長編「チボー家の人々」の半分以上を占める「1914年夏」は、第一次世界大戦直前の風雲急を告げる情勢から始まって、反戦陣営の瓦解に絶望したジャックが、飛行機でフランス軍とドイツ軍が睨み合う前線に飛び、空からビラをまいて両軍の兵士に戦闘拒否を訴えようという捨て身の企てに、飛行機の墜落で空しく挫折し、重傷を負った末、敗走するフランス軍の錯乱した一兵卒に射殺されるまでを描く。
こうしてジャックが最期を迎えることは、この巻の結びとなる第85章で描かれ、8月10日、月曜日の出来事とされているが、第73章は、その8日前に遡り、8月2日、日曜日の朝、ジャックがジェンニーに向かって、«Repose-toi,» と口を開く場面で始まる。
この一言には、実は重い意味があり、それは白水社版の「休んでいるといい」という邦訳では伝わらないが、日本語では外に訳しようがない。
これまで二人は、互いに相手との距離を取る二人称の vous を用いていたのが、親しさを示す tu に変ったのは、このときからである。
ジャックはさらに«Moi,je vais conduire Antoine au train. A la
fin de matinée, je reviendrai ici te prendre.»(ぼくは兄貴を汽車まで送ってくる。昼近くに君を連れに帰ってこよう)と続けるが、ジェンニーは即座にこの切り替えができず、やっと«Vous…tu m’y
trouveras si tu veux, en sortant de la gare du Nord.»(あなたは….北停車場を出て、もしよかったら…) という言葉で、vous と言いかけながら口ごもり、自分も初めて tu という二人称を用いて、二人がもう他人ではなくなったことを認める。
ジャックがジェンニーに最後にvousを用いて語りかけたのは第71章で、«Pauvre,pauvre chérie… Il est tard… Vous n’en pouvez plus… Il faut aller faire un grand somme… Dans votre lit.» と言った言葉で、ごくやさしい言葉遣いであるのに、まだtu とは言っていない。しかし二人は、この後ですぐに抱き合って床をともにする。
この8月1日、土曜日の夜が、二人の初夜であり、ただ一度の交りであったはずなのだが、この小説の筋の運びは不自然に回りくどく、第63章には、その前日の7月31日にも、二人が抱き合って眠ったというくだりがある。
ここで既にジェンニーはジャックに、«Serrez-moi fort. Plus
fort… Encore plus fort… » (しっかり抱いて、もっと、もっと…)と迫り、結びの一節にも、Elle eut la sensation délicieuse que
c’était à lui, plus encore qu’au sommeil, qu’elle s’abandonnait.(彼女は身を任せたのが眠りというよりも、むしろジャックであったことに嬉しさを覚えていた)とあるので、このとき既に男女の交りがあったと理解するのが当然でありそうなものだが、それにしては翌日のジャックもジェンニーも、二人にとって新しい人生が始まったという思いにふけりもせず、vousから tuへの変化も生じていないのだから、7月31日の夜には、二人は抱き合いはしたものの、まだ結ばれてはいなかったということになろう。ジャックの禁欲的な性格が欲望に負けるには、手間がかかったとでも解すればいいのか。
ともあれ、この8月1日には動員令(la mobilisation)が発せられ、愛国主義の狂気がフランス全国を覆い、社会主義者は総崩れとなって戦争協力に走り、ジャックがジェンニーに会うのも8月2日が最後となり、結局、二人のtutoyerは、わずか半日で終ってしまう。
ジェンニーは、ただ一夜の交りでジャックの子を身ごもり、ジャン・ポールと名づけられる男の子を産む。
ジャックの兄のアントワーヌは軍医として従軍中に毒ガスに侵され、余命いくばくもないことを知り、ジャン・ポールの将来のために、自分とジェンニーが婚姻して、二人の子としてジャン・ポールが生まれたという戸籍上の体裁を整えることをジェンニーに提案するが、ジェンニーは社会の卑劣な偏見と妥協するために実体のない身分関係を装うことは、ジャックが断じて許さない裏切りとなると決めつけて、アントワーヌの申し出を一蹴する。
このあたりは、いま伝えられるフランスの離婚率の高さなどは、予想もされなかった時代の現代との隔たりを思わされる。
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