今年の年末までには裁判員候補者の名簿が作成されるというのに、まだまだ、裁判員制度に対して疑問の声が強いようです。一方、裁判官としては、後戻りができないので、そうした時期に至って、裁判員制度が違憲かどうかを論じるのは、うしろ向きではないかといわれそうですが、自分の頭のなかの整理の意味でも、もう少し考えてみたい。
前回は、裁かれる側からの違憲論だでしたが、今回は、裁判員としてよばれる一般市民の立場からの違憲論をとりあげよう。嵐山光三郎氏は、「日本の論点2008」で次のようにいう。「要するに、お上が『一般国民にも裁判官をやらせてやるから、おまえら、指名されたら断るんじゃないぞ。断ったら罰金だ』といっている。裁判官の徴兵制というべき制度である」といわれ、指名されたら、国外逃亡を考えるという。
裁判官出身の学者である西野喜一氏も、善良で誠実な市民が、ある日から突然に何日も裁判所に引っ張られて自分の本来の仕事もできず、家族の世話もできず、朝から夕方まで法廷に端座させられるのは、「意に反する苦役」(憲法18条後段)にほかならないと、いわれ(「裁判員制度の正体」講談社現代新書)、違憲論の急先鋒にたっています。
このようにはっきりいわれる(「苦役」と言う言葉に出会うのも司法試験の勉強以来です)と、来てもらうおうとする側の裁判官として、少し「申し訳ない」気になるが、はたして、憲法は、国民に対し裁判所に来ることを義務づけることを許していないとまでいえるでしょうか。細かな論証は省きますが(詳細は、土井真一「日本国憲法と国民の司法参加」<岩波講座・憲法4所収>参照)、憲法が、国民参加により司法の充実を図ろうとすることを禁じているとは思いませんし、司法が本来は、国民の一部によってもり立てるものではなく、国民自身のものである以上、国民は利益のみを享受するだけではなく、責任も分担しなければならないのではないでしょうか。どうか、市民の皆さん、裁判員の仕事を「苦役」ととらえずに、積極的に来られることを念じています。
なお、最近出た憲法の教科書を読んでいましたら、裁判員を辞退できる事由をあまりに厳格に運用すると、「苦役」となる余地があると書かれていました。機会があれば、この問題についても、考えたいとおもつています。 (風船)
前回は、裁かれる側からの違憲論だでしたが、今回は、裁判員としてよばれる一般市民の立場からの違憲論をとりあげよう。嵐山光三郎氏は、「日本の論点2008」で次のようにいう。「要するに、お上が『一般国民にも裁判官をやらせてやるから、おまえら、指名されたら断るんじゃないぞ。断ったら罰金だ』といっている。裁判官の徴兵制というべき制度である」といわれ、指名されたら、国外逃亡を考えるという。
裁判官出身の学者である西野喜一氏も、善良で誠実な市民が、ある日から突然に何日も裁判所に引っ張られて自分の本来の仕事もできず、家族の世話もできず、朝から夕方まで法廷に端座させられるのは、「意に反する苦役」(憲法18条後段)にほかならないと、いわれ(「裁判員制度の正体」講談社現代新書)、違憲論の急先鋒にたっています。
このようにはっきりいわれる(「苦役」と言う言葉に出会うのも司法試験の勉強以来です)と、来てもらうおうとする側の裁判官として、少し「申し訳ない」気になるが、はたして、憲法は、国民に対し裁判所に来ることを義務づけることを許していないとまでいえるでしょうか。細かな論証は省きますが(詳細は、土井真一「日本国憲法と国民の司法参加」<岩波講座・憲法4所収>参照)、憲法が、国民参加により司法の充実を図ろうとすることを禁じているとは思いませんし、司法が本来は、国民の一部によってもり立てるものではなく、国民自身のものである以上、国民は利益のみを享受するだけではなく、責任も分担しなければならないのではないでしょうか。どうか、市民の皆さん、裁判員の仕事を「苦役」ととらえずに、積極的に来られることを念じています。
なお、最近出た憲法の教科書を読んでいましたら、裁判員を辞退できる事由をあまりに厳格に運用すると、「苦役」となる余地があると書かれていました。機会があれば、この問題についても、考えたいとおもつています。 (風船)
裁判員制度については、18条、19条、32条、37条、80条など、幅広い条文に違反する可能性が指摘されています。これだけ多くの条文に反する可能性が指摘されているということは、個別の条文ではなく、現行憲法の根本的な原理に反している可能性を検討しなければならないことを意味しているように思います。
裁判員制度は、司法における直接民主制の導入といえますので、裁判員制度の合憲性を検討するに当っては、「司法権の役割とは何か?」「司法に直接民主制を導入することは許容されるか?」という根本的な問題を避けて通ることはできないはずです。この点、間接民主制には、①多数派による少数派の迫害を避ける(刑事裁判では、被告人の権利に相当)、②国民が自己の意思に反する公務に就任する義務を否定する(裁判員制度でいうと、一般人が裁判員になることを拒絶する権利に相当)、という重要な人権保障機能があると考えられます。これを無視してよいのか、今一度、検討されるべきだと考えます。
公務員は「全体の奉仕者」ですので、公務員(裁判官)と同じ職務を遂行しなければならない裁判員になる義務を国民に課すことは、国民を、その意に反して全体の奉仕者にするということであり、現行憲法の理念と真っ向から反するものです。18条、19条、20条、21条、22条など、多くの人権侵害を生じるのは当然のことといえます。国民に公務就任義務を肯定することは、全体の奉仕者になることの強制に他なりませんので、公共の福祉による制約という理由での合憲判断も許されない絶対的な違憲と考えます。
国民が、国政に関して、単なる傍観者となりつつあることに危機感を覚えている方が多いと思いますが、だからといって、国民をいきなりプレーヤーに駆り出すというのは、やはり妥当ではありません。まずは、間接民主制の下で国民に求められている、助言者・監督者としての役割を果たせる制度を作るのが先決なのではないでしょうか?
すなわち、寺西裁判官分限事件や神坂直樹氏裁判官任官拒否事件と同じ構図となるのです。
すなわち、自民党新憲法草案において「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えることによって、「国民に公務就任義務を肯定することは、全体の奉仕者になることの強制」を合憲化する可能性が出てくるわけです。
こんな大文字の掲示を裁判所の門前で見かける度に、「オリンピックではあるまいし」と思う。
各地の裁判所が、それぞれ似たようなことをしているのだろうが、千葉の本庁では、愛称がジャッジくん、フェアちゃんとされたマスコット・キャラクターが法服をまとって、「裁判員は誰にでも務まります」と呼びかけているようだ。
いつも私はこれを見ては、「ついて行けない」と感じるのだが、こういう拒否反応は、年のせいだろうか。
裁判所所長や検事正のみなさんは、本音ではどう感じているのか。中には首をかしげている人もありそうな気がするのだが。
どうすれば制度への理解と支持を広められるのか、答えられる人が何人いるだろうか。
国会で決まった法律だから、まずその円滑な実施に全力を尽くさなくてはいけない。
裁判官も検察官も、上から下まで、言えるのはそれだけだろうと、私は思う。
この制度がもたらすものに期待して、ワクワクしながら実施の日を待っている。そういう人もいるのだろうが、弁護士の間からも、一向にそういう声はきこえてこないのが実情ではないのか。
それでも裁判所は、これだけ努力していますと示さなくてはならないから、国民の皆様のご理解とご協力を求めて、涙ぐましいような呼びかけをしているのだが、もし来年の実施は延期しますと国会が決めたら、裁判官も職員も、ああ、よかったと喜ばない人はいないような気がする。裁判員担当に決まっている職員が一番喜ぶのではないかしら。
私は裁判員法は違憲だという説の方が、合憲説に比べて、論争ゲームでは勝ち味があると思うが、そんな論争にあまり関心はない。
このまま裁判員制度が見切り発車させられれば、憲法違反だという上告論旨が続々と現れるに違いないが、実施のために現場に汗をかかせ続けてきた最高裁が、「ごめんなさい。あれはやっぱり違憲でした」などと言えるわけがない。第一、まじめに義務を果たしてきた裁判員に、どんな申し訳ができるか。 だから最高裁は、どんな無理な理屈をつけても、憲法に違反しないと判断するに決まっている。
しかし、違憲と言おうが言うまいが、このまま行けば、裁判員法の行く先は、「氷山めざし、まっしぐら」だというのが私の予想だが、このことはすでに書いた。
裁判員制度の定着と成功を期するためには、とりあえずの実施見送りと制度の見直しは避けられない。
福島みずほさんも、ようやく同様な意見を明らかにしたではないか。
「いや、自分は実施が待ち遠しい、期待することが一杯あって、楽しみにしている」という方が多ければ、私も説得されるかも知れない。しかし、
「ここまで来たら,多少の血が流れても突撃するしかないと、”テロリスト”としての推進派宣言をしております」
これでは全然元気が出ないじゃありませんか。
「裁判官が国民を教育しているつもりが,やがていつの間にか,検察官・弁護人共々裁判員に逆に教育され始める。そこにこそ裁判員制度の意義がある。そして国民がこの制度を契機に広く犯罪予防・犯罪者更生のために我々の社会が何をしなければいけないかを考えるようになれば,裁判員制度がこの社会に根付いたと言えるでしょう。」
どんな裁判員だったら、10回の期日に耐えられるのか。
そこまで辛抱できたとしても、最後には、とにかく早く解放されたい一念で、お任せ司法になってしまうはずだというのが、常識的な判断だと思うのですが。
「裁判員制度は”劇薬”かもしれません。しかしこの劇薬がなければ,彼我の力量差から見て残念ながら証拠開示や可視化という成果はなかったでしょう。私は現行調書裁判に対する”テロリスト”として、断乎、裁判員制度を支持します。」
この指摘の前半には賛成。
調書裁判をぶっつぶせというのも、理念としては賛成したいんだが、実は私が、一番引っかかるのも、多分そこからきているようです。
深層心理においては、調書裁判を否定されることが、私がしてきたことの90パーセントを否定されることだという、理屈抜きの反発が働いてしまうようです。
弁護士会の研修で、講師の先生の「要旨の告知を改善することによって、裁判員に書証の骨子を理解させることが可能なはずです」というような発言をきいたとたんに、実のところ、むかついてしまった。
もちろん昔から岸盛一さんのような人が、そういう説を唱えていたのは承知していますが、自分には絶対に向かない、あるいは、自分の能力では、調書を読まずに必要な情報を頭に入れることは無理だと、早くから見切りをつけていました。
調書裁判のどこが悪いと開き直りたいのが、私の裁判員制度に対する拒否反応の自覚しない真実の動機であるかも知れません。
何しろ、証言から心証をとるなんて作業は、いつ、どこでしたのかと、思いあぐねるくらいですから。
もちろん、実際に裁判員に調書を読ませないで、耳から入れた情報だけで、的確な理解を求めることが、一般に可能だということが、実績によって証明されれば兜を脱ぎますが・・・
とにかく、私が裁判員制度に大きく疑問を抱き始めたのは、「裁判員は記録を読まなくていいんだ」という話をきいて以来です。
「一か八かやってみたらいい」「世の中は全てバクチ」
「昔から、七転び八起きというではないか」
いくら尊敬する人の説でも、これはいただきかねる。
第一、これでは、「制度実施が待ち遠しくて、ワクワクしている」なんて
気分とは、まるで違う。ついて行く気が起きるはずないでしょう。
「国会で全会一致で決まった以上、国民主権の下ではまずそれが正解であったと信じ、四の五の言わずにやってみようよというのが私の意見である。」
こういうことが書いてあったから、私は苦労して衆参両院法務委員会の議事録と司法制度改革審議会の議事録から、何かを見つけようと数時間を費やしましたが、何も得られなかった。
多分、探し方が悪いのでしょうから、ここを見ろ、というよりも、 読むべきところをコピーしたメールを、誰でも読めるように送ってください。
憲法が、国民参加により防衛の充実を図ろうとすることを禁じているとは思いませんし、防衛が本来は、国民の一部によってなされるものではなく、国民自身のものである以上、国民は利益のみを享受するだけではなく、責任も分担しなければならないのではないでしょうか。
という解釈で徴兵制もOKになりそうですね。