日本裁判官ネットワークブログ
日本裁判官ネットワークのブログです。
ホームページhttp://www.j-j-n.com/も御覧下さい。
 




6(7)実は官兵衛も一度大失敗をしている。それは織田信長の命により自ら敵城に乗り込んだ懐柔工作に失敗して,有岡城で1年にも及ぶ過酷な幽閉生活を送ったのである。これに関して二つの感動的な史実がある。
 その一は信長は(秀吉も)官兵衛が幽閉されていることを知らず,長期間連絡しない官兵衛が裏切ったのではないかと疑って信長が激怒し,信長のもとで人質となっていた官兵衛の長男松寿(しょうじゅ)丸の殺害を竹中半兵衛に命じたのである。しかし半兵衛は,「人質を殺せば官兵衛が織田を恨んで敵になる」と諫言したが,短気な信長が聞き入れなかったので,半兵衛は自らの危険を覚悟したうえで,松寿丸を殺したと信長に(秀吉にも)嘘をついて,半兵衛の故郷に匿ったのである。後日救出された官兵衛と松寿丸との感動的な再会がなされ,官兵衛は半兵衛に深く感謝したのである。もっとも半兵衛は,官兵衛救出の3か月前に病死したようである。半兵衛は秀吉の軍師として官兵衛の師匠の立場にあったものであるが,この話は,半兵衛と官兵衛の信頼関係の強さと,半兵衛も官兵衛の実力を認めており,敵に回すことを避けようとしたとされている。この話には感動した。
(8)その二は,官兵衛は日差しも届かず湿地帯にあり,立ち上がることもできない狭い地下牢で1年間の幽閉生活を送り,片方の膝を痛めることになったのであるが,官兵衛は小さな窓から見える藤の花を心の支えにして,過酷な幽閉生活を乗り切ったのである。そして後に藤の花が黒田家の家紋になったというのであるが,これも私の好きな話である。
(9)官兵衛は知略・知謀の人ではあったが,謀略家ではなく,信義を重んじる人間的魅力に富んだ一流の人物であったといってよいだろう。
(10)そしてまた私の悪い癖ではあるが,現代社会において我々は黒田官兵衛から一体何を学ぶことができるかを考えてみようということになるのである。
 人は誰でも人生において,仕事や人間関係の中でたびたび困難に直面することになる。それは避けられないことである。そしてどうやって困難を乗り切るかについては,それなりに考えるに違いない。そして多くの場合には,これだけ考えたのであるから,こういう結論ということで仕方がないだろうということが多い。
(11)ただ私は,このたびテレビで「軍師官兵衛」を見るようになってから,少しだけ自分に変化を感じている。それは従前であればこの程度で思考を停止したと思われる場面で,「ちょっと待て。もう少し考えると何かよい考えが出るのではないか。」というように,もう一押し考えるようになったのである。これまでは,「弁護士として事件の依頼者をあれだけ説得したのに,説得に応じなかったのだから仕方がないのではないか。」と思ったであろう場面で,なお一歩考えてみることにしたのである。そのことがどれだけ意味があるかはよく分からないが,私は官兵衛の才能もさることながら,官兵衛はきっと,人知れず徹底して考え抜く人間であったに違いない,それが官兵衛の奇策や驚異的な成果を生んだ理由に違いないと勝手に考えることにした。そしてそれを今後の参考にしようと固く心に決めたのである。(ムサシ)



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




6 軍師官兵衛について
(1)NHKの大河ドラマは熱心に見ている。以前にも黒田官兵衛が主人公である「播磨灘物語」(司馬遼太郎著)や,「竹中半兵衛と黒田官兵衛」(秀吉に天下を取らせた二人の軍師)(嶋津義忠著)を読んだこともあるが,改めて感動したということになる。
(2)豊臣秀吉は素晴らしい才能の持ち主であり,若き秀吉は魅力ある人物であるが,天下人となった後は謙虚さを忘れて,次第に凡庸な人間になっていったように思われる。そして晩年は「良薬は口に苦し」という大切な基本を忘れて,秀吉におもねる寵臣の意見だけを採用し,豊臣家の将来を本気で心配して諫めた軍師官兵衛を次第に遠ざけて,石田三成を重用した。そして結局家臣からの信用を失い,自ら豊臣家滅亡の原因を量産してしまい,その結果豊臣家は滅亡したのだと私は思う。
(3)朝鮮出兵は愚行の極みであり,腹心の部下達に地獄の苦しみを味あわせた。なぜ朝鮮出兵をしたのか,私には理解できないが,明国と戦って勝利できると本気で考えたのであろうか。この朝鮮出兵により家臣団に対立を生じて,加藤清正や福島正則などの秀吉子飼いの腹心の家来の多くが結局豊臣家の敵に回ることになってしまった。もっとも秀吉の死後実権を掌握した徳川家康に敵対することを避けたともいわれている。
(4)小田原城攻撃に際して,官兵衛が単身刀も持たずに城に乗り込んで,秀吉との打ち合わせどおりに領地を安堵すると約束して和睦したのに,後に秀吉が態度を変え(あるいは最初からそのつもりでいたかも知れないが),官兵衛の必死の説得を拒否して,敵の城主を切腹させた。また秀吉に予期せず世継ぎが誕生したことから,関白の地位を譲っていた甥の秀次が,わが子の将来に邪魔な存在になると不安を抱き,秀次に謀反の疑いありという虚偽の口実で切腹させるなど,晩年の秀吉は到底一流の人物とは思えない。
(5)官兵衛は,たびたび秀吉に諫言をしたが,当初は聞き入れていた秀吉も,官兵衛の才能を恐れまた嫉妬した石田三成の虚偽を含んだ甘言を容れて,次第に官兵衛を遠ざけた。それにもかかわらず「豊臣家を支えるのは黒田しかいない」と考えて,秀吉を諫め続けた官兵衛は誠に評価すべき人物であると私は思う。秀吉の死の直前に,秀吉から「秀頼を頼む。」と頭を下げられたが,官兵衛は「天下は,それを治めるに相応しい人物が治めるべきです。」と答えて,秀吉の頼みを拒否した点も注目に値する。
(6)官兵衛は,様々な困難に直面したが,驚くべき奇策を編み出して次々に切り抜けて行った。それは見事であり,秀吉が天下を取る原動力となった。その具体的な例を列挙することはしないことにするが,官兵衛はできるだけ敵と戦わずに,死者を出すことなく勝利する策を得意とした。特に秀吉による九州征伐の先遣隊の軍(いくさ)奉行として黒田二十四騎と呼ばれる強固な家臣団を含む黒田勢三千余騎を率いて,小倉城ほか数城を瞬く間に攻略した後は攻撃をピタリと止めて,その圧倒的な強さを見せつけたうえで,降伏を促す多くの書状を認(したた)めて,部下を各地の敵方の城に派遣し,「関白に味方すれば本領を安堵する。」と約束し,裏切ることになる島津との関係はそのままにしておいて,島津から攻撃されることの無いよう細かく策を立て,「近く関白が到着したときには素早く降伏すること」を求めたのである。官兵衛の策は見事に効を奏して,九州の多くの領主が戦うことなく秀吉に寝返ったのである。(ムサシ,この項続く)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )