日本裁判官ネットワークブログ
日本裁判官ネットワークのブログです。
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 判事補・検事の他職経験制度というものがある。これは,司法制度改革の中で,裁判官や検察官に組織外での多様な経験をさせようという趣旨で,2年間にわたって裁判官・検察官の地位を離れて弁護士になり,「他職経験」をするという制度である。既に制度開始から5年が経過し,4月には第6期生が弁護士になる。
 毎年3月に日弁連で,弁護士職務経験者との懇談会が実施されるのだが,私は,制度発足時にネットのホームページに下記の駄文を書いた関係もあり,できるだけ参加するようにしている。先日も,貴重な経験談を聞くことができた。
 参考 「判事補桜田秀作の他職経験」
http://www.j-j-n.com/su_fu/past2005/050401/050401e.html
 検察官出身者は,弁護人となって,接見や記録閲覧・謄写がどんなに大変かを思い知ったそうである。検察官時代は取り調べる相手は警察が検察庁まで押送してくれるが,弁護士となれば事務所を開けて警察の留置場や拘置所まで会いに行かなければならない。検察官は裁判に出す証拠が整えば,弁護士に閲覧・謄写が可能になったと伝えれば足りるが,弁護士はまた事務所を開けて検察庁まで閲覧に行かなければならない。事務所を開けると他の仕事が進まないので,その時間を惜しんで謄写を頼むと結構コピー代がかかり,全部は法テラスで負担してくれないので枚数が多いと相当自己負担しなければならない。一方,弁護士が証拠書類を出すとなると,事前にコピーして検察官に送っておかなければならない。民事事件では弁護士同士が当たり前にやっている作業だが,同じく「当事者主義」のはずの刑事訴訟では,対等ではない慣行が前提となっている。弁護側で相当分量の証拠書類を出すことになったときには,一度「証拠書類が整いましたから,閲覧・謄写に事務所まで来てください」と検察官に言ってみたい誘惑に駆られたそうである。検察官時代は,自白事件の国選弁護報酬が7,8万円であることについて,「こんな事件でそんなにもらえて」と思っていたが,実際にやってみるとそうは思わなくなったそうである。
 判事補出身者が,依頼者に事務所に来てもらうために送る手紙のタイトルを「呼出状」と書いてしまったというエピソードも披露された。
 検察官出身者からは,「自分はまだ検察庁のカラーに染まっていないと思っていたが,外に出てみると染まっていることが分かった。この経験がなければ自分が検察の考えに染まってしまっていることに気づかなかったかもしれない。」「検察官時代は,普通の会社や銀行の人と会うのは取調官と被疑者・参考人という関係であったため,弁護士をして初めて普通の会社や銀行の人と普通に話ができ,どういうことを考えておられるのか分かった。」,裁判官出身者からは,「裁判官は他の人の法廷を見ることはなく,弁護士としていろんな人の訴訟指揮を見て勉強になった。時には当事者の前でこういうことは口走ってはいけないなと反面教師にしたこともあった。」「弁護士は依頼者に寄り添わなければいけない。最初のころは事務所の人に見方が客観的すぎると言われた。」「全ての裁判官に経験して欲しい。弁護士経験をすると決まったときに,裁判長から『僕が行きたいくらいだ』と言われた。」といった感想が述べられた。彼らが古巣に戻って,大いにこの経験を生かして活躍していただけるとの期待が持て,やはりこの制度を作って良かったと熱い思いが込み上げた(←僕が作ったんじゃないけどね)。
 興味深かったのは,事務所選択の過程が裁判所と検察庁で全く対照的なことである。裁判所ではこの制度は結構周知されていて,弁護士経験を希望すると受入事務所の情報をまとめた電話帳のような冊子が提供され,希望事務所を3つほど書いて出すそうで,それに対し裁判所から「この事務所に面接に行きなさい」とそれぞれの判事補に3事務所が重ならないように内示されるそうである。その中には希望しなかった事務所が入っていることもあるようである。これに対し,検察庁ではこの制度は殆ど周知されておらず,内示を受けて初めて制度を知った人が多いようである。そして,受入事務所についても内示後に全受入事務所のリストを渡され,「好きなところに面接に行きなさい」と言われ,むしろ内定者同士メールで情報交換して自主的に希望を調整して面接に行くそうである。制度周知に熱心ではない検察庁の方が,結果的に事務所選択については自主性を重んじた運用になっているところが興味深い。
 事務所側が給与を負担しなければいけない制度のため,受け入れる事務所側もそれなりの負担があるので,どうしても受入事務所が大規模事務所(渉外・企業法務系か都市型公設事務所)に限られがちである。多くの弁護士の方にこの制度の意義を理解していただき,受入事務所に名乗り出ていただければ幸いである。
(くまちん)



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 私の勤務する裁判所のある兵庫県伊丹市は,以前,酒蔵通り地区が,平成20年度都市景観大賞「美しいまちなみ賞」(美しいまちなみ優秀賞)受賞地区 となったことを紹介したことがあります(2008年06月14日欄)。その他にも,紹介したいことがいろいろあるのですが,その一つに,町中に建てられている歌碑のことがあります。この町には,古い歴史があり,伊丹に因んだ歌や,伊丹に関わりのある人の歌というのが結構あるのです。そのため,伊丹市文化財保存協会などにより,町中に数多くの歌碑が建てられています。味わいがあって,とても気に入っているのですが,その1つで,最近仕事柄とても気になるのがこの歌。

  山鳥のほろほろと鳴く声聞けば 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

 奈良時代の高名な行基菩薩の歌で,玉葉集という歌集に載っている有名な歌だそうです。奈良の大仏建立にも尽力した行基菩薩は,堺市の出身と言われていますが,伊丹市にも深い縁があり,指導して築造したと伝えられる大きな池や,建立寺院があり,「行基町」という町名もあります。この歌が気になるのは,私が,民事事件と共に,家事事件を担当しているからです。
 今の日本の離婚制度は,離婚する際に親権をどちらかに決めなくてはなりません。そのため,親権をめぐって時に熾烈な争いになり,人事訴訟で親権を取得できなかった側の不満にはとても大きなものがあります。当ネットワークにも,そんな不満の声が時折寄せられます。しかし,両親が離婚するといっても,子供にとっては,両親が両親であることには変わりはありません。不幸にして,両親が離婚するとしても,子供にとっては,いつまでもつながりが続くほうがよいでしょうし,それを望む子もあります。行基菩薩の歌は,亡き父母を偲んだ歌だそうですが,子供にとっては,いつまでも両親が思い出される育ち方をしたほうが,幸せではないでしょうか。もちろん,虐待があったり,親が再婚した場合など等,難しい事例が少なくないのも事実なのですが,それでも,片方の実親しか思い出せない育ち方をしたほうがいいのかどうか,慎重な検討が必要です。
 こうした意味で,現行制度でも,離婚後の面接交渉(面会交流)は特に重要なのですが,それだけで満足できない両親が増えているように思われます。少子化の時代ですから,それも当然で,子供に対する両親の執着は大きく,これは子供にとっては,むしろ好ましいことのように私には思われます。しかし,現行制度は,法的に一方だけしか親権をもつことができないのですから,紛争をかえって大きくしてしまう場合もあります。欧米では,共同親権の制度が認められています。家族制度は,社会の基本であり,できるだけ安定しているのが望ましいのですが,さりとて,全く不動というわけにはいかず,家族像や男女の役割,それに親権制度も変化している時代ですから(2/3欄参照),欧米の制度も参考にしながら,単独親権制度しかありえないのかどうか,考えてみる時期に来ているのではないかと思います。結論はどうあれ・・・。最近,そんなことをよく考えるものですから,行基菩薩の歌が何となく気になって仕方がないのです。

 ところで,私は,調停で離婚が成立する際,調停条項を読み上げた後,当事者の方に「ご夫婦は,離婚という形で元の他人の戻るのですが,子供さんにとっては,父母であることには変わりはないのです。今後,子供さんのために,協力しなければならない場面が必ずあるはずですから,その際には,相手に対する感情は抑えて,子供さんのために協力すべきところはして下さい。」と伝えています。できれば,行基菩薩の歌を短冊に書いて渡したいと思ったりしますが,毛筆が苦手なのでこれができないのがとても残念です・・・。


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法制審議会は,2月24日,公訴時効の廃止または期間の延長について法務大臣に答申をしたということが報じられました。殺人等の凶悪事件の真犯人が生きているのに,訴追ができなくなるという不条理さから,時効廃止を希望する被害者の遺族の方々の気持ちは十分理解できるつもりですが,時効廃止等にはメリットとデメリットがあるようで,遺族の方々の熱意・悲願に答えるということだけを主に考えて突っ走ってしまうと大きな問題が残るように思います。
 
 東京新聞の2月26日付け社説も,国会の徹底審議を求めています。これによると,内閣府の世論調査では、殺人などの時効が現在25年であることについて、約55%が「短い」と答え、そのうち半数が「時効廃止」を求めている,「逃げ得は許さない」という社会意識の高まりがうかがえる,としています。たまたまインターネットでみた市民の賛成意見では,被疑者・被告人=真犯人という固定観念が前提にあって,「犯人の逃げ得を許さないという正義感」が直接に時効廃止意見に結びついているように感じられました。もしこれが賛成世論の根幹をなしているとすると,いささか短絡的に過ぎる危険性を感じます。

 以下,検討不十分ですが,思いつくままに私の感じた問題点をあげてみました。

1 殺人等の事件で時効が廃止されると冤罪が増える,あるいはその原因になるという意見があります。日弁連会長もそのような内容の談話を発表していました。私も,確かにそのような面はあると思います。
  時効制度の存在理由を考えてみると,時間が経つと関係者がいなくなる,あるいは関係者の記憶が曖昧になる,証拠が散逸するなどの問題にあるなどといわれます。これは具体的にはどういう問題なのでしょうか。
  訴追側の証拠についてみると,時効が廃止され25年以上の長期間が経って,これまで起訴できなかった殺人事件が起訴に持ち込めるようになるとすれば,それは極めて偶然に有力な物的証拠が見つかるということしか考えられません。例えば,犯罪現場に遺留された証拠から付着物のDNA鑑定などが実施されて犯人のDNA型が明らかになっていたが,一致するDNA型は登録されていなかったが,偶然のことからこれと特定人のDNA型とが一致したというようなことでしょう。足利事件でも弁護人がDNA鑑定をした資料の適切に保存をするように裁判所に申し入れをしたことがありましたが,DNA鑑定の資料が保存状態が悪いまま長年放置されたり,再鑑定の資料が残されていなかったりすると,元の鑑定資料の取り違えや入力ミスなど人為的なミスは避けがたいものですから,そのような疑問が出ても,再鑑定ができないという問題もでてきます(3月20日付の朝日新聞には,特定人のものとしてDNA型データベースに登録された情報が別人のものであったため,誤った逮捕,捜索がなされたという記事が載っています。)。
  足利事件の時代に比べてDNA鑑定の精度が飛躍的に高くなった現在においても,殺人現場から採取された資料から検出されたDNA型が被疑者のそれと一致したというだけでその人が犯人とは断定できない場合があります。犯罪と切り離せない物に残された物質(例えば,被害者の着衣に付着した血液)で,その時に付着したとしか考えられないものから被告人のDNA型が発見された場合であれば,犯人性の証明はほぼ決定的といえるかも知れませんが,場合によっては,犯罪が起こった時と別の機会に犯行現場を訪れた被疑者が細胞片を含むDNA鑑定の資料を遺留したという可能性もあるからです。例えば,前科・前歴のない新米の空き巣狙いが指紋や手あか等を遺留することだってあり得ます。
  他方,被疑者(真犯人とは限らない。)の側から言えば,詳細な日記を付けている人でもない限り,もっと早く被疑者とされていればアリバイが主張できた場合でも,長期間経ってすでにその日のことはかなり記憶が曖昧になり,あるいは無くなっているのが普通です。また,親が死亡したり,家を建て替えたときに関係資料も捨ててしまったりして散逸し,家族,知人など当時の事情を知る者も死んでしまって誰も自分のアリバイや有利な事実を証言するものがいないということは十分考えられます。
  また,被告人が捜査段階から徹底して否認していれば,単純に証拠物や目撃証人の証言で被告人が犯人と立証できるかどうかという証拠評価の問題になりますが,これに虚偽自白であるとされる被告人の捜査段階の自白が絡んでくると大変複雑なことになります。犯行日時からそれほど長い年月が経っていなくても,犯行時の記憶が曖昧で(被疑者が真犯人でなければ,大いにあり得ることです。),アリバイが主張できないことが被疑者にとって非常に不利な事情となります。アリバイが曖昧なことを追及されて,自白に追い込まれたという事例は,現実にあったのではないでしょうか。自白内容が虚偽であれ,いったん自白をすれば,被告人にかかった疑いを法廷で打ち消す負担は極めて重いものです。時効制度を廃止するなら,このように確実に予想できる被告人の不利益をどのように埋めるのかを制度設計上考えておくべきではないかと思うのです。少なくとも現在の制度においてもなお残っている,誤判の要因を助長することにならないような配慮が必要ではないでしょうか。
  このように,公訴時効撤廃の前提として,まず最低限取調べの可視化だけでも保証すべきでしょう。鑑定資料の保存態勢も重要ですし,残された資料がないため再鑑定ができない鑑定を決定的証拠には使えないというルールも必要ではないかと思います。
  他方,目撃者がいたとして,その供述だけでは犯人を特定できないが,新しく発見された証拠物やこれについての鑑定結果と相まって被告人を特定することができる場合があります。しかし,長い年月が経ち,その目撃者が死亡している,あるいは老齢で事実上証言能力がないことが十分考えられます。その場合には,刑事訴訟法の規定(321条1項2,3号)で,捜査段階での供述調書が証拠として採用されることになるでしょう。これも被告人にとって大いに不利益な問題です。証人に対する反対尋問ができないからです。反対尋問ができない供述の証拠採用を制限し,参考人調書取調べは録画されていることを要件とするとか,裁判官に尋問を求めるなど参考人が死亡する可能性も考慮した刑訴法226条,227条を拡張した証人尋問の規定を置くことも必要かも知れません。

2 公訴時効が廃止されたり,長期化すると再審が困難になる面もあるように思われます。従来は弘前大学教授夫人殺人事件のように,時効が過ぎたからこそ真犯人が説得に応じて名乗りでてくることもありましたが,時効がなくなれば,その可能性がなくなるだろうと思うのです。富山・氷見事件のように,時効期間内であるのに真犯人が出てきたというのは法定刑として死刑のない強姦事件だからであって,死刑になる可能性があれば,恐らく,真犯人の自白は絶無ではなくともほとんど期待できないだろうと思います。

3 時効が廃止されれば,従来のように法的なけじめにとどまらず,社会的なけじめ,節目というものもなくなります。いつまでも特定の事件に捜査人員を割くことは不可能ですから,形ばかりの捜査態勢でいつまでも捜査が続けられることになるのは必然でしょう。そうなると,警察から殺人等の疑いを掛けられている人の立場はどうなるでしょうか(それが真犯人なら自業自得でしょうが,そうでないのに疑いを掛けられている人も多いでしょう。)。警察としては,例えばX氏から何度か事情を聞いたきりで決め手に欠けるために放置していることがあるとします。さりとて,あなたは白ですとは言えないとすると,X氏にとってはいつまでも決着が付きません。裁判で無罪判決を受けても,世間からは決して「白」とは見てもらえないのが社会の実情でしょう。そうすると,警察の当事者が退職し,あるいは転任して,事実上「お宮入り」になった事件として忘れてしまったとしても,いったん疑いを掛けられた人は,社会的に「疑惑の人」というレッテルを貼られたままであることは現状でも十分想像可能です。これに加えて,時効が廃止されれば,法的には起訴される可能性が残っているのですから,警察に疑いを掛けられた人は「主観的」にはどこで監視されているかもしれないという,極端に言えば,針のむしろに座っている意識のまま一生を終えることになるでしょう。そのような不安感は当事者でなければわからないでしょう。被害者側に十分配慮することには異論がないのですが,真犯人とは限らない被疑者側に過酷にならないような配慮も必要ではないでしょうか。

 死刑を含む罪の時効期間が25年に延長されて5年余りしかたたないのに,このような問題の手当なしに今時効の廃止を急ぐ必要はあるのでしょうか。
                               

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1 花粉症の季節である。花粉症患者にとっては甚だ憂鬱な季節ということになる。私も花粉症の重症患者となってから既に28年が経過した。28年前のある朝,突然花粉症が発症した。朝の洗顔時に突然,猛烈な瞼の痒みに襲われたのである。早速病院に駆け付けて診察を受け,「花粉症」と診断された。血液検査を受けた結果であった。

2 飲み薬を処方され,症状は軽減したものの,憂鬱な状態は継続した。毎年2月20日過ぎから4月20日過ぎまでの2か月間,キッチリと苦しんできたのである。

3 ところが最近5年余り,私は嘘のように花粉症に苦しむことがなくなった。花粉症に罹患しなくなったのではない。飲み薬が劇的に効いているのである。最近は機会あるごとにその話をして,多くの友人達に感謝されている。

4 私はテニスを趣味としており,週1回2時間を目標にテニスを楽しんでいる。ストレス解消に効果的である。時にテニス会にも参加する。今から5年程前の秋にテニス大会で転んで膝を痛めた。治療を受けるほどではなかったので放置していたところ,半年ほど経過しても痛みが取れず,ただごとではないと心配した。そこでテニス仲間の紹介で,ある医院を訪れたのである。膝にはシップ薬を張ることで,1か月もせぬ内に軽快し完治した。

5 偶然その医院の壁に,「当医院は花粉症の治療を行なっています」という張り紙がしてあった。2月中旬のことであったと思う。そこで私は重症の花粉症患者であることを告げて治療をお願いした。血液検査を受け,次会通院の際に飲み薬を渡された。この薬が劇的に効いたのである。それから5年余りが経過した。その間何種類か薬は変化したように思うが,確認はしていない。私はこの間花粉症に苦しむことは全くなくなった。

6 おそらく花粉症の研究が進歩したのであろう。私は,もう誰もが花粉症の苦しみから解放されているのかと思っていたが,病院で治療を受けているのに,今なお花粉症に苦しんでいる友人や知人が多いことを知り,驚いている。先日も,毎年半年近く花粉症に苦しんでいるという人がいた。これは一体どういうことなのだろう。同じ薬が人により効き目が違うということなのであろうか。

7 私は花粉症に苦しんでいる友人などが地元の人であれば,その医院を教えている。地元でない人には,薬をサンプルとして郵送したりしている。
 こういう話は案外役に立つような気がして,書いておくことにした。薬が十分効かない場合には,この話をして担当医師に迫ってみるのがよいと思う。

8 最近宴会などの機会に,私の席の周辺に座った人達は,オリーブオイルや花粉症や取り寄せている日本ソバや黒髪を維持する方法などの話で,異様に盛り上がることが多くなっているような気がする。(ムサシ) 

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 当ブログの昨年10/21欄,12/16欄で紹介したNHK教育テレビETV特集「死刑囚・永山則夫ー獄中28年間の対話」というドキュメンタリー番組の再放送があります。予想どおりです。放送日時は3月21日(日)後10時から1時間半です(http://www.nhk.or.jp/etv21c/)。
 当ブログで,テレビ番組の紹介をすることにご批判があるかもしれませんが,この番組は是非見ていただきたいと思い,あえて紹介することにします。内容については,いろいろな立場からご意見があると思いますが,どのような立場の方であれ,時間を割いて見る価値が十分あると思います。

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6 私は刑事控訴審の最初の事件担当の経験から,刑事控訴審の審理は丁寧になされるものと思っていたが,その次の事件では事態は一変した。裁判長は転勤により交替していた。国選弁護事件として,一審で別の弁護士が無罪を主張し,有罪判決を受けていた。私は当番弁護士として控訴審から担当した。控訴審においても無罪を主張し,控訴審裁判所に詳細な被告人質問をしたいと申し出て,40分必要であると主張し,その準備もしていた。

7 ところが裁判長は,刑事控訴審は事後審であるので,原審に現れた資料に基づいて判断することになっており,被告人質問で新たな事情があるのかと問われたので,具体的に説明したところ,それらは全て一審で質問されているから,繰り返しに過ぎず,必要があるとは認められないと言われたのである。

8 しかし一審で無罪を主張したのに有罪判決となっているのであるから,一審と同じ証拠のままであれば,また有罪となる可能性は高いことになる。そこで弁護人としては一審での不十分な被告人質問を,角度を変えて詳細に質問したいと考えるのは当然のことである。

9 私は裁判長がそのように対応されようとは余り想定しておらず,裁判長と論争する準備をしていなかったので,十分反論できなかった。そして「刑事控訴審は真実は何かと追究はしないのですか。」などと,多少感情的な論争をした後,主として一審後の量刑に関する新たな事情ということで,ある程度,事実に関しても被告人質問をなしたのである。結果はやはり有罪であった。

10 刑事控訴審はこれでよいのだろうか。これでは,一審で無罪を主張したが有罪判決が出されている事件で,刑事控訴審において逆転無罪判決を得ることは殆ど不可能ではないだろうか。一審判決が誤判であるとしても,十分な再吟味の機会がないことになるから,誤判を正すことなど「夢のまた夢」ではあるまいか。わが国の刑事司法は「絶望的である」と平野竜一元東大教授が言われたことがあるが,「何故に控訴審は誤判救済の機能を果たし得ないのか」(石松竹雄「刑事裁判の空洞化」P177~)などという論考を見つけた。(ムサシ)

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 地方裁判所委員会は,裁判所運営に地域の市民の声を反映させるという趣旨で平成15年に設置された制度で,多数の学識経験者委員を任命する諮問機関である。戦後すぐに設立された家庭裁判所委員会にならったものである。家裁委員会の歴史,戦後の活発な活動と無惨なまでの形骸化の軌跡等の詳細については,「自由と正義」平成16年5月号の「『天窓』は開かれたか」という文章をお読みいただきたい。
 私は,この委員会がうまく機能すれば,キャリアシステムの論理を中心として成り立つ「閉ざされた価値システム」としての裁判所の「天窓」を開け放ち,真に地域に根ざした裁判所に生まれ変わる「突破口」になると期待していた。現状ではその期待は相当に裏切られていると言わざるを得ないが,存在し続けることに意義があると考えることにしている。
 各地の委員会の議事概要は,各裁判所のホームページの「○○地方裁判所について」「○○家庭裁判所について」の所をクリックし,更に「委員会」というところをクリックするとご覧いただける。
 先日,日弁連で,各地裁・家裁委員会の学識経験者委員(市民委員)経験者の方のお話を伺う機会があった。以下は元市民委員の方の声である。
 「何のための委員会か分からなかった。『市民の声を聞く』ということについて裁判所はどういうイメージを持っていたのか。我々が述べた意見は聞いただけなのか。誰がいつまでにどのようなことをするのかが明確にされない。」
 「議事概要の公開だけでは活性化しない。どう反映されたかのフィードバックが必要。」
 「裁判所のパンフレットは,制度について前提知識がある人にしか分からない。そのことを指摘して所長は『なるほど』と言ったが,それを最高裁に伝えてどうなったかがわからない。」
 「今でも形骸化しているが,裁判員裁判がテーマになる今はまだまし。裁判員制度が落ち着いたらもっと形骸化するのではないか。」
 「委員長が所長なのはおかしい。現状維持でお茶を濁すことになる。」
 某地裁委員会の片隅を汚している私から見ても,誠にごもっともなご指摘ばかりである。
 そもそも,大多数の委員会の委員長が,裁判所長のままである。地方自治体の審議会等を経験すれば分かるが,諮問する側の長が諮問機関の委員長に平然と就任するような愚挙は他に類を見ないであろう。
 もちろん,調停での当事者の呼び出しを名前でなく番号に変えたとか,カウンターにプライバシー保護のための衝立を設置したとか,一定の改善に結びついた例もある。利用者に対するアンケートを実施している庁も相当数出てきたが,松山家裁のように直截に顧客満足度を尋ねるものは少ない。
http://www.courts.go.jp/matsuyama/about/iinkai/pdf/katei011_a.pdf
(松山家裁の利用者アンケート)
 裁判所側の発想は,どうしても裁判所が伝えたいことを正確に理解して欲しいとか,クレームをつけられないようにという方向に向きがちだが,むしろこの委員会を積極的に利用して地域のニーズを受け止め,裁判所の人的・物的資源の充実への追い風にするというくらいの発想が生まれて欲しいものである。最高裁の一般規則制定諮問委員会での議論では,公聴会的なものが想定されていたのであるから,例えば庁舎設計に利用者の声を活かすような工夫の余地はあると思われる。
 最後にある地裁市民委員の言葉を引用して結びとする。
 「議論は勝負を争うものではない。お互いの価値を理解し合い,違いを認め合って,意識を変えていくことが大事である。」
(くまちん)


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13 現代医学によれば,ガンおよび老化防止策は過剰な活性酸素の除去である。それには前述した不老長寿法をできるだけ頑張って実践した上でのことになるが,食事により摂取するビタミン類やポリフェノール類だけではかなり不足するらしい。そこで私は容易に続けることのできる「名人戦」の妙手として次の二手をお勧めしたい。いずれも私が5年ないし10年以上の期間をかけて実践した上でのことである。
 一手目はオリーブオイルである。これは日野原重明医師が毎朝大匙1杯(15CC)のオリーブオイル(バージンオイル)を40年以上飲んできたことで,98歳になっても元気でかくしゃくとされているという話を参考にしたものである。動脈硬化を防止するほか,抗酸化物質であるポリフェノールも多く含まれているそうである。私もその話を聞いてから,真似をしてもう5年以上続けている。効果もあるような気がする。
 二手目は総合ビタミン剤(プラスミネラル)を朝夕1錠ずつ飲むことである。1錠10円程度で入手できるので安価である。野菜と果物に対する強力な助っ人となる。これはまさしく活性酸素除去策である。この方法はガン防止の有効な手を打っているのではないかという安心感が生じるので,精神安定剤の作用もある。

14 アンチエイジングの本を読むと,人間は120歳まで元気で生きられるとされ,多くの老化防止策が書かれている。その中から自分で実行できそうな簡単な方法を見つけて,それを試してみるのがよいと思う。私は長年の実験の結果,忍び寄る膵臓ガンなどのガン防止対策としてはビタミン剤の活用が不可欠だと思うようになっている。

15 どうやら「妙手」とか「絶妙の一手」などと,大袈裟な話の割にはつまらない結論になってしまったようである。私の実践歴としては,オリーブオイルは5年以上に,ビタミン剤は10数年になる。手軽で効果もあるような気がしている。実は私も密かに日野原さんのようになろうと思うようになってきた。
 「人生の名人戦」は甚だ地味な長期戦である。その戦いのためにはそのメカニズムの理解と不老長寿への「強い意欲」がないと続かない。そして目に見えない敵との戦いに勝利しているかどうかはおよそ10年先に分かるという,甚だ呑気な話なのであるから,焦らず遊び心で楽しむ位が丁度よい。

16 少し前に妻に,大きなマルチビタミンのビンをプレゼントして,朝夕1錠ずつ飲むことと,オリーブオイルを勧めた。暫く様子を見ていたが,飲んでいる気配はない。私は,私の頭が黒いのは,主としてオリーブオイルとビタミン剤のせいであると思っているが,妻は「遺伝でしょう。」などと憎まれ口を言う。妻にしてこうであるから,他人が聞く耳を持たないのも無理はあるまい。「俺より先に死ぬことは許さない」と毒ついてみたり,服用を懇願してみたりしたが,言うことを聞きそうにない。やはり私の主張を妻や友人たちが試してみる気になるためには,私が単に「頭が黒い」と自慢しているに過ぎない程度の低レベルの健康論者から,日野原さんにも匹敵するような,文字通りの健康優良児に変身するしかないだろう。そのためには,「減量に成功する」という私の健康に関する最終戦争に勝利する以外に道はなさそうである。(ムサシ)


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 昨日,日弁連会館で,「冤罪はなぜ繰り返されるのか」という市民集会が開催され,足利事件の菅家氏,布川事件の桜井・杉山氏の報告に続いて,成城大学の指宿信教授による「冤罪をいかに防ぐのか-誤判原因究明の目的と方法」と題する講演がなされた。私はこれをテレビ会議方式で,地元弁護士会館で視聴した(便利な時代になったものだ)。
 指宿教授はホットなニュースとして,アメリカ合衆国ノースカロライナ州の事例を紹介された。ノースカロライナ州では90年代からDNA鑑定による冤罪が相次いで発覚し,これを受けて2002年11月に同州のビバリー・レイク最高裁長官が刑事司法制度調査委員会を設置し,04年に同委員会が独立した誤判調査機関の設置を答申したことを受け,06年8月に誤判調査委員会の設置法が成立した。この誤判調査委員会は,第一段階で専属スタッフによる審査を行った後,第二段階で裁判官三人による審査が行われる。そしてこの委員会の下で,今年2月17日に初めての再審無罪事例が出た。これは,91年発生の殺人事件について,93年に有罪判決を受けていた男性に関し,血液反応に関する鑑定の虚偽性を認めたものである。この無罪の報を受けたレイク元最高裁長官は,「私たちが過ちを犯したのです。だから,過ちを犯したことが分かったときには,できるだけ速やかにそうした過ちを正すことが私たちの責務なのです。」とコメントされたそうである。
 指宿教授からはこの他,イギリスの刑事再審委員会など,世界に広がる第三者機関的な「誤判原因調査委員会」設置の動きが紹介された。
 翻って日本には,誤判救済のために再審請求手続があるが,その扉の重さ・狭さはつとに指摘されているところである(最近の再審開始ラッシュは一時的な現象で,つい一年ほど前まで再審に関しては絶望的な雰囲気が去来していた)。一足飛びに市民参加や第三者委員会とは行かないまでも,証拠開示等の工夫が進められるべきであろう。そうした意味で,昨年12月の狭山事件における血痕や筆跡鑑定に関する証拠開示勧告のニュースは興味深い。折しも担当裁判長は,「判例タイムズ」誌上に「刑事裁判ノート」という連載を執筆中である。現職裁判官が,自らの関与した事件について顕名でコメントする例は,少なくとも近年では珍しいのではないか(判例雑誌の匿名コメントの多くが担当裁判官や担当調査官によるものという噂だが)。名張毒ぶどう酒事件や布川事件にも関わっておられるので,これらにどのようにコメントされるのか注視されるところである。
(くまちん)


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9 その気になれば誰でも不老長寿の本格的な「名人戦」を戦うことは可能である。ただそのためには研究や工夫が必要であり,仕事が忙しい人には,なかなかその気力が湧かないかも知れない。だから「本格的」ではなく,遊び半分にチョットやってみようかなという程度が丁度よいのである。それが案外効果的であればそれに越したことはない。

10 私はこの20年近く,遊び半分に結構あれこれと健康論の実験をしてきた。その結果として余り大した努力はできないことも分かっている。
 不老長寿法の基本は甚だ簡単なことである。それはこれまで言い尽くされていることである。まず適度の運動をし,運動や趣味でストレスを解消する。よく眠る。食事では,野菜や果物をしっかり食べ,ビタミン類が不足しないようにする。豆腐,納豆などの植物性蛋白質,ヨーグルト,牛乳などのカルシウム類,魚肉などをしっかり摂取し,肉類は控え目にする。酒類は適度に押さえる。食べ過ぎない。タバコは止める。
 大体こんなところであろうか。「そんなことはやっているよ。」と皆さんに言われそうな,甚だ簡単なことである。そうだとすると,多くの人は密かに忍び寄るガンに対する目に見えぬ対策としての「妙手」を打っていることになる筈である。それなのにみんな相応に歳を取って行くのはどういうことなのだろう。目を見張るようなアンチエイジングの成功者は余り身近にはいない。やはりこれだけでは何かが不足しているということなのであろう。私としてはそんなことで満足するわけには行かない。やはり「妙手」が必要ということであろうか。

11 現代医学は,ガンや老化の原因は過剰に生産された活性酸素であると主張する。我々の体内に細菌が侵入すると,白血球が活性酸素を生産して,細菌から電子を奪うことで酸化して殺菌し,退治してしまうのだそうである。この場合にはおそらく活性酸素の大部分は細菌から電子を奪うことで酸化力を失い,自らの細胞や遺伝子を酸化し傷つけることは少ないと思われる。しかし例えば喫煙によりタバコのタールを吸入すると,白血球が異物の侵入として活性酸素を生産して攻撃するが,タールを酸化することはできないために,使い道のない活性酸素が大量に残ることになる。それが自らの細胞や遺伝子から電子を奪うことで酸化し傷つけて,がんや老化の原因となるという理屈のようである。正確かどうかは責任は持てない。過剰飲酒もストレスも活性酸素の過剰生産の原因となるようである。ただこのメカニズムの追跡は我々には余り実益があるとは思えない。

12 我々は日常的に,意図に反して活性酸素を過剰生産し,必要量を超えた活性酸素で自分を傷つけながら暮らしていることになる。そのような状態が10年以上続くとがんになるおそれがあるし,老化も進行するという理屈なのである。これが現代医学の結論のようである。案外単純で明快な説明ではある。そしてそれが本当かどうかはよく分からないが,我々は一応そうと信じて対策を練るしかないのではあるまいか。(ムサシ)



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