津地裁の竹内裁判官が母校で「裁判官の良心とは」という演題で講演をされており、その様子がYoutubeで公開されています。
https://jishu-dosokai.sakura.ne.jp/j130th/movie
大変、興味深く拝見しました。
裁判官の良心というテーマについては、私は以前から関心がありました。
それは、私が「簡易裁判所判事」という特殊な職種で仕事をしていることに由来するのかもしれません。もちろん、簡易裁判所判事も他の判事、判事補と同様「裁判官」であることに違いがないのですが、やはりその任命資格や選考方式には大きな違いがあり、私は常に「裁判官らしく」あらねばと思いながら、もう随分と長い間、この仕事をしてきました。
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)。
ここにいう「良心」とは何かについて、主観説と客観説の対立があると学生時代に憲法の講義で習った記憶は微かにありますが、私は正直なところ、今もよくわかっていません。ただ、この良心が「裁判官としての良心」であって、この職業を離れた個人的なものではないことは、この条文の位置や前後の文脈から何となく理解できます。
そうすると「裁判官」という職業とは何か、その良心とはいかなるものかを考えざるを得ないわけですが、これがなかなか難物です。裁判官の良心をわかりやすく説明してくれる文献がないものか、自分は裁判官自身の書かれたものが一番、参考になるのではないかと思って、いろいろと探して読んでみたり、裁判官倫理に関する本を読んだりしてみたのですが、どうもしっくりきません。この条文は、アメリカ由来のものなので、アメリカでは、どうなっているのかと思って検索してみたところ、「新任裁判官のための十戒」というものがあって、これは意外とわかりやすいので、私は毎年、期日簿の裏表紙に張り付けています。
https://www.law.tohoku.ac.jp/lawschool/lawmm/vol9.html
結局、この「裁判官の良心」という言葉の「良心」はともかく、「裁判官の」という限定語句が「客観的」かどうかという点が問題ではないかと思います。実は「客観的」といいながら、それを可視化したものはなく、なんとなく、それぞれの裁判官自身が勝手に作り上げた「裁判官」像こそが「客観的」であると多くの人が思っていて、しかも、そのことを公に口に出して議論しない風潮が、これまた「裁判官らしい」「裁判官の良心」とされているように思います。
最近、IT化に伴い、私の前職であった裁判所書記官の職務内容が大きく影響を受けるようで、組織として「裁判所書記官とは何か」を議論するよう求められたことがありました。私は、職場でのその議論を聞きながら、じゃあ「裁判官とは何か」をずっと考えておりました。
いつの間にか、そうした青臭い議論は遠ざけられ、日々の事件をどううまく処理するか、難しい案件をどう判断したか、判決書をどう書くか、裁判所組織全体はどうか、未済事件数はどうかなどといったことばかりが議論されるようになっているのではないかと思います。そうした問題も大変重要な問題でしょうが、それと同様に、裁判官とは何かは議論に値する重要な問題ではないでしょうか。
私は、憲法がわざわざ、裁判官の職務執行において「良心」ということを持ち出したのは、その権限の大きさ(法律はもちろん、憲法の解釈権まで付与されている)、そしてその責任の重大さから、常に自分は何ものであるかを、その良心とは何かを日々の仕事をしながら考えなさいと言っているように思います。