私は小学校4年生までは同級生が10人という「二十四の瞳」よりも小さな田舎の分教場で学んだ。小学校の3年と4年を担任してくれた先生が詩吟や俳句がお好きで,毎朝2年間「少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず」という漢詩を全員で吟じたり,「来週までに俳句を5つ作るように」という宿題が出されて,熱心に俳句を作ったこともある。しかしその後多少漢詩や俳句に関心を持ったという程度で,格別自分で俳句を作るようにはならなかった。
高校のころ国語の教科書で石川啄木や若山牧水の短歌に触れたことなどもきっかけとなって,いいなと感じた俳句や短歌を句(歌)集や新聞などで見つけるたびに手帳に書き留めるようになり,その作業は50年近くに及んでいる。有名ではないが,いい短歌や俳句も随分集めたし,その多くを随時活用できる状態にある。最近はそれをパソコンでテーマごとに分類作業中で,例えば「酒」「月」「桜」「ホトトギス」その他多くのテーマで編集しているが,まさしく「病膏肓(やまいこうもう)にいる」ということになるのであろうか。
ところでこの地道な趣味が,私の恋の成就に大きな役割を演じたと思われるのであるから,人生は案外面白い。
私は妻となる女性に出会った時,2人ともに司法試験の受験生であったが,余り法律の話などはせず,啄木や牧水の短歌や,星の話やとんぼの話などを夢中になってしていた 彼女も短歌が好きで,私の知らない名歌をたくさん教えてくれた。彼女は私のことを「変な人」と思ったそうであるが,一言で言えば,私に熱く法律を語るだけの力がなかったというだけのことである。そういえば私は将来の志望として「天文学者」と書いたことがある他に,「とんぼ学者」と書いたこともあった。私が育った家の近くに農業用の大きな溜池があり,いろんな種類のとんぼが無数に飛んでいたのである。私は銀やんまが大好きで,とんぼの採集に夢中になっていたこともあり,自称「とんぼ博士」だったのである。
私が啄木の「函館の 青柳町こそ 悲しけれ 友の恋歌 矢車の花」について,「友の恋はなぜ悲しいのか」を尋ねると,彼女は「分からない」と答えた。私が矢車草の花言葉が「片想い」であると教えると,彼女はとても嬉しそうにしていた。彼女も,「うす紅に 貝は匂える ほのかさを 告げんと思う 人は遙けし」とか「北の海 傾く月の 真光りに 輝く人や のちはわが妻」(作者も聞いたが,今は不明である)などを教えてくれて,私を驚かせた。
あれは彼女と出会った昭和48年5月から3か月が経過した8月末のことであったと思う。彼女は第一次試験に不合格で,私はそれに合格しており,第二次試験の論文試験も終わって,その合格発表を待っていたのであるが,その合格に備えて第三次の口述試験の勉強をするために,私はひとりで母校である大学の谷川岳の麓の寮に出かけて一週間の予定で勉強していた。
しかし彼女のことで心が落ち着かず,気もそぞろで勉強が手につかない。やむなく私は勉強の合間にむやみに散歩をして過ごしていた。両親の死といい彼女のことといい,私の受験生活は甚だ障害だらけで,神様に「随分いたずらが過ぎるのではありませんか」と苦情を言いたい気分であった。寮は多少高地にあり,辺りは既に初秋の趣きで,澄んだ小川の清流のあたり一面に葛の花が咲き,すすきも穂を出し始めていた。
私はふと思いついて,美しい紫色の葛の花とすすきの穂を切り取って封筒に入れ,彼女にラブレターを書き送った。
それから間もなく,帰京して彼女に会ったとき,彼女は笑いながら,「あの手紙の最後に,この短歌が書かれていると完璧だったのにね」と言って,「吾亦紅(われもこう) すすきかるかや 秋草の 寂しききわみ 君に送らむ」という若山牧水の短歌を教えてくれた。「なるほど」と悔やんだが,残念ながら当時私の手帳にはこの短歌は収集されていなかった。
そんなこともあって,私は「おしどり弁護士になろう」と彼女を口説いて,その後間もなく私たちは婚約した。彼女に出会ったことで,私も地獄のようなトンネルを抜け出しかけていることを実感するようになっていた。勿論その年の論文試験には落ちていた。
それから間もなく,私は彼女と一緒に合格したいという思いを強力なエネルギーとして,「チンタラ頑張り人間」から「猛烈頑張り人間」に大変身し,昭和50年に運よく2人で一緒に試験に合格し,半年後に結婚したのである。おしどり弁護士になろうと口説いた言葉を反古にして,再び口説き直して,夫婦で裁判官になった。
受験については思うようには行かなかったが,神様もさすがに私を哀れと思い,彼女に会わせて下さったのではないかと感謝している。
私にとって短歌や俳句も意外な意味を有していたことになるが,もう少し気持ちに余裕ができたら,自分でも作ってみようかと思っている。(ムサシ)
高校のころ国語の教科書で石川啄木や若山牧水の短歌に触れたことなどもきっかけとなって,いいなと感じた俳句や短歌を句(歌)集や新聞などで見つけるたびに手帳に書き留めるようになり,その作業は50年近くに及んでいる。有名ではないが,いい短歌や俳句も随分集めたし,その多くを随時活用できる状態にある。最近はそれをパソコンでテーマごとに分類作業中で,例えば「酒」「月」「桜」「ホトトギス」その他多くのテーマで編集しているが,まさしく「病膏肓(やまいこうもう)にいる」ということになるのであろうか。
ところでこの地道な趣味が,私の恋の成就に大きな役割を演じたと思われるのであるから,人生は案外面白い。
私は妻となる女性に出会った時,2人ともに司法試験の受験生であったが,余り法律の話などはせず,啄木や牧水の短歌や,星の話やとんぼの話などを夢中になってしていた 彼女も短歌が好きで,私の知らない名歌をたくさん教えてくれた。彼女は私のことを「変な人」と思ったそうであるが,一言で言えば,私に熱く法律を語るだけの力がなかったというだけのことである。そういえば私は将来の志望として「天文学者」と書いたことがある他に,「とんぼ学者」と書いたこともあった。私が育った家の近くに農業用の大きな溜池があり,いろんな種類のとんぼが無数に飛んでいたのである。私は銀やんまが大好きで,とんぼの採集に夢中になっていたこともあり,自称「とんぼ博士」だったのである。
私が啄木の「函館の 青柳町こそ 悲しけれ 友の恋歌 矢車の花」について,「友の恋はなぜ悲しいのか」を尋ねると,彼女は「分からない」と答えた。私が矢車草の花言葉が「片想い」であると教えると,彼女はとても嬉しそうにしていた。彼女も,「うす紅に 貝は匂える ほのかさを 告げんと思う 人は遙けし」とか「北の海 傾く月の 真光りに 輝く人や のちはわが妻」(作者も聞いたが,今は不明である)などを教えてくれて,私を驚かせた。
あれは彼女と出会った昭和48年5月から3か月が経過した8月末のことであったと思う。彼女は第一次試験に不合格で,私はそれに合格しており,第二次試験の論文試験も終わって,その合格発表を待っていたのであるが,その合格に備えて第三次の口述試験の勉強をするために,私はひとりで母校である大学の谷川岳の麓の寮に出かけて一週間の予定で勉強していた。
しかし彼女のことで心が落ち着かず,気もそぞろで勉強が手につかない。やむなく私は勉強の合間にむやみに散歩をして過ごしていた。両親の死といい彼女のことといい,私の受験生活は甚だ障害だらけで,神様に「随分いたずらが過ぎるのではありませんか」と苦情を言いたい気分であった。寮は多少高地にあり,辺りは既に初秋の趣きで,澄んだ小川の清流のあたり一面に葛の花が咲き,すすきも穂を出し始めていた。
私はふと思いついて,美しい紫色の葛の花とすすきの穂を切り取って封筒に入れ,彼女にラブレターを書き送った。
それから間もなく,帰京して彼女に会ったとき,彼女は笑いながら,「あの手紙の最後に,この短歌が書かれていると完璧だったのにね」と言って,「吾亦紅(われもこう) すすきかるかや 秋草の 寂しききわみ 君に送らむ」という若山牧水の短歌を教えてくれた。「なるほど」と悔やんだが,残念ながら当時私の手帳にはこの短歌は収集されていなかった。
そんなこともあって,私は「おしどり弁護士になろう」と彼女を口説いて,その後間もなく私たちは婚約した。彼女に出会ったことで,私も地獄のようなトンネルを抜け出しかけていることを実感するようになっていた。勿論その年の論文試験には落ちていた。
それから間もなく,私は彼女と一緒に合格したいという思いを強力なエネルギーとして,「チンタラ頑張り人間」から「猛烈頑張り人間」に大変身し,昭和50年に運よく2人で一緒に試験に合格し,半年後に結婚したのである。おしどり弁護士になろうと口説いた言葉を反古にして,再び口説き直して,夫婦で裁判官になった。
受験については思うようには行かなかったが,神様もさすがに私を哀れと思い,彼女に会わせて下さったのではないかと感謝している。
私にとって短歌や俳句も意外な意味を有していたことになるが,もう少し気持ちに余裕ができたら,自分でも作ってみようかと思っている。(ムサシ)