日本裁判官ネットワークブログ
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7 また別のニュースとして,認知症の女性が60歳の時に家を出て行方不明になり,身元不明のまま介護施設で7年間保護されていたが,NHKスペシャルとして放送されたことから身元が判明し,夫と再会できたという報道があった。
8 この女性は東京在住で,群馬県内の施設で保護されていたというのであるから,かなり遠出をしていたことにはなるが,女性の下着や靴下に本名が書かれており,身元確認の手がかりがあったというのであるから,今の日本において,なぜ7年間も所在不明であったのかについては甚だ不可解な思いもある。行政レベルでの工夫はもっと可能なような気はするが,それはともかくとして,私にとってショックだったのは,60歳という若さで自分の名前も自宅も分からず,行方不明となって保護される人がいるという現実であり,その年齢の若さである。それが現実であるなら,わが夫婦は2人とも既にその年齢を超えており,ヒョッとすると自分も含めて家族や友人など身近な所で,そのような危険な状態が迫っている人がいるのかも知れない。そのような危機意識が必要だということになりそうであるが,私は甚だ吞気に構えていたことを反省させられたのである。そこでそのような危機意識を持って,身近な人たちを見回してみることにした。
9 認知症の人は,全国で約500万人もおり,行方不明になる人が年間およそ1万人もいるそうである。現実は思っていたよりも遙かに深刻である。また女性の方が認知症になりやすいという説もある。
10 普通誰も,何となく「まあ自分は大丈夫だろう。」と思っているに違いない。そして長生きしていると結果として認知症になるのであろう。「自分は絶対に認知症などにはならないぞ。」と決心をしたとしても,この決心は単に根拠のない願望に過ぎない。その決心を本物にするためには,それを裏付ける根拠が必要となる。私はこれまで悠然と吞気に,脳の老化防止や認知症の本を結構沢山買い込んで読んできたが,少し本気になることにした。自分はもとよりとして,妻を始めとして身近な人で認知症になる人を少しでも減らしてやろうなどと考えるのは,いささか妄想のたぐいのような気もする。
11 本を読んで認知症,アルツハイマー,脳の老化防止などに関する基礎知識を身に付けることは必要である。どうやらこれらの病気などの決定的な防止策はないようである。正確に言うと,防止策はあるが,容易ではなく,高度の難問であるということになる。これらの対策の基本は,頭をよく使い,脳をよく働らかせることである。そして運動及び知的作業による脳の活性化,栄養面で脳細胞や脳の血管の保護強化という視点から,雑然としている私の知識を実践的に役に立つように整理してみることにした。
12 今暫くは,私は仕事の現役を続けるつもりなので,仕事をすることで必然的に知的作業をすることになるが,運動面でのきめ細かな工夫と努力が必要になる。退職して「毎日が日曜日」という状態になると,自由に使える時間はできるが,果たして頑張って努力する意欲が持続できるかが大きな問題点になりそうである。
13 どうせ一度しかない人生であり,老後をどのように過ごしてもそう大したことではない。そして脳の健康維持は思ったよりも大変で,そのための努力を続けるには,かなりの気力が必要であるし,多少「おっくう」な気もするが,まあ遊び心で趣味や楽しみとして研究し,試してみようという位の気持ちでよいのではないかと思う。いずれにしても家族に大変な迷惑を掛けることだけは避ける決意をしておきたい。(ムサシ)



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 数日前に、勾留請求却下率の統計についての報道が、法曹界に一定の衝撃を走らせました。さいたま地裁において「2009年から12年までは年間の勾留却下率が1%台だったが、昨年10月に急伸。今年4月まで5・49~11・11%で推移し、平均は8・11%。昨年の全国平均3・90%(最高裁まとめ)の水準を大きく上回った。」(朝日新聞)と報道されたのです。昨秋から行われている若手裁判官の勉強会の影響ではないかという法曹関係者のコメントがつけられていました。この話は、以前からFacebook上で耳にしていたので、私としては「ようやく報道されたか」という感覚でしたが、全国平均の勾留請求却下率が3.90%という記載の方に驚きました。「えっ、そんなにあったっけ!!」。ご存知のように、勾留請求却下率は、1%以下というのが、永年の「常識」だったからです。

 早速調べてみました。驚きました。平成20年の全国統計は1.10%で、実に昭和52年の1.19%以来、実に31年ぶりに「1%の壁」を突破し、その後も平成21年が1.16%、平成22年が1.34%、平成23年が1.47%、平成24年が1.79%と増加傾向にあります。それにしても、上記報道が本当なら、昨年は一気に2.11%も急上昇したことになります。なぜこんなに却下率が上がったのでしょうか。検察がラフな勾留請求をしたからでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。勾留請求数を調べても、平成17年の15万2431件から減少傾向で、平成23年には11万7829件、平成24年には11万9772件となっています。

 最近、聞いた話によると、裁判所は勾留延長をするにしても、安易に10日延長しないで、日数を削る傾向が出てきているようです。

 弁護人としては、「なんだ、やればできるじゃない」と思いながらも、「今までは何だったんだよ」と言いたくなります。

 この報道を見て思い出した話が2つあります。

 1つ目は、尾形誠規さんの「美談の男」という、熊本典道さん(袴田事件で無罪意見だったと名乗り出た元裁判官です)を描いた本(朝日文庫から「袴田事件を裁いた男」というタイトルで再刊されたようですが、一見、美談の男→実はトラブルを抱えたお騒がせ男→でもやはり色んな美談に囲まれている不思議な男、という入れ子構造からすれば、元のタイトルの方がピッタリきます)の中で木谷明さんが語っていた、初任の東京地裁令状部時代の熊本さんの勾留請求却下率が3割を超えていたという話です。「勾留請求の却下に関しては、彼は今で言うとイチロー並みの打率を誇ってたね。僕は、やっと1割から2割の間かな」(193p)。木谷さんの「1割から2割」も随分とすごいのですが。木谷さんは「無罪を見抜く」(岩波書店)の中でも「却下しないと恥ずかしいという雰囲気でした」「その後、学生運動の東大闘争とか沖縄返還反対闘争とかがあって、令状部の実務はすっかり変わりました」「昭和44年から46年頃。あの辺でガラッと流れが変わった」「東京の令状部は、こういうふうにやっていく、と。そこで、全国の若い裁判官が研鑽に来たりして見習って帰るものだから、『東京方式』が全国に広まって、みんなガチガチにやりだした」(57,58p)と書かれています。勾留請求却下率の統計もこれを裏付けるように推移しています。昭和27年の0.66%から徐々に上昇して、昭和44年には4.99%に達しますが、減少傾向が始まり、昭和53年にはついに1%を割り込んで、0.8%になってしまっています。上記報道の3.90%という数字が本当なら、昭和45年の3.76%、昭和46年の3.71%に匹敵する高水準ということになります。

 2つ目は、1997年に、当時旭川地裁にいた寺西和史判事補が、新聞に「信頼できない盗聴令状審査」というタイトルで投書し、当時法制審議会が答申した組織的犯罪対策法案の通信傍受令状に関して、「裁判官の令状審査の実態に多少なりとも触れる機会のある身としては、裁判官による令状審査が人権擁護の砦になるとは、とても思えない。令状に関しては、ほとんど、検察官、警察官の言いなりに発付されているのが現実だ」と書き、「裁判官の令状裁判実務の実態に反してこれを誹謗中傷」したとして、地裁所長の注意処分を受けた話です。弁護人としては「本当のことを書きすぎたなあ」という感想ですが。寺西さんは、翌年、組織的犯罪対策法反対の集会で発言したことを理由に分限裁判で戒告処分を受け、このままでは再任拒否されるのではと心配されましたが、幸い今日まで無事に二度の再任を果たしておられます。今にして思えば、なんだかなあという事件です。そういう時代がつい最近まであったんだと、若い人たちに伝えたくて書きました。

 ということで、若き刑事弁護人の皆さん、「勾留請求却下」というちょっとだけ軽くなった扉をこじ開けるべく、頑張ってください。

 

 なお、タイトルは、白山次郎氏の名作「ある勾留却下」のパクリです。はい。すみません。罪滅ぼしにリンクを貼っておきますので読んでください。

http://www.j-j-n.com/coffee/110401/arukohryukyakka.html

                                              (くまちん)



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  ◎は大満足、○満足、△まあ満足

  <>内の出演者はあえて一般的な知名度のある方に絞っています。あしからず

  ○Bunkamura「殺風景」(シアターコクーン)<西岡徳馬、大倉孝二、キムラ緑子、荻野目慶子、大和田美帆、江口のりこ>

   九州の炭鉱街で起きた殺人事件をモチーフとしたピカレスク的要素の作品と言って良いのだろうか。ただし、主人公自体の魅力と言うよりも、主人公家族の中の複雑な人間関係や各々のコンプレックスなどが入り交じって、いかに凶行に突入していったかを考えさせる作品。母親の缶蹴り必勝法のエピソードや父親を見初めるシーン(大和田美帆さんが熱演)など、それぞれの背負ってきた背景が丁寧に描かれる。「家族」に恵まれず、「家族」を求め続けた父親が、「家族」一体となって凶行に進みながら、決して自らが求めたような「家族」として機能してはいない悲しさ。職業柄「警察官がそんなにペラペラ外部の人間に捜査の手の内を話すかよ」「任意で引いてきた重大事件の被疑者を取調室に一人にするかよ」といった点が気になってしょうが無いが、劇としては十分楽しめる。

   劇中のクライマックスで「黒の舟歌」が印象的に使われる。昭和の炭鉱街で苦渋に満ちた生涯を送ってきた登場人物が、たまたま加害者と被害者になり、それぞれの背景を背負いながら同じ歌を歌うシーンは感動的だと思うのだが、まず歌に反応して笑う客席に違和感を覚え、更に大倉孝二さんが笑いを誘発するようなリアクションを取る(つまり演出意図としても客の笑いを期待している)ことに更に違和感を覚えて、「良い場面なのになあ」と残念に思った(雑誌「悲劇喜劇」掲載の脚本のト書きには、そのような演出はないのだが)。

  ○新国立劇場「テンペスト」(新国立劇場中劇場)<古谷一行、長谷川初範、田山涼成>

   「今年はシェイクスピアが多いなあ」と漠然と思っていたら、今年は生誕450年だそうである。そのシェイクスピアの単独執筆としては最後の作品とされる「テンペスト」。

   さんざんな目に遭わされて無人島に流された主人公は、復讐の機会を得ながらあえてそれをしない。「この地上のありとあらゆるものはやがて融け去り、あとには一筋の雲も残らない。我々は、夢と同じ糸で織り上げられている、ささやかな一生を締めくくるのは眠りなのだ」という主人公の台詞から、無常観に根ざした赦しの劇だと感じた。その「赦し」があればこそ、父以外の多数の人間を初めて目にした主人公の娘は「こんなにきれいなものがこんなにたくさん。人間はなんて美しいのだろう」とあまりにもピュアすぎるかのような台詞を吐くのだろう。

   白井晃さんの段ボール箱を舞台一杯に広げた演出は、主人公が過去の思い出の段ボールを開いたり片付けたりしているイメージのようだが、評価は分かれるだろう。

  ◎地人会新社「休暇」(赤坂レッドシアター)<永島敏行、加藤虎之介>

   病で死期の迫った妻、それを見守る表面的には良き夫、妻の前に現れた若者による対話劇。夫婦生活を長くやっている人は、夫婦で見るべき舞台でしょうね。後がどうなっても知りませんが。笑。ちなみに知人の独身男性は、「何だかよく分からなかった」そうだが、そりゃあそうでしょう。一度結婚してみなさい。この舞台の深みが分かるから。笑

   表面的には優しいが妻を真綿で締めるようにやんわり拘束する夫、そして何かが起こっても自らの体面やプライドを保つ方向で身を処しようとする夫。モノローグを録音するというカウンセリング手法もあって、今まで見つめることを避けていたそんな夫の「実像」に徐々に対面し始め、若者に心惹かれる妻、夫の柔らかな拘束を不満に思いながらも、それなりの自由を享受し、いざとなると夫の決断に身を委ねて己の責任を逃れる形を取る妻(離婚事件などでこういう方時々おられるのですよ)。最後に妻の台詞にようやく出てくる「休暇」という言葉の響きが、そこにたどり着くまでの道のりを背負って、切ない。

   加藤虎之介さんは、「ちりとてちん」の四草役で好きになり、言わば彼目当てに選んだ舞台だったので、どうしても四草のような斜に構えた役柄を期待してしまったが、むしろストレート過ぎて妻の思いを壊してしまう役であった。

  ◎劇団俳優座「七人の墓友」(紀伊國屋ホール)

    これは、私は見ておらず、妻が演劇鑑賞団体の役員として鑑賞した舞台。妻も飛行機の時間の都合で、どうしても途中までしか見られなかったのだが、それでも前半だけでもグイグイ引きつけられたそうだ。

    長年連れ添った妻が、同じ墓に入りたくないと言い始め、「墓友」に出会うという、それ自体はありがちな設定。台本を読んだ段階では、やや登場人物が多いのが気になったのだが、実際に舞台が始まると、すんなりと進行して、徐々に登場人物のキャラ付けがされていって、非常に入り込みやすい舞台だったそうだ。

    舞台装置もシンプルで、背景はサンドアートで描かれるというおしゃれなものだったそうだ。

    この作品は、劇団俳優座創立70周年記念作品なのだが、脚本は鈴木聡さんという小劇場系の劇団「ラッパ屋」を率いている方であるところも感慨深いものがある。

                                                        以 上



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1 このところ,老人や認知症をめぐっていくつかのマスコミ報道がなされ,多少驚く内容でもあったので,少し考えてみることにした。
2 まず平成26年4月24日に言い渡された名古屋高裁の判決についてである。事案の概要は,概ね次のようである。
 平成19年12月に愛知県大府市の認知症(要介護4)の当時91歳の男性(Aさん)が家を抜け出して徘徊中,あるJRの,駅の構内で列車に跳ねられて死亡したが,列車の運行が遅れたとして,JR東海が遺族に損害賠償を請求した事件である。
 Aさんは自分の名前も年齢も,また自宅の場所も認識できない程度に認知症が進行していた。長男夫婦は横浜に住んでおり,週末に帰省して父の面倒を見ていたが,ある時から長男の妻が1人で大府市に転居し,同居はしていなかったようであるが,老義母と2人でAさんの世話をしていた。自宅周辺にはセンサーを設置したり,本人が外出すればチャイムが鳴るようにしていた。ところが長男の妻がトイレの掃除中で,老妻はウトウトしていた一瞬の隙に,Aさんは外出してしまった。チャイムの音が大きくてAさんが怖がるのでたまたまスイッチは切られていた。その後Aさんは,JRの駅のホームで列車に跳ねられて死亡し,列車の運行は混乱した。
3 平成25年8月に言い渡された名古屋地裁の一審判決は,「ホームヘルパーを頼むなどの具体的な対策をとることも考えられた」ことや,老妻はまどろんで,「Aさんから目を離していたのであるから,注意義務を怠った過失がある」として,JR東海の請求を全て認めて,事故当時85歳(判決当時90歳)であった老妻と,長男に対し,総額720万円の支払いを命じた。
4 控訴審である名古屋高裁は,一審判決を変更して,妻に対してのみ約360万円の支払いを命じ,長男に対する請求は棄却した。判決は,「重度の認知症だった男性の配偶者として,妻に民法上の監督義務がある」と認定し,センサーの電源を切っていたことから,「徘徊の可能性がある男性への監督が十分ではなかった」と認定したものである。
5 判決文や事件の内容を詳細に検討したわけではないので,単なる感想でしかないが,この判決は老妻に対してかなり厳しい判決だと感じられる。センサーの電源を切っていたことを咎めるのであれば,センサーを設置していない場合には,それだけで責任を問われることになる理屈である。判決は老妻に一体何をなすべきと要求するのであろうか。「監督は完璧でなければならない」というのであろうか。しかも老妻も「要介護1」と認定されていたというのである。金額も360万円で高額である。
6 遺族の責任追及が不可能であるかどうかについては,私は判断できる立場にないが,この件で判決の結果を支持することになると,家を抜け出した認知症老人が外出先で何か事件を起こして,他人に損害を与えると,甚だ多くの場合に遺族が損害賠償責任を追及されることになりそうである。判決は一体痴呆老人に対して家族はどの程度の監督をなすべきと要求するのであろうか。一切監視の目を離れる状態にしてはならないとでもいうのであろうか。そんなことは事実上不可能であろう。またホームヘルパーを頼むだけの経済的余力がある人が一体どの程度存在するというのであろうか。この判決では,「うたた寝をするのであれば,チャイムの電源を入れてからにしなさい」ということになる。(ムサシ)



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1 先頃わがやの花壇に「ナデシコ」が咲いた。野生の「河原ナデシコ」を栽培用に改良した品種のようで,花も少し大き目で,深紅の鮮やかな色である。昨年も小さな株はあったのだが,妻がまた同じ苗を買って来て,塀の外の道路に沿った細い花壇に植えたのである。株も大きくなり花もたくさん咲いたので,出勤前にナデシコに見とれて暫し佇(たたず)むこともあった。ここで一服ふかすとさぞ煙草も美味しいに違いないと思ったが,私は感心なことに30年余り前に禁煙し,以後煙草とは無縁である。
2 そのナデシコを2本切って,事務所の花瓶に挿(さ)してもらって楽しんでいた。恒例の花の名テストも行なった。それから約1週間が経過したころのある朝,事務所のナデシコを新しいものに取り替えようと思って,ハサミを持ってナデシコの枝を切ろうとしたところ,昨日まであったナデシコがなくなっており,花壇にポッカリと大きな穴が空いていた。株ごと根こそぎ抜き去られていたのである。別の小さな株に数本のナデシコが残ってはいたが,心ない人がいるものだと思ってガッカリした。
3 そういえば確か昨年も,ナデシコのすぐ隣の場所にあったキキョウの枝を3本ほど刃物で切り取られて,腹を立てたことを思い出した。おそらく同一犯人なのであろう。
4 花壇の花を持ち去ると窃盗罪になり,10年以下の懲役刑か50万円以下の罰金刑に処せられることになる。今年も遠からずキキョウが見事な花を咲かせそうな気配なので,そのうちキキョウも被害を受けるに違いない。私が憤慨して,「防犯カメラを設置してキキョウの犯人を検挙しよう。」とか,「ナデシコの窃盗罪の被害者として,被疑者不詳として被害届を警察に出そうか。」とか,「花を盗らないで下さい。」という立札を立てようかと妻に言うと,妻は笑って首を横に振った。被害届を出して,被害者として警察で調書を作成することになるとしたら,一体どのような被害感情を述べることになるのであろうか。「法律実務家としての私は,適正な処罰がなされるように希望しますが,被害者としての私は,被疑者を厳罰に処して頂くよう希望します。」というのが私の本音ということになる。
5 「花盗人」(はなぬすびと)という言葉がある。本来の意味は,「他人の妻に夜這いする人」のことだそうで,恋多き平安時代の女性であった和泉式部の歌集の中で,藤原公任という人が詠んだ和歌とされている「われが名は 花盗人と 立てば立て ただ一枝は 折りて帰らむ」に由来するようである。この「一枝」とは,おそらく和泉式部のことであり,艶なる恋の歌ということになる。
6 ついでに書くと,「狂言」にも,桜の花を盗もうとして捕まった男が,桜の幹に縛りつけられたが,花の和歌一首を詠んで許されたというものもある。「この春は 花のしたにて 縄つきぬ 烏帽子桜と 人はいふらむ」というものである。
7 深紅のナデシコを美しいと思ったというのであれば,せめて1枝か2枝を切り取って,自宅の花瓶に挿して愛でてほしいものである。切り花数本の被害であれば,どこかの家の花瓶に飾られていると思うことで被害者の心もいくらか癒されることになるというものである。本件の犯人は,「花盗人」ではなく,「花泥棒」というべきであるが,いずれにせよ怒りの心を鎮めるのに暫し苦しんでしまった。してみると私もまだまだ人間として未熟だということなのであろう。(ムサシ)



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