ。」などと正確に対応できるのである。時に時計とその下の季節感に満ちた写真を交互に眺めながら話すことになる。
 私はこの2つのアイディアがとても気に入っている。写真は時間と資金をかけて,少しずつ出来のよいものに変えてゆき,お気に入りの写真を増やしたい。またその一部は自宅にも飾っており,時折交換している。この冬は雪の伯耆大山の写真撮影に出かけたいと,胸を弾ませている。ついでにスキーというのは無理かなー。松江に住んでいたころは,大山で家族で何回か滑ったこともあるが,あれからもう15年近くになる。(ムサシ)




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 前著「裁判官の爆笑お言葉集」がベストセラーになった長嶺超輝さんの新著が、光文社から昨年末に出版された。前回の日本裁判官ネットワークの総会でお話を伺っていたので、さっそく買い求めて目を通した。

 一言で感想を述べれば、大変な労作である。前半は面白おかしく書いてあるように見えるが、中身は法律書並みのハイレベルで、最高裁ウオッチャーを自認する私も知らないエピソードが沢山あった。そして、後半の資料にある歴代全最高裁裁判官の国民審査関連データは、これまで類書が無かったと思われる充実度だ。形骸化して「忘れられた一票」となっている国民審査を何とかしたいという、著者の情熱を感じる。

 ただ、この内容を本当に面白いと思って熟読する国民が多ければ、既に国民審査は成功している筈だと思う。アメリカの連邦最高裁判事に比べて注目されないのは、日本の裁判官に個性が乏しいからだろうが、それは日本国民全般の没個性の傾向の反映でもある。裁判官に個性があること、突き詰めればその思想信条が判断に影響し得ることを、好ましいとは思わない国民も少なくないのではないか。ともあれ、本書がそれなりに売れれば、来たるべき次回総選挙の際の国民審査に向けた出版もあり得るとのことだから、期待したい。

 そこで、私のかねてからの持論を。国民審査を実効化するためには、こうした出版や国民審査公報の充実もさることながら、先行投票をして結果発表してみたらどうかというアイディアがある。まず法律家が日頃からもっとよく最高裁裁判官を研究し、自主的に模擬投票をして、本番の一般国民の投票の際の参考にしてもらうのである。少なくとも日弁連には、会を挙げてこのような運動を展開してほしいものだと願っている。
(チェックメイト)

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 今年の年末までには裁判員候補者の名簿が作成されるというのに、まだまだ、裁判員制度に対して疑問の声が強いようです。一方、裁判官としては、後戻りができないので、そうした時期に至って、裁判員制度が違憲かどうかを論じるのは、うしろ向きではないかといわれそうですが、自分の頭のなかの整理の意味でも、もう少し考えてみたい。

 前回は、裁かれる側からの違憲論だでしたが、今回は、裁判員としてよばれる一般市民の立場からの違憲論をとりあげよう。嵐山光三郎氏は、「日本の論点2008」で次のようにいう。「要するに、お上が『一般国民にも裁判官をやらせてやるから、おまえら、指名されたら断るんじゃないぞ。断ったら罰金だ』といっている。裁判官の徴兵制というべき制度である」といわれ、指名されたら、国外逃亡を考えるという。

 裁判官出身の学者である西野喜一氏も、善良で誠実な市民が、ある日から突然に何日も裁判所に引っ張られて自分の本来の仕事もできず、家族の世話もできず、朝から夕方まで法廷に端座させられるのは、「意に反する苦役」(憲法18条後段)にほかならないと、いわれ(「裁判員制度の正体」講談社現代新書)、違憲論の急先鋒にたっています。

 このようにはっきりいわれる(「苦役」と言う言葉に出会うのも司法試験の勉強以来です)と、来てもらうおうとする側の裁判官として、少し「申し訳ない」気になるが、はたして、憲法は、国民に対し裁判所に来ることを義務づけることを許していないとまでいえるでしょうか。細かな論証は省きますが(詳細は、土井真一「日本国憲法と国民の司法参加」<岩波講座・憲法4所収>参照)、憲法が、国民参加により司法の充実を図ろうとすることを禁じているとは思いませんし、司法が本来は、国民の一部によってもり立てるものではなく、国民自身のものである以上、国民は利益のみを享受するだけではなく、責任も分担しなければならないのではないでしょうか。どうか、市民の皆さん、裁判員の仕事を「苦役」ととらえずに、積極的に来られることを念じています。

 なお、最近出た憲法の教科書を読んでいましたら、裁判員を辞退できる事由をあまりに厳格に運用すると、「苦役」となる余地があると書かれていました。機会があれば、この問題についても、考えたいとおもつています。     (風船)

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 家庭裁判所に勤務していることから,少年事件関係の本を読むことも多いのですが,最近非常に感心した本が品川裕香著「心からのごめんないさいへ」中央法規出版刊(1900円)です。 宇治少年院を中心に,少年院の最近の取組の変化とそれによる少年の成長ぶりをインタビューなどを交えて生き生きと書いています。特にその中心にある向井義広氏(当時宇治少年院首席専門官)の理論と実践を詳細に書いているのですが,いわゆる発達障害とかアスペルガー症候群などに似た傾向を示す少年について,その診断を正確にすることよりも,その少年固有の特徴をつかんでそれに対応した個別的な処遇をすすめることの方が大切というものです。というとあまり新味がないように見えますが,その成果は誠にめざましいものがあるようです。詳細は本を読んでいただきたいのですが,少年達自身の言葉でもその劇的変化が語られています。他の少年院への波及効果も大きいようです。
 このルポは,あとがきにあるように,著者自身の帰国子女としての,つらいいじめ体験からの言葉「私は,こどもたちの感じている,居場所のなさ,理解者がいない惨めさ,レッテルを貼られる怒り,そして何もできない自分に対する絶望感について,ずっと考えています。」という一節に表現された心情があふれた読み応えのあるものです。この本は後書きから読み始めるのが良いかもしれません。お時間のある方は是非ご一読下さい。「花」

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先日,少年院の成人式に来賓として出席した。

百数十人の在院生が姿勢を正して着席する体育館。
モーツアルトの軽やかなメヌエットが流れる中,みんなの拍手に迎えられ,新成人23人が,間隔をあけて一人づつ,両手をしっかり振って入場し,壇の前2列に着席する。
新成人の名前が一人づつ読み上げられと,それぞれが「はい!」と大きな返事をして立ち上がり,後ろの在院生,保護者,来賓に一礼する。
学園長の式辞。地元教育長そして在院生代表の祝辞と励ましの言葉。
記念品の贈呈。

新成人を代表して一人が壇上に上がり,誓いの言葉を述べる。
「この学園に入院しても,本気で謝罪したことはまだありません。うわべだけの謝罪だけなら,いつでもできると思います。ですが,今まで数え切れないくらい謝罪をし,何度もチャンスを頂きましたが,私は,その事に甘えてしまい,同じ事を何度も繰り返してきました。」「成人になったからには,心から謝罪ができるようにしっかりと生活をし,被害者の方々にも,心からの謝罪をし,認めて貰えるように準備をしていきます。」

続いて,23人の一人一人が,短いながらも,前向きの決意を力強く述べる。謝罪と感謝を忘れない人間に成長したい,そんな想いが伝わってくる。
その23人が綴った作文集には,何度も何度も押し寄せる不安や絶望との闘いがかいま見える。更生に向けて必死の毎日なのである。少年院の教官達は,そうした少年たちを支え励まし,考え抜く力を育てようとしている。

ボランティアの女性グループによるお祝いのコーラス披露。
そして,参列者全員で,「栄光の架橋」の合唱。

最後は,また,新成人が一人づつ,拍手の中を退場する。
学園長がその一人一人と笑顔の握手。少年らは照れながらも嬉しそう。
いつもは豪放磊落な学園長の目が次第にうるみ,赤くなって行くのが,遠目にも分かる。

きりっとした緊張感の中に,温かさも十分感じられた成人式だった。
新成人に幸あれ。(蕪勢)

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大学入試センター試験が全国各地で実施され、54万人の若者たちが受験した。
 「ゆとり教育」の中で教育されてきた世代である。
 折しも、中教審が「ゆとり教育」を転換する答申をした。
 江戸時代から、「学校の衰えは世の衰えの基となる」(中井竹山)と言われてきた。
 イギリス等でも、いわゆる「ゆとり教育」が経済の後退を生んだとして教育改革論が政治の焦点になったことがある。
 次代を担う若者たちの教育をどうするかは国の運命に関わる。
 
 
 他方で、朝令暮改による弊害も大きい。振り子のように極端な改革にならないようバランスのとれた教育政策がとられることを望む。
 
 どの時代にも、「近頃の若い者は…」と言われるが、若者たちの活躍はめざましい。
 早大の「ハンカチ王子」は好感が持たれているし、ゴルフ界でも「はにかみ王子」がプロとして活躍し、フィギュアスケートでは浅田真央が鮮やかな演技を披露し、囲碁界や卓球界でも若者たちの活躍が目立つ。
 昨年11月に日本で開催された技能五輪国際大会でも、青年技能者たちが匠の技を競い、日本の若者たちが、造園、洋菓子製造部門で初めて金メダルを獲得したのを初めとして、47種目中16種目で優勝した。
 スポーツ、文化、科学、奉仕等あらゆる分野で若者たちがその能力を開花している姿には目を見張るものがある。
 
 その一方で、ネット等を利用したいじめや虐待、ワーキングプア等、若者たちの自己実現を阻み、成長を阻害する問題が絶えない。社会全体で真剣にその解決を考えなければならないと思う。
 
 法曹界では、法科大学院で教育を受け、新司法試験に合格して、1年間という短縮された実務修習期間を経た新法律家が生まれるようになった。司法の行く末は、近い将来司法を担っていく若者たちに対し、私達がどのように支援し、その研鑽に協力して行くかにかかっている。
 
 「君の行く道は果てしなく遠い」
  でも、「空にまた陽が上るとき若者はまた歩き始める」
  そして、「君の行く道は希望へと続く」
(あすなろ)

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 今週のニュースの第1は,日本新聞協会が,「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」を発表したことでしょう。同指針では,犯罪報道の重要性を指摘しながら,被疑者を犯人と決め付けるような報道は、将来の裁判員である国民に過度の予断を与える恐れがあるとの指摘もあるとして,確認事項として,「捜査段階の供述の報道にあたっては、供述とは、多くの場合、その一部が捜査当局や弁護士等を通じて間接的に伝えられるものであり、情報提供者の立場によって力点の置き方やニュアンスが異なること、時を追って変遷する例があることなどを念頭に、内容のすべてがそのまま真実であるとの印象を読者・視聴者に与えることのないよう記事の書き方等に十分配慮する。」「事件に関する識者のコメントや分析は、被疑者が犯人であるとの印象を読者・視聴者に植え付けることのないよう十分留意する。」(毎日)などを確認事項として掲げています。多くの法律家からすると,無罪推定の大原則があるにもかかわらず,逮捕段階から,被疑者・被告人が犯人視されかねない記事には,長い間違和感を抱き続けてきたのが正直なところだと思われますが,裁判員制度発足に併せて,新聞紙協会が上記のような指針を発表したことには,敬意を表すべきでしょう。従前も,上記方針でやってきたが,それを確認しただけだとと反論されるかもしれませんが,協会として改めて確認し発表したのですから,今後,実際の記事で,上記指針の精神・確認事項がどのように生かされていくか注目されます。また,新聞とは異なる報道媒体の指針というものは出ないのでしょうか。なお,犯罪報道関連としては,「BPO放送倫理検証委が調査 光市母子殺害事件の裁判報道」(共同)とのニュースもありました。BPOとは,NHKと民放でつくる放送倫理・番組向上機構のことです。世間の関心の高い山口県光市の母子殺害事件の裁判をめぐるテレビ報道について、弁護士らが,「弁護団を一方的に中傷する不公正な報道があり、事実関係の間違いや歪曲、過剰な演出も多く、放送倫理に反する」と審理を要請していた(共同)に対応するものです。報道側の自主的な動きが注目されます。
 第2は,ショッキングなニュース。「昨年の死刑判決、最多の46人」とのニュースです。内容は,「昨年、全国の地裁、高裁と最高裁で死刑判決を言い渡された被告は、計46人に上り、1980年以降最も多かった」「06年の計44人がこれまで最多で2年連続の更新。昨年末現在の確定死刑囚は少なくとも106人、死刑執行は9人で、いずれも80年以降最多」(共同)というものです。評価は様々に分かれるでしょう。治安の悪化の問題も関連しているのかもしれませんが,注目されるのは,被害者の訴訟参加や,裁判員裁判が実施されると,上記のような傾向がどうなるかでしょうね。
 その他には,薬害肝炎訴訟で,原告団と政府が基本合意書を締結したとのニュースがありました。先週の薬害肝炎被害者救済法案が可決成立したことに続く動きです。また,昨年の漢字は,「偽」だったようですが(清水寺・森清範貫主),今年も,企業のコンプライアンスに係わるニュースが続いています。古紙配合率に関し,製紙業界各社が実態と異なる表示をしているのではないかとのニュースです。過去のコンプライアンスについても,クラッチ死亡事故で,三菱自動車元社長らに有罪判決(横浜地裁),拓銀元頭取らの36億5000万円の賠償義務確定(最高裁)のほか,船場吉兆が民事再生法の適用を申し立てた(大阪地裁)などが報道されています。
 ニュースを追っていると,日本社会が,各方面で「法化社会」「法適合社会」に移行しているのを感じますね。ギスギスした面もあるのですが・・・。(瑞祥)


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 散歩は健康によいとされているが,肉体的な健康のみならず,精神的な健康の点からも,甚だ効果があると考えてよいだろう。私の今後の人生の中で,今までよりも遙かに多く,散歩の時間を取りたいと考えるようになった。散歩やサイクリングや近くの山の軽いハイキングなどを,人生の充実という視点から工夫し直してみたい。
 減量のための最もよい方法は食事の量を少し減らすことであるが,減量のためのスポーツとしては,結局歩くことが最善の方法のように思われる。1時間の散歩で約30グラムの脂肪が分解され,毎日1時間の散歩を1か月続けると1キロ減量することになるようである。
 散歩していると案外よいアイディアが閃くものである。そして帰宅してメモしようとすると忘れていることが多いから,散歩などにはメモ用紙を忘れないことが大切である。散歩中に判決を書くための名案が浮かぶことも多い。
 まず岡山後楽園の活用である。私は昨年末に65歳になり入場無料になった。私の気持ちの中で岡山後楽園がわが家の庭になったのである。そこで早速ひとりで散歩に行ってみた。家から約500メートルなので,到着までに自転車で5分もかからない。冬場は午前8時から午後5時まで開園している。入園料は350円であるが,これを支払わないでよいというのは甚だ愉快である。
 梅は蕾が大きくなっていたが,開花はまだ先のことだろう。水仙が咲き始めていた。そうだ毎回カメラを携えて梅や水仙や桜や四季の写真を撮影しよう。気に入った写真は引き伸ばして,額に入れて事務所に飾ることにしよう。そうすれば季節感に満ちた事務所になるに違いない。できれば週1回,少なくとも月2回は散歩することにしたいものだ。
 そう言えば2000円で「年間パスポート」が売られている。以前購入したことがあるが,結局年3回程度しか行かず,損をしたことになった。しかし今回はわがやの庭として散歩しようというのであるから,心構えが違うというものである。
 この4月には5年に及んだ別居が解消されることになり,妻が帰って来る。できれば妻と一緒にせっせと後楽園を散歩したいものである。私はトレーニング計画表の項目として「岡山後楽園の散歩」を書き入れた。1年間に何回散歩できるか楽しみである。
 岡山後楽園では年間様々な行事がある。これらに熱心に参加してみよう。これまでも中秋の名月の夜に開園されてきたが,熱心に入園して名月を楽しんできた。そういえば,「見る人の こころこころに まかせおきて 高嶺に澄める 秋の夜の月」という道歌がある。早くこのような悟りの境地に到達したいものである。
 また誰も知らないような裏の方の隅から隅まで知り尽くしている後楽園の「通」になりたいと思っている。岡山後楽園の写真集を買ってきたが,いろいろと知らないことが書かれている。元は岡山藩主池田侯の庭園だったのであり,完成から300年以上が経過している。古い歴史があるから,逸話もあるに違いない。
 散歩したり,暖かくなると寝ころんで空を眺めたり,読書したり,昼寝をしたり,手作りの弁当を持参したり,私の今後の人生を豊かにしてくれる時間と空間として最大限に活用したい。何かと思いが溢れるということになるのなら,それを書き留めたいと思っている。
 それにしても時間的にもう少し余裕のある生活にしなければ,心から散歩を楽しむことにならない。仕事で焦りながら散歩しているようでは,散歩も有害となるだろう。
 仕事も頑張りながら,心から散歩を楽しめるように早くなりたいものである。(ムサシ)


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長嶺超輝著「サイコーですか?最高裁!」を読む(その5)

「おわりに」の中に、日本の裁判所は親しみを持たれていないとして、
「国会みやげ」があるんですから、「最高裁みやげ」があっても問題はありませんよね。口先だけの「開かれた裁判所」なんて、もはや必要ないでしょう。(330頁)
という指摘があります。

ただ、実際には「最高裁みやげ」も僅かながら存在します。
司法協会の売店で販売している、最高裁庁舎等をデザインした、ペン皿・絵葉書・テレホンカード等です。
もちろん、アメリカ連邦最高裁の土産物売場の品揃えには遠く及びませんし、私がロンドンで訪れた裁判所(クイーンズ・コート)でも数十種類の品々がありましたから、もっと色々と作ってほしいところですが。

実は私がもっと寂しく感じているのは「日弁連グッズ」の貧弱さです。
最近になって、東京都弁護士協同組合が「弁護士ネクタイ」を販売するようになりましたが、それ以外は皆無に近い惨状でした。記憶に残るのは、かつての「博多人形・当番弁護士」くらいです。
裁判員制度や法テラス等の広報のための非売品は別として、弁護士会の販売グッズもぜひ充実させてほしいものです。
(チェックメイト)


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  裁判員制度について(その4)  -違憲論について-

 裁判員制度に対する逆風については、安原判事がホームページ(19年10月)のオピニオンで述べておられるが、なお、その風はおさまるところがない。最近発行された、文藝春秋編「日本の論点2008」でも、嵐山光三郎氏が、「裁判員に公正な判断は可能か」という題のもとに、自ら裁判員になりたくにないし、被告になってもプロの裁判官に裁かれたいと述べられていた。

 ところで,裁判員制度批判論,なかでもこれを違憲とする主張が,これが立法化されて相当な期日が経過した現時点でも衰えないというのは,その実施まで1年余りとなったこの時期からすると,決して好ましい事態とはいえないであろう。

 裁判員制度違憲論が、一番力点を置くのは、国民は、裁判官による裁判を受ける権利を保障されているところ、「裁判員は評決に当たり裁判官と同じ1票を持つから実質的に裁判官だ。これは憲法80条1項の『下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣で任命する』との規定に抵触する。裁判員が裁判に関与する根拠は、憲法のどこにもない」(元東京高裁部総括判事・大久保太郎・朝日新聞19・12・30)という点であろう。重罪に問われた被告人が、従前どおり裁判官だけの裁判を望んだ場合でも「裁判員裁判」を強いられるのは、制度論としても、やや硬直化していることは否めないし、アメリカのように「陪審裁判を要求する」権利として、構成すべきであったようにも思う。

 しかし、憲法を厳密に解釈すると、憲法32条は、「裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と規定して、「プロの裁判官だけによる」裁判に限定していないし、憲法からみると下位規範ではあるが、裁判所法は「刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない」(3条3項)と規定していることからみて、憲法は、裁判所の構成自体は、法律に委ねたとみることは十分に可能だと考える。そして、現に法制化された以上、現職の裁判官としては、この点にこだわって、違憲ゆえに裁判員制度に反対ということはできない(現に裁判で被告人からこの点を争われた場合に、違憲立法審査権を持つ裁判官としてもう一度真摯に検討すべきことは当然である。)。むしろ、理想的な「裁判員裁判を実現するために、どうすれば実質的な評議を確保することができるかどうか、について努力を傾けるべきであろう。

 もちろん、裁判員制度が軌道に乗った段階で、あらためて、被告人に、裁判員裁判を選択する権利を与えるかどうか、見直すことは必要ではないか、と考えている。                       (風船)



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映画雑誌キネマ旬報の07年作品ベストテンが発表され,1位に「それでも僕はやっていない」が選ばれ,さらに監督賞,脚本賞も周防監督に,主演男優賞に「それ僕」主演の加瀬亮氏に輝き,まさに圧勝というところです。周防監督はこれまで2回わたり,日本裁判官ネットワークの企画に参加していただきましただけに,人ごととは思えず喜んでおります。周防監督,新年早々誠におめでとうございます。
「それ僕」は,本来,興行映画にはなりにくい,小さな事件のえん罪の可能性をテーマにしながら,一流のスリラー並みに観客を最後まで飽きさせない作りになっているうえ,裁判官の陥りやすいパターン化した事実認定の危険性に警鐘を鳴らしており,裁判員裁判の意義を考える上でも是非多くの方に見て欲しい映画と思います。
見逃した方はDVDも発売されているようですから是非ご覧ください。「花」

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