日本裁判官ネットワークブログ
日本裁判官ネットワークのブログです。
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 暮れに,娘が2歳になったばかりの孫を連れて遊びに来た。
 カタコトをしゃべり出した孫は,なんとも可愛い。「ジイジイ」(私のこと)と言われるのがうれしくて,せがまれると,ホイホイと痛い腰を我慢して,公園まで「ダッコ」してしまう。

 部屋で一緒に遊んでいるとき,孫がおもちゃを入れる紙箱を破いてしまった。この歳では,破ることはこの上なく楽しいようだ。思わず「メッ! そんなことをしていると,ママに叱られるよ」とたしなめた。
 すると,そばで聞いてた娘が,即座に「お父さん! 違うよ。ママが叱るからいけない,じゃないよ」と横やりを入れてきた。「紙箱を破ることがいけないのは,使えなくなってダメになるからであって,ママに叱られるからではない」ということだろう。
 昔からひとこと多い娘である。時々,親に説教をする。「そんなこと分かってるわい」。言葉には出さないが,ジイジイは面白くない。

 非行を犯した少年たちと向きあっているときの同じようなシーンを思い出す。「バイク盗がどうして悪いのか」と尋ねられて,「警察に捕まるから」と答える子が結構多いのである。
 「そうかな?」と問い直し,「持ち主に迷惑をかけるから」「被害者に辛い思いをさせるから」という「正解」を引き出そうとする。被害者のことに思い至らず,警察に捕まって損をしたと,それだけで後悔する少年のことを,「内省」が足りないとみてしまう。

 それは,そのとおりであろう。
 しかし,ある鑑別所の技官の書いた本に「わが国の裁判所や鑑別所は,非行少年に対して,余りにも道徳的になり過ぎ,深い内省を求め過ぎている」と警告したものがあった。
 被害者のことに思い至れるように教育することは正しく,また目標でもある。ただ,「警察に捕まる」怖さを感じ,いわば損得で行動を律することも,人間として自然なものであり,決して低くみる必要はない。私ども,通常の大人も,いつもいつも道徳的な決断で行動しているわけではない。(誰もいない夜道で,大金を拾った場合を考えてほしい)。悪いことを抑止する動機には,捕まっては大変だという思いも,決して小さくない。

 昔から,子どもには,悪いことをすると「地獄に行く」とか「鬼にさらわれる」と教え込んできた。「おてんと様が見ている」も,後罰を恐れさせる教えであったろう。想像力を働かせて,悪い報いを心の中に呼び起こすことも,人間が行動を律する時の大切な方法の一つなのである。
 非行を犯す子どもたちの中には,「悪い報い」を想像する力が足りないのではと思われる子も多い(おそらく大人の犯罪者にも)。後先を考えて,損得で行動できるだけでも,立派なものなのだが。 (蕪勢)


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 裁判員候補者名簿に登録されたことを通知する「お知らせ」が,いよいよ今月末に最高裁判所から発送される。
 この通知を受けた人(名簿に登録された人)の中から,来年度の裁判員が選ばれることになるのである。
 裁判員裁判の事件が起訴されると,裁判所の方で,この名簿登録者の中から裁判員候補者(50人から100人程度)を抽選で選出し,裁判の始まる6週間前までにこれらの候補者に選任手続期日のお知らせ(呼出状)を送付する。この呼出状を受け取った人(50人から100人)は,その期日に裁判所に出頭して,辞退事由があるかないかの審査などを受ける。そして,その中から,実際に裁判に関与する裁判員6人が選ばれる(何人かの補充裁判員いわば補欠選手が選ばれることもある)。裁判員らはその日から裁判に臨むことになる。
 ある新聞社(共同通信)の統計によると,全国平均でみると,
  有権者数 1億0392万4309人
  来年度の裁判員候補者名簿に登録される人 29万5036人
名簿登録の確率 352人に1人 

 裁判員裁判となる事件は,昨年度の統計によると,全国で2643件あった。この数字を基礎に,1事件につき,裁判員6人と補充裁判員2人を選ぶとすると,8人×2643=2万1144人
 来年度(昨年と同じ数の事件があったとして),実際に裁判員・補充裁判員となるのは,全国で2万1144人と計算される。
 これを全国有権者数との割合でみると,4915人に1人
 名簿登録者との割合でみると,約14人に1人

 来年度,裁判員に選ばれるのは,およそ5000人に1人。この数字をどうみるか。宝くじなみとは言えないまでも,けっこう「難関」といえるだろう。
 この「難関」を「突破」された方々が,人生における希に貴重な経験の機会が得られた,と前向きに受け止めて,よき裁判のために尽力されることを願わざるを得ない。(蕪勢)

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 二葉が出そろった。シネラリアは,これからお日様を浴びてぐんぐん大きくなっていく。

 シネラリア(サイネリア)の鉢栽培を楽しむようになって10年。
 毎年9月の下旬にタネを蒔く。以前はホームセンターで手軽に買えたのに,最近は通信販売でないと,タネが手に入らなくなった。どうしたことだろう。今年は2袋を注文した。1粒が1ミリにも満たない小さなタネである。それを15×20センチのピートバンに落としていく。移植の時に根が絡み合わないように,一つ一つ間隔を空けて丁寧に蒔くのは,結構慎重な仕事となる。

 2,3週間で二葉がきれいに並ぶ。今年は20本ほど出た。まあまあの成績か。二葉からひと月もしないうち,背丈が2センチ,葉っぱも3,4枚となった頃,一つ一つビニールポットに移し替える。ここで,秋の貴重な陽射しをしっかり浴びさせると,12月になる頃には,背丈6,7センチのがっちりした苗となる。育てやすい。途中で枯れてしまうものはほどんどない。きれいな緑が元気な証拠だ。これを5号鉢に植え替える。どんな花を咲かすか,心が弾む。

 普段は,陽当たりのいい庭先で大丈夫。外気が5度を下回るときは,念のため家の中に入れる。鉢の数が沢山あると,その出し入れは結構大変となる。

 2月の半ばころから次々と開花する。どんな色合いとなるかは,咲いてみないと分からない。それがシネラリアの楽しみなのである。鉢一杯に小さな花が盛り上がる。1鉢で1か月は十分に鑑賞できる。

 近所にお配りして,「まあ,きれい! お上手ですね」と誉めて貰う。これがまた嬉しいのだ。(蕪勢)


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 27日(土)神戸で日本裁判官ネットワークの9月例会が開催されました。
 安原浩元会員による刑事裁判官生活40年を振り返っての講演と浅見宣義会員によるアメリカ短期留学報告の二本立。どちらも興味深い内容で,60名の会場一杯の参加者に大きな感銘を与えたようです。
 安原氏は,裁判官40年の前半は,様々な失敗・後悔を重ねたが,後半になって,ようやく自分の裁判のあり方を見つけたことを率直に話され,来年からの裁判員裁判に繋げる内容で,後輩の裁判官にも勇気を与えてくれるものでした(要旨は,HP10月号に掲載予定)。
 懇親会でも,皆さんから安原氏の功績と人柄を称えるメッセージが続き,ファンクラブ会員から安原氏に花束贈呈の一幕もありました。
浅見さんの話は,アメリカの州における民事裁判の実態,日本との違いを鮮明に浮き上がらせる内容で,当事者主義の徹底が改めて認識され,わが民事訴訟を,良い意味でも悪い意味でも,考えさせられるものでした。(蕪勢)

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 青い空に映える万国旗がさわやかな秋風にはためいていた。丘陵の緑に囲まれた高台にある広い運動場。児童自立支援施設「○○学園」の体育祭である。
保護者,小さな弟妹,在籍する学校の先生方,来賓などがにこやかに見守る中,小学6年生から中学3年生まで男女児童生徒約30人が午前一杯を伸びやかに走り回った。
障害物競走では,ハードル,竹馬,網潜りなどおなじみの障害物のあと,ゴール前に,「7×6」とか「14+7」などと書かれた大きなカードが女性職員から一人一人に示される。大声で答えて正解ならゴー。日頃の学習成果が試される,学園ならではのユニークさ。
 保護者,来賓などが総出演の綱引きは,迫力があった。
親子ゲームは,赤白二組に分かれ,土木作業用の一輪の手押し車を,親子ペアで,一方が乗り他方がこれを押す。ヒヤヒヤ,ハラハラのリレー。親子の呼吸や思いやりが試される。題して「届け,愛の宅急便」。
 跳び箱とマットを使った器械体操では,一人一人が練習成果を見事に披露し,盛んな拍手をあびていた。
 混合リレーは,児童生徒ふた組,保護者組,施設の職員先生組,こども家庭センター(児童相談所)の職員組,学校の先生組の合計6チームに分かれての真剣勝負。生徒児童組は,学校の若い先生方の全力疾走に一歩及ばず,2位と4位。全員の一生懸命さが気持ちいい。保護者組の母親アンカーが,一週遅れで1人走っていた。見かねた生徒の1人が飛び出して伴走をする。息子であろう。大きな笑いと満場の拍手でゴールイン。
 圧巻は,児童生徒全員による和太鼓の演奏であった。十数個の和太鼓が迫力ある響きとなって気持ちよくグランドに轟き渡る。和太鼓の合奏は,他との呼吸のあったばちさばきが命である。他人を思いやれる人間にと,毎日学んでいる成果でもあるのだ。

 審判の時は,ややすねた表情であった子どもが,屈託なく笑い,競技の折は,真剣な顔つきで全力疾走をしていた。その姿を見てほっとするものがあった。多くのことを学んで,1日も早く,家族の元に,そして,みんなと一緒の学校生活に戻れる日の近からんことを願わざるを得ない。
 施設の先生や職員の献身的な努力もかいま見せて頂いた。ご苦労様でした。(蕪勢)

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 6月の長官・所長会同で若手裁判官の育成について話し合われた。その中で,裁判員裁判については,刑事裁判に抜本的変革をもたらすものであるとの前提の下に,「裁判官には,専門的知識や技量とともに国民の信頼に足りる人間的な力量が求められるところ,裁判員裁判に積極的に関与していくことによって,これらの資質・能力が養われることになるので,裁判員裁判は若手裁判官の格好のトレーニングの場となるとの認識が示された」という(平成20年7月15日裁判所時報)。
 当ブログでも,瑞祥氏がこの認識について,「もっともなこと」として賛意を表している(8月9日)。
 しかしながら,私は,この「認識」に,何か喉に子骨がひっかかるような違和感を覚えるのである。
 裁判員裁判は,「裁判官のトレーニングの場か」と批判するつもりはない。それは揚げ足とりというものであろう。

「裁判官には国民の信頼に足りる人間的な力量が求められる」という。これを裁判員裁判の文脈で考えてみると,何か,裁判員より一段上に立ち,教え,説得し,指導する「裁判官像」が前提になっているように思われる。そこには,裁判員裁判に求められる大切な姿勢,すなわち,裁判員の人生経験,社会経験その他様々な人間的な経験に基づくものの見方,考え方,洞察力そういったものをかみしめ・学ぶ姿勢がすぽっと抜け落ちている。

 もちろん,裁判官が裁判員を説得する場面もあり得よう。しかし,裁判員裁判は,社会経験に富んだ裁判員の健全で柔軟な意見・感覚が事件判断に加味され,両者が協同することで,これまでの職業裁判官だけによる裁判よりも質の高い裁判をめざすものである。そのためには,裁判官も,謙虚な気持ちで,裁判員の意見・感覚から学ぶ姿勢が不可欠である。これは,従前の裁判官には必ずしも求められなかった。裁判員制度創設によって,はじめて,この点の裁判官の意識改革がクローズアップされてきているのである。若手裁判官の育成を議論するなら,この点こそが肝要ではないだろうか。

 裁判員裁判は,裁判員に多大な負担をかける制度である。反対論者は,国民の負担感や不安感を最大限にあおり,この制度を延期ないし廃止に追い込もうと必死である。
 また,反対論者の中には,裁判員裁判は,裁判員を隠れ蓑にして,従前通りの官僚的裁判を維持しようとする「陰謀」であるかのようにいうものもいる。
 これら反対論者に,足をすくわれてはならない。
 
 国民には,「ご負担をおかけしますが,皆さんのお力を借りて,それを補って余りある『よき裁判』を実現するためののものです。どうかご協力を」とお願いしなければならない。
 反対論者の「隠れ蓑論」をうち破るためには,裁判官自身が,本気で,自らの判断力の限界を自覚した上で,裁判員から虚心に学ぶ姿勢をもって,裁判員裁判に臨む必要がある。
 今,裁判官には,若手だけでなく,中堅,ベテランにも,裁判に臨む姿勢のコペルニクス的転換が求められているのである。(蕪勢)


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 猛暑である。休みの日,何にもする気が起きない。
 わが家の猫の顎ほどの(額の広さもない)庭で野菜を作っている。少しばかりの樹木もある。この時期,その水やりだけはさぼれない。
今夏は,キューリとトマトがしっかりとれた。キューリは,どうしてもうどん粉病にかかってしまう。あまり薬を使わないので仕方がないのかもしれないが,定年後,時間がたっぷりできたら,うどん粉病にかからないキューリ作りを「研究」したいものだ。
 水やりを,余りしょっちゅうしすぎると,野菜や樹木は,「ほしい,ほしい」とわがままになって虚弱になってしまう,と,あるベテランから教えて貰った。それを幸いに,ぎりぎりの線まで我慢させ(こちらの勝手な判断だが),最後に水を与えることにしている。なにやら,子育てにも似たところがあるような気がする。
 ちょうど,そんな折,隣家のご主人から,本格的家庭菜園でとれたトウモロコシ,インゲン,トウガンなどを頂いた。見た目もうま味も,まことに見事である。教えを請う必要がありそうだ。
 現代に生き残る物々交換も,なかなかにさわやかで気持ちがいい。
(蕪勢)


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 「10回裏切られたら,11回信じよう」
 今は退職された元中学教師の生徒指導時代のモットーであったという。 ある勉強会で,この先生のお話を聞くことができた。
 昭和50年代後半,中学校が最高に荒れまくっていた時代に,生徒指導を担当し,非行に走る子ども達と,昼となく夜となく「格闘」してきた。退職した今も,非行問題と取り組むボランティア活動をしておられる。その先生の言葉である。
 「子どもは過ちを繰り返しながら立ち直っていく」とも,先生は言う。その変化と成長を信じ切る気持ちが先生の仕事を支えていた。そうした信頼に,子ども達はいつの日か答えてくれる。最高にやんちゃであった学年の「ワル」たちも,それぞれに一人前の社会人となり,何人かからは,結婚式にも招かれている。退職したときには,その「ワル」らが呼びかけて,盛大にお祝いの会を開いてくれた。
 いつの時代にも,熱血先生がおられるものだ。その情熱を支えるのが,生徒らに対する愛情と信頼なのであろう。

 少年審判を流れる基調も,少年たちの健全育成であり,教育的役割は大きい。しかし,残念ながら「11回信じる」ことはできない,それどころか,1回目の非行は大目にみたとしても,2回目の同じような誤りに対しては,厳しい対処で臨まざるを得ない。場合によっては,少年院に収容して教育を受けさせることだってある。
 学校教育と司法の場との違いに考え込まざるを得ない。しかし,司法においても,少年たちの成長を信じる気持ちを失っては,教育的機能を果たすことはできまい。自戒を込めて,あらためて思う。(蕪勢)

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 少年たちを励ましに,時々,少年院を訪ねる。
 院長室で雑談をしているとき,部屋の片隅にガラスケース入りの野球バットが飾られているのが,前々から気になっていた。
 あるとき,院長に尋ねてみると,その質問を待っていたかのように誇らしげな顔になって,こんな話をしてくれた。

 何年か前,今をときめく日本人大リーガー(あえてイニシャルも伏す)が,シーズンオフに,この少年院に激励に来てくれた。
 輝かしいシーズン記録を背に一時帰国した大リーガーの動静は,マスコミを賑わせていた。そんなある日,突然,マネージャーから少年院に連絡が入ったのだ。外部には一切伝えないでほしいとの要請があった上で,全く極秘裏の激励訪問の日程が決められた。少年院でも,その意向を汲み,この日の来院を知っているのは,ごく少数の幹部教官だけであった。

 100人近い少年たちには,この朝,野球教室を開くとだけ教えて,全員をグランドに集合させていた。ほとんどの教官も,誰がコーチをするのか,知らされていなかった。
 そして,突然に,颯爽と,大リーガーが少年たちの前に姿を見せた。
 どよめきが起こった。が,今ひとつ歓声には至らない。誰もが知る細身の大リーガーだが,「そっくりさんだ」という疑いもあって,半信半疑なのである。
 院長の紹介があって,ようやく大歓声となった。
  ウッソー! ヤッター!! 

 少年たちの得意げで,満面の笑顔が忘れられない,と院長は話す。
それから,数時間,大リーガーは,少年たちの手をとり,足をとって,一人一人懇切丁寧な指導をしてくれた。少年たちは,天にも昇らんばかりの感激ぶりであった。
 噂を聞きつけ,近くの教官宿舎の夫人達も,総出で,ネットに張り付き,嬉しそうに見学している。
 少年院が興奮に包まれた数時間となった。
 そして,記念のサイン入りのバットが院長室に飾られることになったのである。

 誰にも知らさず,こっそりと少年たちを激励した大リーガーが,私はすっかり好きになった。(蕪勢)

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 安原浩さん(松山家裁所長)が定年退官した。
 わが裁判官ネットワークの要の人であり,まことに惜しまれる。寂しい限りだ。
裁判員裁判の施行を前に,議論の高まっている折,ベテランの刑事裁判官であり,有力な推進論者の1人を送り出すことは,裁判所全体にとっても大きな損失である。

 私にとって,安原さんは,共に手を携えてきた裁判官の自主的運動の中で,一番頼りにしてきた先輩友人である。阪神の金本のように,「アニキ」と呼ぶのがぴったりくる。
 裁判官ネットワーク創設の頃,仲間内での激しく一途な議論を思い出す。いささか狭量の私は,遠慮のない短気をぶつけて,安原さんを困惑させた。でも,彼の意見は,いつもぶれがなく落ち着いていた。そして,どんなときにも,楽観的で明るかった。そう,彼の持ち前の明るさが,ともすると落ち込みムードになりがちなこの会を,根底からしっかりと支え,希望を与え続けてくれたような気がする。

 こんな風に書き連ねていると,なんだか弔辞を書いているような気分になってきたナ。
 (まだ死んでないのに,モウ!・・・安原氏の声)

 安原さんは,今後は在野法曹として活躍すると聞く。もちろん,わがネットワークを,サポーターとして応援してくれると思う。
 会に対するこれまでの献身,私どもに対する友情に感謝したい。
 そして,何よりも,長い間のお勤め,ご苦労様!(蕪勢)


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 バカにされたと感じると,すぐに手が出る少年がいた。今回も,同級生に殴りかかり,少しの怪我を負わせた。
 「コケにされると悔しい,誰でもそうだよ,だけど,負けるが勝ち,という言葉もあるじゃないか。」と語りかけた。が,
 「それ,どういう意味ですか?」という顔。
 「それはネ,えーとネ・・・,喧嘩で負けた方が勝っているんだよ・・・」なんだかよく分からない説明をしてしまう。
 ことわざが通じない。
 職場で長続きしない少年に,「石の上にも3年」なんて,いい言葉だと思うのだが。
 少し前,スピードを出し過ぎて事故を起こした少年に,慎重な運転を諭そうとして,「石橋を叩いて渡る,というではないか」と喋ったら,どうもピンと来てない様子。
 後で書記官に聞くと,「暴走族風の単車の二人乗りが,木刀で,石橋の欄干をコーン,コーンと叩きながら走っている,そんなイメージを持ったんじゃないですか」という。アチャー。

 そこで,老ジャッジは,現代の少年たちにも,分かりやすいことわざを考えた。
「どんな職場にも3年」
    (分かりやすいが,インパクトに乏しい)
「男は黙って負けるがいい」
    (ビールの宣伝じゃない!)
「石橋を渡るときでも,先日の地震でひびが入ってるかもしんないから,スピードを落として走ろうね」
    (長すぎる!!)
               (蕪勢)

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 1年でもっとも昼間の長い時節になった。午後7時はまだまだ明るい。暑くもなく,もちろん寒くもない晴れ渡った5月の空。薄い雲に夕焼けがみごとだ。「きれいな夕焼けを見ていると,この世界は神様が作られたことが素直に信じられるんだ」,クリスチャンの先輩判事の言葉を思い出す。遊歩道のケヤキ並木も形よく新緑を天空に伸ばしている。頬をよぎる風が何とも心地よい。
 誰にでも小さな幸せはあろうが,私にとっては,役所からの帰り道,暮れなずむ街を歩きながら,そんな空を見上げるときが,代え難い至福の瞬間である。当面心を悩ます事件はない,明日も少年院に送る予定の子供はいない,しばらく続いた腰痛もようやく落ちついた,ともなれば,いうことはない。電車の中で読み進んだ小説が感動続きであった日には,心はいっそう弾んで来る。
 ささやかな晩酌を楽しみに帰宅するや,家人から「朝,頼んどいた食パン,買い忘れたの?」と叱られる。とたんに小さな幸せは胡散霧消し,夢は消え,「厳しい現実」に引き戻される老ジャッジである。(蕪勢)

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 裁判員裁判が国民に負担をかけるものであることは間違いない。
 それだけに,負担をおかけするに値する,十分に意義のある制度であることを理解して貰うことが,何よりも大切である。
 これまで裁判所側は,この裁判員制度の意義について,「刑事裁判に対する理解を深め,司法に対する信頼を高める」ためというふうに説明してきた。
 そこでは,従前の職業裁判官による刑事裁判に何も問題はなかったのだが,これを広く国民に理解して貰うための広告宣伝のために裁判員制度を作った,というふうにみえる。裁判員は宣伝員なのか,忙しい国民を宣伝役だけに使うのか,ある論者がこのように批判していた。裁判所は痛いところをつかれている。

 しかし,最近は,裁判員裁判の意義について,「ひとつは,刑事裁判の世界に,国民の皆さんの感覚を取り入れたい,ということです。プロの法律家だけで裁判をやっていると,どうしても,考え方の幅が狭くなってしまうところがあります」と説明することもある(島田仁郎最高裁長官「司法の窓」72号12頁)。正鵠を得ていると思う。
 これまでの職業裁判官だけによる裁判には,自分たちでは必ずしも気がつかなかったのだが,その判断に狭量さや浅薄さがあったかもしれないことを自覚すべきである。そして,裁判員裁判は,この問題点を補強するためであることを改めて認識すべきだと思う。
 私の経験でも,合議の中で,有罪意見と無罪意見が鋭く対立し,激しい議論となった事件がいくつもあった。その多くは,あの証言が信用できるかとか,被告人の言っていることは本当のことか,などを巡って意見が分かれていたのである。あの議論に裁判官と違う社会経験を持つ裁判員が加わっていれば,裁判員はどちらの意見に与したであろうか,あるいは別の結論が出たかも知れない,と思うときがある。
 一橋大学の後藤昭教授が,そのあたりのことについて,「法律家は,事実認定の問題を類型化して捉える傾向がある。つまり,この事情とこの事情があれば,たいていは,事実はこうなのだ,というふうに事実認定についての相場観をもっている。これに対して,法律家でない人々は,事実をあくまで個別的なでき事として見る傾向がある。そのために,被告人の弁解が,ふつうはあまり起きそうもない話であっても,真実はそうだっかもしれないと素直に考えやすい。」と指摘して,裁判員が加わることで,判断が質的に高まることを期待しておられる(雑誌「世界」08年6月号 96頁)。
 職業裁判官の判断が「類型的」になりがちなことは指摘のとおりであろう。「有罪慣れしている」と警告する安原判事の指摘とも一脈通じる点である。

 新たな刑事裁判は,素人の裁判員が加わることで,職業裁判官だけによる判断の限界を克服して,新鮮な目で証拠をみて貰い,柔軟で高い質の判断に到達しようとする。それだけ意義の大きい制度なのである。
 国民の皆さまには,ご負担ではありましょうが,ぜひ参加していただきたい。(蕪勢)


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 「少年の犯罪の多くは,親に愛された感覚を持てない子供が起こしている。愛情を求めても与えられなかった少年たちに厳罰を科すことで更生できるとは思えない。」
 神戸の弁護士で,保護司もされていて,少年の矯正分野にも熱心に取り組んでおられる野口善国氏がインタビューに答えている(5月10日朝日新聞神戸版朝刊)。
 「再犯を招かないよう少年をしっかりサポートすること,保護司でも学校の先生でも,児童相談所でもいい。誰か一人でも正面から向き合い,寄り添う大人がいれば少年は必ず変わる。愛される感情を持てなかった少年が,思いやりを持って接してもらうことで,初めて,自分の存在価値を見いだしていけるようになる。なぜ罪を犯したのか,どうすれば防ぐことができたのかを内省し,自分で更生の道筋を立てるのはその次の段階。」と野口弁護士は語る

 もちろん,問題のない普通の家庭の子供でも,何かの拍子に,遊びの延長として非行に走ることはある。しかし,その場合の多くは一過的な過ちとして,立ち直りはそう難しくない。
 しかし,家庭的に,特に愛情面で不遇な少年は,自分に自信を持つことができず(学校の勉強についていけなくなるとなおさら),たとえば,不良交遊の場に居場所を求め,わずかに,そこでのみ自己の存在価値が感じ取れるようになる。一度非行に走り,保護的な措置がとられても,他に居場所を見つけられない少年は,そこから抜け出すことができにくい。
 こうした関係の中で起こる非行の根は深く,繰り返されがちである。再非行は,一層自信を失わせ,自らの心をも傷つけ,歪めてしまう。
 野口弁護士の指摘は的確であり,重い。(蕪勢)

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 「1人だけで責任を負うのではなく裁判官も含めた9人で結論を出す。自信を持って参加してほしい」
 1年後に迫る裁判員裁判に向けて最高裁長官の憲法週間の談話である。
私も,(別に,長官と張り合うつもりではないが),最近,ある記者のインタビューを受けて次のように答えていた。
「一般の人々の常識的な判断は貴重です。たとえ評議の当初において結論に自信がなくても,あの証言のこの部分は信用できるとか,部分的な判断がまず重要です。そうした小さな意見を積み重ねて評議するうちに,自然と一定の結論が見えてくる。それが裁判員裁判だと思っています。一人で有罪無罪の判断,量刑まで決めなさいと言われれば,誰だってたじろいでしまう。自分なりに9分の1の意見を出してもらえばいいのです。それが裁判官の偏見をうち破ることになるかも知れない。
 他の人の意見になるほどと思えば賛成すればいいのです。迷ったら少し考えさせてくれと言えばいいのです。みんなの感覚でより高度な判断に到達しようということではないでしょうか。「一般市民に事実認定はできない」なんて,短絡的なことを考える必要はないと思います。
 他方,裁判官の側は,裁判員のどんな小さな声であろうと,真摯に傾聴する姿勢を持たなければなりません」

多くの欧米諸国で当然のことして受け入れられているこの新たな裁判の仕組みは,国民自らが社会の重要な手続に直接参加をするもので,わが国の民の成熟度が試される制度といえるかもしれない。ぜひ定着させたいものである。(蕪勢)


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