1 9月になり,季節は秋になった。そういえば最近朝の犬の散歩のとき,空気がヒンヤリしていると感じることが多くなった。「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」(藤原敏行)という和歌は,こんな感覚を詠んだのであろうか。もっともこの歌は立秋に詠まれたようであるので,今の8月7日ころということになる。夏の盛りのころのもっと微妙な感覚を詠んだのかも知れない。
2 アサガオはほぼ終わった。今年は随分たくさんアサガオが咲いた。わが家の庭には秋の草花も植えられている。以前わが家の庭には見事な宮城野萩が咲きこぼれていたことがあったが,私が5年間の単身お留守番中に夏の水撒きをサボったために,数年前に枯れてしまった。以前妻と2人で苗を買ってきて植えたもので,深紅の大きな花が咲き,妻はその萩をとても気に入っていた。それを枯らすとは何事か!妻からかなり本気で叱られ,平謝りするしかなかった。そして反省して一昨年,同じ種類の萩の苗を見つけて1人で買って来て植えておいた。その萩が元気で,今年は私の背を遙かに超える高さになり,見事な花を期待できそうである。蕾も沢山ついている。間もなく咲くだろう。
「行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原」(曽良)
3 やはり一昨年,オミナエシとフジバカマを見つけて買って来て,通りに沿った塀の外の花壇に植えた。今年は8月初めからこの1か月,オミナエシがまっ黄色に咲き続け,「見事!」という他ない趣である。フジバカマも勢いは盛んで,間もなく咲きそうである。私は桔梗とナデシコは大好きなので,苗を見つけるごとに買ってきて,わが家の庭のあちこちに植えてある。
4 秋の七草を詠んだ短歌に,「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花」(山上憶良)というのがある。「朝顔の花」が桔梗なのだそうである。これは「秋の野に 咲きたる花を 指折(およびお)り かき数ふれば 七種の花」に続けて詠まれたものだそうである。
5 わが家の庭には秋の七草のうち,五種が存在している。私はススキも大きな鉢に植えたい。見事なススキが1本か2本,秋風に揺れているのも,なかなかの風情であると思うのであるが,妻が拒否している。やがて種がこぼれて庭中がススキだらけになるのを恐れているのであろう。また葛を植えることにも反対している。
6 秋の七草ではないが,彼岸花も秋の風情に溢れる花である。これも球根を掘ってきて鉢植えしたいと思っているが,妻は反対している。彼岸花にアゲハチョウが舞う姿も秋の風物詩であろう。これを写真に撮影して事務所に飾りたいと思うのである。妻は,彼岸花も野にある方がよいという。
7 こんな話がある。あるときある男が,交際を始めて比較的間もないころに,相手の女性の手を握ろうとして拒否された。そこでその男はその女性にあだ名をつけたというのである。英語の「forget-me-not」という単語は草花の「忘れな草」のことであるが,それと同様に,「私に触れないで」という英単語として「touch-me-not」という単語はないのだろうか。ふとそう思ったその男が英和辞典で調べたところ,偶然にも「あった!」というのである。それは「鳳仙花(ほうせんか)」であった。その男は喜んで,早速その彼女に「鳳仙花さん」とあだ名を付けた。おそらく熟した鳳仙花の実に手を触れると,パチンとはじけるから,英語名で「私に触れないで」ということなのであろう。この英単語を知っている人は余り多くはないと思われるが,勿論その男も知らなかった。しかし彼は以前からこの英単語を知っていたかのごとく,いささか高度な教養人(?)のウイットとして演出したのである。その作戦は見事に功を奏し,間もなく彼女の手を握ることができたことはいうまでもなく,その恋は成就し,幸せな結婚生活を送ったとさ,という話である。
「鳳仙花 照らす夕日に おのずから その実の割れて 秋暮れんとす」(窪田空穂)という句もある。鳳仙花も私の好きな秋の草花で,庭に沢山植えた。今を盛りと咲いている。
そういえば裁判官を主人公とする漫画「家栽の人」の中に,「鳳仙花」という題の感動的な漫画があったことを思い出した。父母が離婚して父に育てられ,母に捨てられたと思い込んで非行に走った少年が,幼い頃母と一緒に鳳仙花の種を播いた鮮明な思い出によって,少年が捨てられたのではなく,母に愛されていたことを思い出し,その後の経過の中で,裁判官による審判の日に,母が控え室で待機しており,希望するならすぐに母に会えると聞いて,母を恋しく思っていた少年が,審判廷で号泣するという事態になり,少年が立ち直るという話であったと思う。
8 若山牧水の句に,「吾亦紅(われもこう) すすきかるかや 秋草の 寂しき極み 君に送らむ」というのがある。秋に旅先から恋人に書き送るラブレターに,この一句を書き添えて,ススキか葛の花を同封して送ると,その恋が成就することは間違いないような気がする。もっとも現代の若い男女が,そのような文学青年や文学少女であるかどうか,また今でも手紙でラブレターを書いたりするのかどうかは,私の知るところではない。(ムサシ)
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