日本裁判官ネットワークブログ
日本裁判官ネットワークのブログです。
ホームページhttp://www.j-j-n.com/も御覧下さい。
 



1 この6月,わがやの庭にキキョウが沢山咲いた。わが夫婦はキキョウが好きである。秋の七草であるキキョウがなぜ6月に咲くのか不思議である。 涼しい山奥には秋に咲くのであろうか。
2 そういえばコスモスも秋深く咲くものと,早咲きがある。私の好きなハギに早咲きはないようにも思う。
3 塀の内側にも沢山咲いたが,道路に面した塀の外側に狭い花壇があって,そこに沢山キキョウを植えていた。つぼみが沢山ついていて,もうすぐ花を開きそうになった。朝の出勤前に,しばしキキョウを眺めて夫婦で楽しんでいた。ここで一服たばこを吸えば美味しそうであるし,絵にもなる。しかし残念ながら私はたばこは吸わない。1日2箱のヘビースモーカーは30数年前にサヨナラした。
4 ある朝,キキョウを事務所の花瓶に飾ろうと,剪定バサミを持って,塀の外のキキョウを切り取ろうとした。「アレおかしいな。」。よく見るとキキョウの枝が3本なくなっていた。折ったものではなく,鋭利な刃物で切り取られていた。「花盗人(ぬすびと)か。いや花泥棒だ!」。私は驚くとともに激怒した。
5 これは窃盗罪で,10年以下の懲役または50万円以下の罰金である(刑法235条)。被害届を出すか。犯人は不明である。被疑者不詳で,被害品はキキョウ3本である。さすがに被害届を出すわけにもゆくまい。
6 まだ大学生で,法律を勉強していたころ,「一厘事件」というのがあり,これを思い出した。政府の委託を受けて葉煙草栽培していた被告人が,生産された葉煙草1枚を納入しなかったという事件である。窃盗事件ではなく,たばこ専売法違反事件であった。当時の価格で1厘だというのであるが,現在価格ではどの位になるのだろうか。当時の大審院(明治43年)は無罪を言い渡した。「軽微な違法行為は犯罪とするに当たらない」としたもので,可罰的違法性がないというのである。罰するに値いするだけの財産的価値がないとしたものであろう。生花約10本を窃取して,窃盗罪となった事件もあるようである。今回の「キキョウ3本窃盗事件」はきっと,数百円の財物を窃取した窃盗罪として,有罪であるに違いないが,検察官は不起訴処分にするに違いない。
7 この件では,自分の心(怒り)をどう鎮めるかということに過ぎない。熱心に花の手入れをしている妻は,それほど腹を立てていないようだ。こんなことはよくあることで,一々腹を立ててなどいられないということらしい。さすがというべきか。未熟な(?)私は暫く怒りが治まらず,心の整理に苦しんだ。そして結局犯人に対し,「あなたは花を盗んで得をしたと思っているかも知れないが,そのことによって,あなたにとってとても大切なものをなくしたのだと思います。あなたはキキョウを盗んだことで,とても大きな損をしたに違いないのですよ。」ということで,心の決着をつけた。
8 花泥棒も,きっとそのキキョウを見事だと思ったから盗んだに違いない。わが夫婦もその点は自慢に思ってよいのであろう。しかしだからといって,「お好きならどうぞ自由にキキョウをお持ち下さい。」などという聖人君子の心境には到底なれないが,来年は塀の外に,もっともっと多くのキキョウを植えることにした。(M)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1 先日月1回の眼科の検診で,また面白いことが起きた。矯正視力で,右は0・9のままであったが,左は前回(1か月前)の1・0から1・2に向上していたのである。その前は,右が0・7,左が0・9であったので,最近2か月間に,右が0・2,左が0・3向上したことになる。私の正常眼圧緑内障による視野狭窄が改善しているかどうかは,近く視野検査を受けるまでよく分からないが,以前は夜間の車の運転に不安を感じていたが,最近は全く不安を感じなくなっているので,おそらく視野も改善されているに違いない。苦手であった視野検査が今は待ち遠しい。
2 なぜこのようなことが起きているかは,全くの偶然に過ぎない。眼科医による治療の結果ではなく,私が勝手に始めた眼の周辺のマッサージが,偶然最新の眼科治療である「通電治療」を自分で行なっていたことになったのである。
 もしも関心がある人は,「5分で視力は回復する」(石川まり子著,現代書林刊)を読んで頂きたい。通電治療とは弱い電流を眼の周囲の皮膚から5分間流して,硬くなってしまっている水晶体のピント調節機能を担っている毛様体筋をほぐして,血流をよくすることで,視力を回復するという画期的な治療法である。私が1か月前の眼科医での視力検査で視力改善を知った後,偶然本屋で見つけて前記の本を入手した。
3 その本の存在を知らずに,私が以前肩コリ治療用に購入して,長らく事務所でホコリをかぶっていた電磁波によるスポーツ用マッサージ器で,視力改善ではなく,眼の疲れ対策として,2か月前から説明書に従って,遊び半分で眼の周辺のマッサージをしていたところ,偶然それが最新の眼の通電治療を自分でしていたことになった。
4 私のように近く古希を迎える年齢の近視歴55年の強度近視患者でも驚くような効果がある。その本では若い青少年の仮性近視には劇的な効果があると書かれている。
5 通電治療を行なっている眼科医は,まだ全国的にも少ないようで(平成22年段階で約30施設),その本に記載されている通電治療実施眼科医一覧表には,私の県内の医師の記載はない。この治療法は20年以上も前に,慶応大学医学部の眼科の教授によって発案されたのだそうである。効果も大きく,全く危険性もないのに,わずか数年前ころから本格的な治療法として行われるようになったに過ぎず,私がもう10年以上通院している眼科医も通電治療を行なっておられない。その本によると,眼科医は近視を病気と考えておらず,単なる屈折異常に過ぎないので,近視は治すものではなく,めがねで矯正して視力が確保されればそれでよいと考えてきたために,通電治療が広く行われることにならなかったというのである。これは全く信じられないような話である。
6 このように,著しく効果的で危険性もない治療法が広く行われるようになると,近視王国のわが国のメガネ屋さんは,大打撃を受けるだろう。まさかそのような事情で通電治療法が採用されてこなかったということはあるまいが,不可解なことではある。私の視力に劇的改善がみられる時が来れば,主治医の眼科医に通電治療の実施を迫ってみたい。
7 近視も,正常眼圧緑内障による視野狭窄も,その原因の基本は血行障害のようであるので,おそらく私の視野狭窄も軽減するのではないかと期待している。そのうち,夫婦で趣味としているテニスで,私の目の中で「消える魔球」が消えなくなるかも知れない。そうなると,健康でかくしゃくと生きて90歳の「テニスマン」となって,ベテランズ世界テニス大会で,「世界一」になるのだなどと言い出しそうであるが,きっと妻は笑い転げるに違いない。
8 通電治療の知識は,自分はもとより,親,兄弟,子,孫や友人の近眼,老眼,正常眼圧緑内障の治療にも大いに役立つ可能性がある。自称「健康配達人」である私の「おせっかいメニュー」の「血糖値低下法」と「血圧低下法」に「驚異的視力回復法」を加えることにしようかな。(ムサシ)



コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




1 標記の本(原田國男著,勁草書房,2940円)を読んだ。とても面白く,総論部分は引き込まれるように一気に読んだ。事例部分はまだ少し残っているが,読了を待ち切れず感想を書くことにした。刑事裁判に関与している法曹,特に若い裁判官には是非読んで欲しい本である。わが国の刑事裁判に大きな影響を与えるのではないかという気がする。刑事裁判の現状を憂えている法曹,特に弁護士は多い。そしてこの本を読むと,日本にもまだこのような裁判官がいるんだなという思いがした。刑事訴訟法が期待している,本来あるべき刑事裁判官像を頑固に追い求めた結果だということであろうか。多くの刑事裁判官が裁判官像として参考にして欲しい気がする。もとより他にも優れた多くの刑事裁判官がおられることは承知している。
2 かつて昭和60年(1985年)に,刑事法の大家であった平野竜一元東大教授が,わが国の刑事裁判は「調書裁判」であるとして,「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である。」(団藤重光博士古稀祝賀論文集)と書かれた。そしてその後のわが国の刑事裁判は,平野教授が嘆かれたとおりの経過をたどったと言ってよいと思われる。しかし調書裁判の点はともかくとして,絶望されていた平野先生(故人)に,「日本にもこのような裁判官がいるんですよ。」と申し上げたい気がする。
3 著者は約40年の裁判官人生をほぼ一線の刑事裁判官として過ごしてきたとして,裁判官の仕事の厳しさや刑事裁判における「正しい事実認定」の難しさ,えん罪を生むことの恐ろしさを述べている。裁判官としての定年前の約8年間に,東京高裁の刑事部裁判長として20数件の逆転無罪判決を言い渡したという。1件ごとの事件を丁寧に審理した結果に過ぎないそうで,無罪判決を書くために,意識的に頑張ったというものではないようである。しかし問題の根深さにたじろぐが,自分も逆転無罪の判決を受けたこともあるし,無実の者を有罪にしている可能性もあるとして,後輩裁判官や検察官に対する批判は控え目である。
4 著者は,えん罪を防止するためには公平な刑事手続きが大切であること,丁寧に審理すること,疑問を放置しないことなどを述べている。そして「疑わしきは罰せず」の原則に忠実であろうとしているようである。「審理を尽くすこと」が刑事裁判に求められている役割であるとして,逆転無罪の場合にも,不意打ち的に無罪判決を宣告するのではなく,検察官に補充立証を促すのだそうで,そうすると裁判所と検察と弁護人が一体となって真実を究明することになり,逆転無罪はその結果に過ぎないというのであるから面白い。そうなると,検察官控訴もないという現象を生じるのだそうである。
5 著作の中で,興味深く記憶に残った点のごく一部だけ書いておきたい。
(1)えん罪を防ぐ審理のあり方について,一審の裁判官(裁判長)として種々の工夫を書いていて,それぞれに面白いが,特に面白いと思ったのは,著者は一審の手続きの冒頭で,被告人に黙秘権等の権利を告知する際に,次のようにいうのだそうである。「君が犯人でないときには,必ずこの機会にいいなさい。今いわずに,後になって控訴したり,上告して,じつは自分は犯人ではないといっても,今の裁判所ではまずは救ってもらえない。」と。
   なるほど,これは名案かも知れない。もっとも著者の部で指導を受けた司法修習生が,その言い方が気に入って模擬裁判でまねたところ,指導官から注意され,著者がやっていると反論したところ,結局指導官が黙ってしまったという顛末も面白かった。
(2)判決の宣告について,「判決の宣告でいちばん心に重いことは,真実を知るものが神様のほかにいることである。まさに,目の前の被告人が,判決が正しい判断であるか否かを知っている。」「もし本当は無実なのに有罪とするのであれば,その瞬間,真の犯罪者とすべきは,被告人ではなく,裁判官自身なのである。」という。
(3)現在の控訴審は,否認事件であっても,被告人質問も証人尋問もしない審理方式が主流である。これは刑事控訴審が事後審査審といって,原判決の時点で,原判決で取り調べた証拠(旧証拠)により,原判決の当否を審理するというもので,原審で取り調べられなかった証拠(新証拠)は,やむを得ない事由により請求できなかった場合か裁判所が職権で調べる場合にしか採用されないことになっているためである。
   しかし著者は,被告人の声を直接聞き,話を効くのは大切であり,控訴審でも事実取調べを適切に行うべきと主張する。これは刑事控訴審が誤判防止の機能を果たすためにも重要であるに違いない。
(4)著者は,元刑事裁判官として著名な木谷明元判事の言葉にも触れて,「被告人がいうことは本当かも知れないと一度は考えること」の意義を強調している。これも誤判防止に役立つということのようである。
6 著者は,えん罪を見抜くのは総合的な人間力であるとして,広い教養が大切であり,そのための読書の重要性を主張し,刑事裁判の魅力として,じつにさまざまな人間や,その人生に接することができることを挙げている。また刑事法廷において予期せぬハプニングや人生のドラマが起きることや,法廷でのユーモアなども書かれている。
7 思い余って,筆足らずとでもいうのか。この本の魅力を十分には紹介できていないと思うので,ぜひ手に取って,「はしがき」を読んで頂きたい。きっと私と同じように全文を読んでみたいと思われるに違いない。(ムサシ)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )