日本裁判官ネットワークブログ
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1 前回の「交通事故と運転免許の更新の話など」(その2)に書いた内容に誤りがあることが分かったので,訂正しておきたい。刑務所においては,社会に復帰した場合に備えて,服役中の受刑者に対する運転免許の失効を防止する対策が講じられているとのことである。弁護士が面会するのは,多くの場合まだ刑が確定する前の刑事被告人のことが多く,このような対策が講じられていることが分からなかったということのようである。

2 私の運転免許は二度失効しているが,いずれも裁判官時代の多忙が原因で,免許の更新手続きをする時間的余裕がなかったものであり,うっかり忘れていたということではない。私は大学在学中の昭和40年1月に最初の運転免許を取得したが,マイカーを所有するようになったのは昭和56年のことであり,それまでは完全なペーパードライバーであった。その後二度,妻の運転で運転免許センターへ連れて行って貰い,免許更新の手続きをしたが,正当な理由のない更新手続きの懈怠であったため,免許は失効し,新規取得となったものであるが,実技と学科試験は免除された。

3 裁判官の中には,運転免許を有しており,マイカーの所有者でもあるのに,全く運転しないという人は案外多い。交通事故を起こすと種々問題となるので,それを避けるために,奥さんの運転に任せている場合が多いのである。そのような裁判官の中には,免許の有効期限が到来したが,どうせ乗らないからと,免許の更新手続きをせず,失効させてしまったという人が何人もいる。

4 これは笑い話であるが,ある裁判官が少年保護事件の審判をしたときのことである。その少年は,運転免許の更新を忘れて無免許となっていたのに,それを知りながら運転したということで,無免許運転罪で検挙された。他にもいくつかの非行があったようである。その裁判官は,運転免許の更新を怠ったことや無免許であることを承知の上で運転したことを非難し,社会のルールをキチンと守るように,少年に対して厳しく説教をしたというのである。そして審判を終えて執務室に帰り,ふと自分の運転免許はどうなっているかなーと,何気なく運転免許証を取り出して見たところ,思わずギョッとした。それはその裁判官の免許は数日前に有効期限が経過していたというのである。幸い宿舎から裁判所まで自転車で通勤していたので,その間無免許運転はしていなかったそうであるが,危うい話ではある。

5 色々と多忙な人は,何かと忘れ易いことになるから,なすべきことを綿密に記載したノートを作成し,忘れたりすることなく淡々となすべきことが処理されてゆく高性能な日常生活のシステムを工夫することが大切だといえようか。運転免許の更新手続きを忘れないためにも,手帳か期日簿に記載しておくのである。記憶で処理しようとすると,必ずいつかミスをすることになる。(ムサシ)


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 最近,裁判員裁判をにらんでビジュアルな立証が必要ということで,大型スクリーンに残虐な写真を写した検察側立証が問題となっています。

 裁判員裁判になっても,否認事件などで現場写真を見なければならない場合があることは否定できません。現場写真が真実を語ることが多いからです。しかし否認事件の真相を解明したいとの強い意欲があれば,その写真の残酷性はあまり気にならない場合が多いと思います。

 これに対し,犯行自体は認めている事件で,遺体写真などがどれくらい必要かはかなり疑問です。裁判には想像力も必要です。残虐な写真を見なければ残虐性を判断できない,とはいえません。裁判員に不必要な負担を課さないためにも,公判前整理手続でその必要性について,三者が十分な議論をすべきでしょう。

 特に,犯行再現写真やビデオは全く必要性がありません。これは捜査官の描いたイメージを被告人に再現させたもので,いわぱ供述調書とおなじものです。
 この点で真実を語る現場写真とは全く証拠価値が異なります。
 しかも過去に終わった犯行を,あたかも目の前でおこなわれているかのような錯覚を与える点で有害ともいえます。捜査官のイメージを裁判員に植え付けてしまうという意味で,その有害性は供述調書に優るともいえます。このような立証は裁判員裁判では基本的に許されないと思うのですが,どうでしょうか。

              模擬裁判員裁判の主任弁護人をする予定の「花」     



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1 先頃依頼者から運転免許の更新について相談を受けたが,よく分からず,いろいろと調査した。私も知らなかったことがいろいろと分かり,多くの人も知らないに違いないし,知れば役に立つと思われるので,纏めてみることにした。

2 長期間外国に出かけたり,災害や服役,日頃車の運転をしないために運転免許の更新を忘れたりなどで,運転免許の有効期限が経過し,免許の更新ができないことがある。多くの人はそのような場合に免許を失効させることが多いのではあるまいか。運転免許更新のために刑事裁判中の被告人の保釈を申請したとしても,裁判所が保釈を認めるとは思えない。

3 調べた結論はこうである。有効期限が切れた場合の手続きは細分化されており,やや面倒であるが,救済される場合が案外多いということになる。
(1)運転免許の有効期限が切れて6か月以内で,やむを得ない理由がある場合。
   海外旅行,災害,服役等一定のやむを得ない理由があり,それを証明する書類(パスポートや診断書,刑務所の「在所証明」など)を提出できる場合には,学科試験と技能試験が免除されて,適性試験(視力検査等)と講習を受けることで,免許証の再取得ができる。免許は継続していたとみなされる。

(2)有効期限が切れて6か月以内で,やむを得ない理由がない場合
  (1)の書類を提出できない場合もこれに該当する。この場合は免許の更新はできず,新たに免許試験を受けることになるが,学科試験と技能試験が免除され,適性試験(視力検査等)と講習を受けることで免許の再取得ができる。免許は継続せず,新規取得となる。

(3)有効期限が切れて6か月を超えているが3年以内で,やむを得ない理由がある場合
   やむを得ない理由がなくなった日から1か月以内であれば,学科試験と技能試験が免除され,適性試験(視力検査等)と講習を受けることで免許の再取得ができる。1か月以内に手続きができない場合には,学科試験と技能試験も免除されず,新規取得するほかない。

(4)有効期限が切れて3年を超えた場合。
   改めて新規取得する以外にはない。

4 おそらく以上のとおりである。この結果を依頼者に伝えたところ納得していた。以上の結果を知っておくと役に立つ場面は案外多いと思われる。私の依頼者の場合も救済されることになる。もしもこれを知らなければ失効することになったに違いない。警察や拘置所などで身体を拘束されている被疑者,被告人に面会(接見)すると,この様な質問を受けることが多い。これまではよく知らないと答えていた。今後は自信を持って回答できることになる。

5 結論としては最大限3年以内であれば,実技と学科試験を免除されて更新できるという道はあるが,それを超えると実技も学科も含めて試験を受け直して,新規取得する以外には方法はないように思われる。服役などを終えた後で,実技と学科の試験を受け直して免許を新規取得するのは,費用の点からも再び勉強する労力の点からもなかなか困難といえるだろう。

6 運転免許を有することは服役を終えて社会に復帰した場合などの就職に役立つ重要な手段となるものであるし,更生の意欲にも強く影響することになると思われる。運転免許の有効期間を経過して3年以内に更新手続きができない人について,施設内で身体検査と講習を受ける機会を作って,運転免許が失効しないような措置を講ずる意義は大きいと思われるが,そのような制度を実現するためには,法改正や予算措置が必要であろうから,容易なことではないだろう。(ムサシ)


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先日,弁護士として初めての判決をもらいました。執行猶予中の再犯の事案でしたが,幸い再度猶予の判決でホッとしました。いろいろ特殊事情があり私としては当然再度猶予だと思っていましたが,自分で決められない悲しさで,宣告を聞くまでドキドキでした。

本人や母親,雇い主が小躍りして喜んでいる姿が印象的でした。私も一緒に喜んでいたら,相弁護人が冷静に「検察官控訴も無いとはいえないから,本当に喜ぶのは確定してからにしましょう。」と言いました。

なるほど,裁判官は基本的に判決宣告で終わり,という感じですが,弁護士はその後の対策も大切になるのだと,悟りました。裁判官と弁護士の感覚の違いを思い知らされたシーンでした。

                        勉強中の「花」


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 「司法改革をやって本当によかったのでしょうか」と深刻な顔で尋ねられることがある。法曹人口が増えた結果,弁護士からその質問を受ける機会は多いが,複数の法科大学院の教授らからも,最近尋ねられることがあった。それは,法科大学院卒業生の司法試験合格率の問題を中心にして,法科大学院そのものの数や定員などの点で揺れていることが背景にあるのだろうと思われた。

 その質問に対しては,私自身は,少しは迷いを感じつつも「基本的にはYESです。」と答えていた。司法改革への評価は,どのような切り口を考えるかで,論者によって大きく結論が異なるが,今回の司法改革によって,何十年もの間,司法の課題とされていたことがいくつも解決され,又は解決のための取り組みが始まる結果となったことを否定することはできないし,不十分とはいえ,日本社会の変化に対応する司法のシステム作りの基礎ができたことは確かなように思われる。個々の分野で,改革が行き詰まったり,改革の弊害が生じていることはあり得ようが,トータルで見れば,司法改革を積極評価すべきことは疑いようがないと私には思われる。

 そんなことを語らいながら,上記教授らと懇談した際に,司法改革の評価をする際に,是非読んでほしい最近の文献として,日本弁護士連合会の「自由と正義 2008年12月号」の特集「裁判官・検察官の弁護士職務経験」を挙げておいた。裁判官・検察官の弁護士職務経験制度は,キャリア裁判官・検察官に法曹としての豊かな経験を積ませ,経験の多様化を図る制度であり,法曹一元の採用の当否における議論の中から生まれたものである。私も,当ネットのHP(http://www.j-j-n.com/)におけるオピニオン「judgeの目その3 旧裁判官,新裁判官?~裁判官の経験の多様性」で紹介したことがあるが,現在までの成果についての報告が上記特集である。法曹人口や裁判員裁判ばかりが取り上げられることが多く(そのことの重要性はもちろん否定しない。),法曹一元の採用の当否が,今回の司法改革の大きなテーマの一つであったことは今では忘れられた感もあり,そのことはとても残念であるが,法曹一元の採用の当否を議論する中で,判事補制度の改革,弁護士任官の推進等,裁判官任命手続の見直し,裁判官人事制度の見直し(透明性・客観性の確保)などが実現したことは,決して忘れてはいけないし,上記のような特集で,実現した改革の成果を地道に検証していくことも重要なことのように思われる。

 ところで,上記特集では,東京弁護士会会員による「弁護士職務経験制度の現状と課題」という総まとめ的な論稿のほかに,弁護士経験をした又はしている判事補の論稿が3つ,同じく検事の論稿が2つ,そして,判事補を受け入れた弁護士事務所の弁護士の論稿が2つ掲載されている。どれも大変興味深い論稿であり,当ブログの読者の皆さんにも是非読んでいただきたい。その中の一つを紹介しておくと,現在,愛知県弁護士会で弁護士経験をしている判事補の論稿に,業務上過失致死事案を担当した経験が掲載されている。弁護人として,犯罪被害者である遺族に謝罪する機会をもったところ,遺影を持参した遺族から弁護士の仕事に疑問を投げかけられたこと,検察官による実刑求刑の中で,被告人から,本当は執行猶予が欲しいであろうのに,仮に実刑でも控訴をしないと告げられて悩んだこと,判決は「禁固3年,執行猶予5年」で,遺族も希望していた実刑ではなかったにもかかわらず,遺族から連絡があり,予想に反して,感謝や許しの言葉をかけられて動転したことなどが記載されている。自分ではとても及第点の与えられる刑事弁護活動ではなかったが,改めて刑事司法の奥深さを教えられたということであるし,法廷外での様々な経験から,法廷で出会うものが全てではなく,関係者が裁判官に言えないことも抱えながら法廷にやってくることを実感したというのである。そして,「再び裁判官として社会と対峙するときには,自分自身の義憤すら突き放し,聴くことに徹する。それこそが,今の自分にとっては必要なのではないか,そう思い始めています。」とまとめている。

 もちろん,いささか大げさな部分もあるのだが,私は,上記論稿を読みながら,「とてもいい経験をしているのではないかと」と少し羨ましい思いを抱くことになった。そうした経験のない従来の裁判官とは異なった想像力を働かせることができるし,経験則の理解も豊かなものになるのではなかろうかと感じさせられた。そうした後輩の中には,法廷に現れていない事情を汲み取ったり,証拠の片隅にあって見過ごすような事情に意味を見出せることがあるのではないかと思う。それが,釈明権の行使や補充尋問などを通じて,真実発見や紛争の解決に繋がることもあるのだと期待される。そして,合議もより豊かなものになるであろう。私は,そういう経験をした後輩の裁判官と是非合議を組んで裁判をしてみたいと心から思った次第である。今後が本当に楽しみである。そして,この制度を支えていただいている弁護士会には,一個人とはいえ,心からお礼を述べたいと思う。

 ただ,弁護士職務経験の制度で,弁護士登録をしたのは,平成17年4月(1期生)から平成20年4月(4期生)までで,判事補39人,検事18人である。まだまだ登録者を増やさなければならないであろう。そのためには,弁護士会の更なる協力が不可欠であるが,前記論稿の中で,裁判官を受け入れた弁護士事務所の弁護士の論稿に「三方三両得」と題して,裁判官の受け入れが弁護士事務所にもプラスが大きかったことを述べて,「弁護士職務経験制度」は「弁護士経験を積んだ裁判官・検事も,これを受け入れた弁護士事務所も,そして,かかる経験を積んだ裁判官・検事が帰任する先の裁判所・検察庁も,それぞれが大きな果実を手にすることができるという,良いことづくめの制度だということである。もちろん最終的にはユーザーたる市民に還元されることとなる」と結んでいるのが心強いところである。今後,東京,大阪,愛知,福岡(今のところ,弁護士登録は,この4つの地域のみである。)以外の地域の弁護士事務所にも是非ご協力をお願いしたい。実益もあるのだから・・・。

 この弁護士職務経験制度の成果が目に見えて出てくるのは,経験者が増えて,日本中の裁判所と検察庁に,経験者が配置されることになったときであろう。その時まで地道にこの制度を伸ばしていきたいものである。「司法改革をやって本当によかったのでしょうか」という質問に,迷いを全く感じることなく「YESです。」と答えるためにも・・・・・。「継続は力なり」と改めて訴えたいところである。(当番である土曜日になかなか投稿できない「瑞祥」)
 

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 森法相がカルデロン一家の特別在留許可を、不法入国をした夫婦については認めないと述べたという。
 これについてカルデロン一家の代理人弁護士渡辺彰悟氏の主張の一部を引用する。
 
 「のり子ちゃんの両親は確かに不法入国をしました。
 しかし,その後15年以上の長きに渡り日本の社会の中で懸命に生き,そして子どもを育ててきました。
 父親であるアランさんは会社で信頼される人間であり,仲間に支えられ,そして職長として日本人の人たちに仕事を教えることのできる立場にある人です。
 確かに,ご両親の入国時の行為は正しくなかった,これはそのとおりです。しかし,入国時の過ちのみによって,現在のこの局面で彼らを退去に追い込まなければならないほどのものでしょうか。日本社会の中で定住してきた彼らを日本社会から引き剥がすことは日本の社会にとって必要なこととは思えません。
 非正規滞在者の資格を正規化するという方法はいろいろとあります。個別事案ごとに判断する手法を日本はとっていますが,諸外国には一定の基準を満たせば,在留資格の正規化を認めるというシステムを用意することもあります。例えば,「7年以上滞在している家族で子どものいる家族に在留資格を与える」というような基準を決めている国もあります。このように多くの場合に見られるのは,やはり子どもを抱えている家庭の保護です。そこに子どもの利益という観点があることはもちろんですが,それだけではなく,非正規滞在者の置かれている労働環境や社会環境の健全化ということが意識されています。長期に非正規滞在者が不健全な環境におかれていることを国が回避しようとする考えです。この考えには非正規滞在者であっても一人の人間であって,その人たちも人権の享有主体であるという考えが通っています。」

 この問題は個人の問題ではなく、日本という国のあり方そのものにかかわる。
 不法入国を水際で防ぐことには困難が伴い、テロリストを含む犯罪者の入国は、どの国にとっても深刻な脅威をもたらす。
 たとえ不法入国者であっても日本で子どもが生まれれば退去を免れるということが通例になってしまえば、これを悪用して生活能力がないのに子どもをもうけたり、子どもがいるような偽装工作を企てたりする不届き者が現れることを予期しなければなるまい。
 現にカルデロン一家と同様な境遇にあって、強制送還の対象とされかかっている不法残留者は、相当な数になるはずだ。千葉県東金市にも、同様な一家がいる。
 しかし日本で生まれ、日本語しか話せない子どもを、著しく不利な環境に追いやることが許される理由は、彼らが日本人ではないこと以外にはあり得ない。
 そういう差別を許さないことを国是とするという選択はないのか。
 世界の経済的に優位にある国で、移民問題、難民問題に悩まされていない国はあるまい。
 島国の日本は、そういう悩みが少ない国ではないのか。
 この不平等な世界が天国と地獄に分かれているとすれば、日本が天国に近いことは確かであろう。
 日本国民が、この列島は先祖代々ここに住む我々だけのためにあると主張し、日本で生まれても親が日本人でない子どもにその権利はないと宣言することはできる。
 それでもイスラエルのように、先祖が住んでいた土地を取り返すと称して、他民族が現に住んでいる土地から彼らを追い出し、自民族中心の国を建てて近隣諸国の憎悪を招くよりは、よほどましであるに違いないが、国際的な尊敬を得るためには、日本で生まれた子どもをその出自によって差別しないと決めた方がいい。
 それが国民のどれほどの負担を要することなのか、あまり掘り下げた議論はされていないと思うが、外からの無法な攻撃に対する有効な防御手段が乏しい日本の安全保障のためにも、そういう投資が役に立つのではないか。
 そう考えれば、この問題は、直接には少数者の利害のみに関するとしても、日本の国家像を左右する問題として、各政党が、あるいは政治家の一人一人が、どんな道を選ぶかを明示すべきことではないか。
 現実にはまだ社民党も共産党も、そういう選択を示してはいないと思われるが、それでいいのか。 (守拙堂)




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1 先日妻と半田山植物園に出かけた。家から車で10分の距離である。土曜日の午後,私が突然「これから半田山植物園に行こうか。」と言うと,妻も行きたいと言う。何年も前から行きたいと思っていたのだそうである。

2 入園料は300円で,私は65歳になると市が送付してくるシルバーカードがあるので無料である。小高い丘になっており,レンガ作りの階段が両側にある。その間がバラ園になっており,大賀蓮池もある。左の階段の途中に脇道があり,そこに小さな石の階段がある。その階段の両脇には階段の頂上まで日本水仙が咲き誇り,水仙の香りでむせるようであった。この水仙の群れを撮影したので,そのうち事務所に飾る写真になるかも知れない。

3 階段の上に梅林があった。50本程度か。白梅がポツポツ咲いていたが,これはまだ写真にはならない。そのすぐ上の所が頂上で,「一本松古墳」という立札があった。標高89メートルとある。どうやら前方後円墳のようである。市街を一望できる。そのすぐ裏側に背の高いドウダンツツジの並木道があり,通り抜けとなっている。花の季節には見事な写真ができそうである。

4 ドウダンツツジの並木道を抜けて,しばらく快い山道を歩く。そして右側の階段の方向に少し下りると巨木のサザンカの林があった。すでに花は終わりかけていた。そのすぐ下の所に椿の林がある。ここはまだ花は咲いておらず蕾であった。サザンカも椿も写真は撮影できなかったが,いずれ見事な花の写真を事務所に飾る時が来るだろう。驚いたことにサザンカも椿も全て白である。しばし花の色談義が続いた。

5 妻は何十年か前の開園のころの園長に,何か悲しい出来事があって白の花を集めたに違いないという。確かピカソに「青の時代」という作品があるが,恋人を失ったのであったかよく覚えていないが,ピカソが悲しみの思いで青い絵を描いたのと同じではないかというのである。私は「さざんかは すべて白なり 銀閣寺」の俳句を気に入った園長が,それを真似たに違いないと主張したが,いずれも他愛ない戯れ言に過ぎない。

6 そんなことを話しながらしばらく歩いていると,どこかでコツコツと音がする。立ち止まって見上げると,大きな木の枝の下側部分にぶら下がるようにチラチラと動く影がある。妻は得意そうに,「あれはコゲラよ。」と言った。キツツキの一番小さいものだというのである。ある場所の大きな樹木にコゲラがよくやって来るのを知っているのだそうである。小さな双眼鏡と野鳥の本まで買い込んでよく観察していると自慢そうに言った。双眼鏡を持ってくればよかったなどと話していると,首に小さな双眼鏡をぶら下げたお婆さんが近づいてきて,「あれはね,コゲラというキツツキですよ。」と嬉しそうに教えてくれた。「よくお出でになるんですか。」などとしばし会話が続いた。この次は双眼鏡を持ってくることになった。私も小型双眼鏡を買うことにした。生まれて初めてキツツキの実物見て,少し感動した。

7 残念ながら,お目当ての猫柳とふきのとうは見つからず,写真が撮れなかった。でもこの植物園がとても気に入った。入園料4回分の1200円で年間パスポートを売っていたので,妻にプレゼントした。ハイキングコースとしてこれまでの「操山(みさおやま)」と「竜(たつ)の口」に,「半田山」を加えることになった。2週間に1回のペースで順次ハイキングをしようと約束した。ハイキングの時は私が得意とする「特製おにぎり」と「漬物」の手製弁当を作って持参することにしよう。弁当とお茶とカメラと双眼鏡ということになると,やはりリュック姿になりそうである。また人生を楽しくする材料が一つ増えたという思いがして嬉しい。(ムサシ)



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 去年、asahi.comに出ていた記事からの引用なので、間違いがないとも限らないが、当時、実施を目前に控えていた韓国の国民参与裁判について、次のように紹介している。
 日本の裁判員法とは、
 ① 殺人や強盗などの重大犯罪を巡る刑事裁判の一審が対象
 ② 裁判に参加する人が国民から無作為で選ばれる
という点で共通しているが、
 ③ 評議は陪審員だけで始めるが、全員一致にならなかったら裁判官が加わる
 ④ 評決は陪審員だけで出すが、裁判官はその評決と違う判決を言い渡すことが   できる
 ⑤ 被告人が、国民参与裁判か、裁判官だけによる裁判かを選択できる
とする点では、大きな違いがあると思われる。

 この記事によると、当時、韓国最高裁は、対象になる裁判件数は年間4千~5千件あるが、被告は不面目を避けたがって、一般市民の参加を望まないだろうから、実際に開かれる国民参与裁判は100~200件程度にとどまると予想していたそうだ。
 その後これまでに、実際にどれほどの件数が参与の対象とされたのか、まだ情報を探していないが、わが国でも上記の⑤の点にある被告人の選択権が認められるのであれば、現在の規定よりは、かなり受け入れやすくなると思う。
 韓国の司法制度については、死刑が廃止されるのかという点が、われわれにとって国民参与の点以上に、大きな影響を及ぼすであろう。
 今、韓国では大勢の女性を殺害した凶悪犯の量刑が社会を二分する論争の的となっているようであり、これまで裁判所は死刑の選択をやめていないが、その執行は久しく行われていなかったことに対し、執行の再開を要望する声が強まっているらしい。世界の大勢が死刑廃止に向かっているという議論に対し、私は共感を持ちにくく、むしろ、被害者が一人であっても常に死刑を避けるべきではないと訴えたい。その点では、最近の検察が被害者遺族の癒されない苦痛を強調して、死刑の選択を強く求めようとしている姿勢を評価している。
 従って韓国が仮に死刑を廃止しても、日本がそれに倣うべきだとは思わないが、
死刑廃止国が死刑のある国に対して、犯人引渡しを拒む可能性を考えると、悩ましい問題が生じかねないとは思う。
 そもそも日本の裁判員法は、死刑の選択を極端に避けたがる裁判所に対する不信感の産物であるように思える。
 そうでなければ、量刑を裁判官だけに任せられないと言っているような法律ができるはずがない。
 また裁判員法は、実際に施行される前に、被害者無視を責められるような判決をなくす上で、相当な影響を及ぼした。私の立場からは、それは是認できることだ。
 しかしこれから現実に、裁判員が、ただ法律が一律に裁判員の関与を強制しているからというだけの理由で、死刑事件に引っ張り出され、劇薬とも思える検察官の
立証を突きつけられることには、弊害が生じるに違いないとも思う。 
 無罪を訴える被告人にとっても、たとえば集団毒殺事件のように、犯人に対する処罰感情がきわめて強く、有罪に疑問を持つ裁判員がいても、その表明をためらいはしないかと思われるような事件では、裁判官だけに審理してもらう方がましだと考えることも、大いにあり得るであろう。
 だから、やはり被告人の選択権を排除すべきではない。
 何度繰り返しても暖簾に腕押しだとは思うが。       (山田眞也)


















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日本の裁判員裁判の実際の運用結果の予測について,いろいろ懸念があるといわれています。えん罪が増える,過酷な量刑がなされる,裁判員に精神的トラウマが生じるなどなどです。いまだ戦前の限られた陪審裁判以外に歴史的経験がない制度だけに不安が生じるのはやむを得ないともいえます。しかも実証的説明ができないでけに事前の不安解消はなかなか困難と考えられます。

私はかねてからこの点について,隣国の韓国の国民参与裁判の経過に注目しています。陪審制度といいながらかなり参審制度の要素もあり,国民性も似ていると考えられるからです。

この点について,最近昨年1年の経過を分析した論考が発表されました。刑事法ジャーナル(成文堂)15号65頁以下・今井輝幸「韓国における国民参与裁判の現状」
がそれです。

現職裁判官で韓国語を解する著者が,国民参与裁判の現状と問題点,裁判員裁判への示唆など詳細かつ適切に論述しており,裁判員裁判への賛否両論の方々に是非一読していただきたいと思いました。

私が特に注目したのは,裁判長の最終説示がかなり踏み込んで詳細になされること
,取調の全面可視化が実現しているためか,審理期間がきわめて短いこと,無罪や縮小認定が少なくないこと,裁判官が入って評議する量刑の結果が求刑に比較してかなり軽いことなどです。

1年間で60件とまだ少ない実施例で,韓国内でもまだ課題が指摘されている制度のようですが,市民参加の制度がどのように運用されるかを予測する有益な資料であることは間違いないと感じました。

                      ハングル語のできない「花」


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 人の一生に読める本の量など、所詮、高が知れている。
 いつ余命一年と宣告されても不思議はない年になっては、一冊の本に義理を立てて通読する閑などありはしない。
 それでも、これこれの本を読んだぞと誰かに知ってもらい、できれば少しでも関心を分かち合える相手を求めるよすがとしたいという、はかない期待から、手が届く本のうちで、ここがさわりだと思う部分だけを気ままに取り上げて、思いつきを書き散らしてみる。誰にも読まれなくても、自分ひとりのために書けるうちに書くだけで、気晴らしにはなる。
 ホメロスの「イーリアス」は、むかし晩翠の文語訳で読んで以来、いつか原語で読みたいという願望を抱くだけで、ほかの邦訳本を読み直す意欲はわかなかった。
 ギリシア語を学びたいという気持は、私だけでなく、多くの人が一度は抱く願望らしいが、ほとんど誰もが学習書の100ページも繰らないうちに挫折するようだ。 少なくとも、自分を尺度として判断する限り、そうだと思う。
 代表的なwebsiteの一つ、ARIADNE: Language Lessons には、冒頭に「いくたびか美しく(嘘)燃えつきた、トホホの古典ギリシア語熱…周期性のあるこの病、ネットは最後の"頼みの網"?」という殺し文句が掲げられているくらいだ。
 それでも命があるうちに、イーリアス冒頭の「メーニン アエイデ テア ペーレイアデオー アキレーオス」とか、末尾の「ホース ホイ ガンピエポン タポン ヘクトロス ヒッポダモイオ」とかの一行ずつだけでも、門前の小僧が経を読むように口ずさんでみたいと思う。
 
 世界文学は「怒り」で始まると、以前は思っていた。
 つまり、イーリアス冒頭の単語「メーニン」がそれだ。
 英語、ドイツ語、フランス語などの翻訳でみると、たいてい冠詞がついているようだが、ギリシア語の原典では、なぜか知らないが、いきなり無冠詞で投げ出されているのが、一層強く響くのではあるまいか。
 「愛」を意味する単語で始まってくれればよかったのに、イーリアスは自我に凝り固まった男が誇りを傷つけられたことへの怒りで始まってしまう。
 それがギリシアを源流とする文明の根底に潜み続ける我執を予告するように思える。
 今ではイーリアスよりも先にギルガメシュ王の物語などがあったと知らされているから、「メーニン」が世界文学最初の単語だとは言えないが。

 法曹界で博識をうたわれる元裁判官の倉田卓次さんは、晩翠訳ホメロスの愛読者のようだ。
 「夜の俄かに寄するごと 凄く駈け来るアポローン
  怒りの神の肩の上、矢は戛然と鳴り響く
  やがてアカイア水軍の まともに立ちて鋭き矢
  切って放てば銀弓の 絃音凄く鳴りわたり…」というような迫力は、文語訳でしか生まれないだろう。聖書の口語訳が読むに耐えないと言われるのと同じことだ。
 この「銀弓の絃音凄く鳴りわたり…」という句が、上田敏がホメロスならではの声調の美と称讃した「デイネー デ クランゲー ゲネ タルギュレオイオ ビオイオ」に当たる。たしかに母音豊かなこの句は、吟遊詩人がここぞとばかり力を込めた聞かせどころであったろう。
 「イーリアス日記」(春風社)の著者森山康介氏は、「弓矢の音が聞こえてくる。前半は放たれた瞬間の音、後半は残響だ」と記している。
 しかし、当然のことながら、3000年前のギリシア人が愛誦したイーリアスは、「力は正義なり」とする信仰が何のはばかりもなくまかり通っていたジャングルの時代の産物である。
 トロイ戦争が侵略戦争そのものであることはもとより、物語の中心である英雄アキレウスからして、起句「メーニン」が示すとおりのジコチューの見本であり、己の名誉欲を充たすためには、味方であるアカイア勢のさんざんな負けいくさを願いさえし、親友の弔いにはトロイア方の捕虜を手当たり次第に生贄として殺戮する。ソクラテスはなぜ、こんな男を死を怖れぬ勇者として称賛するだけで、その残忍さを咎めないのかと訝りたくなるが、現代の日本人も赤穂浪士の討ち入りを義挙として賛美することをやめないのと、同じだというべきか。
 今ではこれほどに露骨な力の信仰が、建前としては通用しなくなっただけ、人類は進歩したと、一応は言えるのだろう。 (守拙堂)

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  ある弁護士(元裁判官)の、こんな明快な意見を見つけた(「日々を大切に」tamagoのブログ)。
 「裁判員制度の実施はどう考えても到底無理なのですから,手遅れにならないうちに,一日も早く,撤退のための方策(裁判員制度廃止の立法措置しかないでしょう)を真剣に検討すべきです。」
 私は、裁判員制度を推進しようとする人々の主張には、同感できる点もあり、この制度自体を頭から否定するつもりはないが、その実施については、裁判員の関与を被告人の選択に委ねることを条件とし、さらに被告人は法定刑の軽重にかかわらず、裁判員の関与を選択できる制度にすべきだと、今のところでは思っている。
 一般刑事事件では、争いがある事件であっても、裁判員の関与が冤罪の救済に役立つなどと期待する弁護人は、ほとんどいないと思う。
 逆に、裁判所が迅速な審理を強く求められることから、弁護人の立証は、ますます困難になり、冤罪の救済どころではなくなるおそれが、大いにあるだろう。
 このように、裁判員の関与を求める被告人は、ほとんどいないはずだという私の予想が当たっていれば、被告人の選択に委ねる限り、裁判員の出番はごく例外的にしかないという結果になる。
 これは市民の司法参加ということを旗印にする論者には、受け入れられない結果であろうが、私は今予定されている制度が掲げる市民の司法参加などというのは、誰も求めてはいない苦労をすべての当事者に強い、税金を空費し、裁判員には徒労感を味わわせるだけの結果に終わりかねないと思う。控えめに言っても、メリットがデメリットを超えるとは思えない。

 たとえばこの間、妹を殺害し、遺体を切断した被告人が、犯意を否定するような供述をした事件の審理に、裁判員が加わることに、どんな意味があるだろうか。弁護人は選択の自由が認められれば、おそらく裁判官だけによる審理を望むだろう。 
 また被告人の近親者にしても、家庭内の悲劇を裁判員の目にまでさらしたくはないのが当然であろう。
 たまたま選ばれてしまったことから、これほど悲惨な事件に向き合わされる裁判員は、その経験から何を得ることができるのか。
 なぜ、こんな事件の審理に、一般市民の参加が必要なのか。

 これに反して、誰でも被告人になる可能性がある痴漢事件なら、自分が、あるいは夫や息子が、いつ濡れ衣を着せられるかわからないと思う裁判員の参加は、少なくとも、否認したら半年でも1年でも勾留することをためらわない人質司法に対する、有効な牽制となる可能性があるだろう。
 市民運動に対する取締りが発端となるような刑事事件については、一層、そのことが期待できる。
 しかし、再来年からの実施を予定されている制度では、法定刑が重い事件だけが裁判員の関与を必要とし、被告人にそれを拒む自由はない(これが憲法に違反しないと言えるか、どうか、すこぶる疑問である)。
 法定刑が重い事件については、犯人の処罰を望む国民の要求が切実であるのは当然であり、有罪者を免れさせることに対するおそれは、裁判官にとっても重圧となる。裁判員については、それがさらに著しくなるであろうことは、予見しないわけには行かない。
 陪審制度を採用すれば冤罪がなくなるなどという幻想は、さすがに誰も口にしなくなったようだが、裁判員制度が刑事司法一般の質を向上させるという期待は、おそらく実務家の誰も信じていないのに、いわば空気として立ち込めている。「空気が読めない」ことをとがめるという全く奇妙な風潮に疑問を示さないメディアは、「王様は裸だ」という発言を、なかなか取り上げようとしないが、このままでは、先に待っているのは、「大いなる失望と幻滅」だけではないのか。(山田眞也)
 

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千葉県弁護士会は1月22日に臨時総会を開き、会員433人中の213人が出席して、会員提出の裁判員法の施行延期を求める決議案の採否について討議した結果、賛成121、反対86、棄権4という結果で、決議が成立した。
会則によれば、総会成立に必要な定足数は、会員の3分の1に相当する145名であり、これまで執行部が定足数を充たすために苦労した例もあったようなので、民事専門の会員には、関心がうすいかも知れない議案のための臨時総会に、それだけの参加が得られるかどうか、ひそかに危ぶんでいたが、半数近くの会員が出席して、熱のこもった議論の末、有効な表決に至ったのは、さすがにこの問題では、あなた任せ、どっちでもいいという無関心派が、懸念したほど多くはないことを示しているように思われた。
もっとも、業務の予定がすでに入っているなどの理由で総会に出られなかった会員も、かなりいたであろうし、そのほかにも、法の施行期日が間近に迫っており、最高裁も日弁連執行部も、国民の気乗り薄にかかわらず、まず実施してから問題点があれば見直そうという構えを変えていないことからして、今さら延期を求めるほどの理由は乏しく、その効果もあるまいという判断から、総会に参加しなかった人々が少なくなかったであろうと推測でき、そういう人々を無関心派扱いすべきではなかろう。
 とにかく、定足数は大幅に上回る出席が得られ、その人数を基準とすれば6割近くの多数が決議案に賛成したことは、決議を求める立場からすれば、まずは成功であったと言える。
 欲を言えば、総会の定足数145を上回る賛成があれば、なおよかったが、それには及ばなかったので、もし反対意見の会員が、全員で総会にそっぽを向いて帰ってしまえば、総会そのものが流れてしまうところだったが、反対派もそういう姑息な手段は選ばず、その限りで決議の成立に協力してくれたことになる。
 延期を非とする発言の多くは、裁判員法の欠陥は認めるが、職業裁判官のみによる絶望的な刑事裁判の現状を打開するには、裁判員が参加する裁判をとにかく実現する以外に道がないとする意見であり、冤罪の救済に力点を置く論旨が多かったと思うが、それならば被告人が無実を訴える事件のすべてについて、裁判員の関与を可能とすべきであるはずなのに、重大事件のみを一律に裁判員対象事件と定めるのでは、どんな罪種についても例外的にしかない無罪主張事件に裁判員が関与することは当然稀になる上に、国民に求め得る司法への協力に限界がある以上、裁判員法が、いわば一方的に押し付ける対象事件以外に、その範囲を広げる改正の可能性は予め封じられているに等しく、窃盗や詐欺で無実を訴えている被告人が、この制度によって活路を見出せることはあり得ない。
  要するに裁判員法には冤罪を減らすという立法目的はないことを、なぜ認識しないのかという疑問がわいた。
  一方、延期を求める発言者の意見には、裁判員の負担を軽くするという要請が重視される結果、弁護人の立証が制限されすぎ、実質的に現行の裁判よりも被告人の不利に帰するおそれが著しいとする指摘が多かった。
  私個人は、どちらかと言えば被告人の利益が侵されるという心配よりも、裁判員に選ばれる国民が、ほとんど実益のない苦労を強いられることの方を重視していたが、弁護士にとっては弁護活動が制限されることの危惧の方が、強い説得力を持っていたに違いない。
  こうして法実施の延期を求める要望が千葉県弁護士会の意思として表明されたが、それがどれほどの実効を持つかは、まだわからない。
  私は昨年秋以来、国会内で法の見直しを促す動きが現れたことから、その実現を期待していたが、麻生政権が総選挙の日取りを先送りし続けている結果、直接政局に結びつかない裁判員法の見直しが議論される環境は生まれず、日弁連の宮崎執行部も、依然として面子と行き掛かりにこだわるだけで、裁判員問題にも弁護士増員問題にも、責任を持って取り組む意欲を示さず、どうせ行き詰まる前に任期が終るくらいにしか考えてはいないように見える。
  まじめな国民は、裁判員の仕事には法律知識は要らず、たいていの事件は三日以内で終るという類の無責任な広報活動を信じて、法が義務として課することであれば受け入れようという姿勢を示しているようだが、法がこのまま実施されれば、現実がそう甘くはないことに、間もなく気づくだろう。
  確かに事件の多くは、三日以内の審理で終るかも知れないが、そもそもそのような事件の審理に国民が加わることに、どんな実益が期待されるのであろうか。
  模擬裁判では強盗殺人を犯した少年の事案も取り上げられ、家裁調査官の報告書の取り扱いをめぐって、難問が生じることが認識されたと報じられているが、そういう事件を無差別に裁判員対象事件とすることによって、誰のために、どんな実益が期待できるのか。
  裁判員制度に意義を与えるためには、特定の罪種に属する事件を無差別に裁判員対象事件とすることは避けなければなるまい。
  私は、むしろ被告人が望む限り、できるだけ広い範囲で裁判員の関与が可能になる法制を目指すべきだと思う。
  最高裁は絶対にいやがるに決まっているが、横浜事件の再審公判のような場合にも、裁判員の関与を求められる制度にすべきである。
  この事件は、実は裁判所自体が当時の治安維持法を前提としても是認できないような冤罪を被告人に押し付け、さらに敗戦後その公判記録を廃棄するという卑劣な手段に訴えてまで、裁判所の責任を闇に葬ろうとした点で、現在なお裁判官が公正な態度で被告人らの遺族の訴えに耳を傾けることが困難な事案と言える。
  たしかに治安維持法が廃止された現在、免訴の判決しかあり得ないとする論理は、覆しがたいように見える。
  しかし、裁判所自体の責任が問われるべき、この特殊な事案において、その責任逃れを可能にする、そういう形式論理を許していいのか。
  判例至上主義、実定法万能主義に安住することが骨がらみの習性となり、有能な官僚として出世コースを歩む裁判官に、免訴という形式論理上明白な結論に飛びつくなと言っても無理であろう。
  こういう事案にこそ、裁判員が出る幕があっていいのではないか。
  裁判員法を歓迎する論者の間でも、誰かが私のこういう主張に理解を示してくれることを望みたい。(山田眞也)
 (追記 栃木県弁護士会が、裁判員法の抜本的見直しと、それまでの実施延期を求めた2008年5月24日付決議からの引用)

  「この制度は、刑事裁判の根本を変質させる契機を多く含んでおり、このままでは公平な裁判所で裁判を受ける権利がないがしろにされる可能性が大きい。
  その典型は、部分判決制度である。
  裁判員の負担の軽減のために導入されたこの制度は、審理に関与しない事件についても裁判員の判断を求めるものであり、被告人に対しては、そのような裁判員が加わった裁判を強制するものである。

  同様のことは更新手続にも表れている。
  審理を最初からやり直すことが保障されていない更新手続は、審理の一部しか知らない裁判員による裁判と同じであり、到底、公平な裁判所ということはできない。
  また、この制度は、公判前整理手続と一体となって実施されるものであるが、同手続は、その手続終了後は、もはや新規の証拠の提出を認めないことを原則とする刑事訴訟法316条の32の規定の存在を含め、防御権、弁護権を侵害する危険が内包されており、徹底した審理とその上に立った公正な判断が実現される裁判とはならないものである。」
  たしかに部分判決制度などは、あまりにも無理というほかはない。
  これに対する反論は、誰にもできまいし、おそらく誰もしていないと思う。



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1 この数年の間に交通事故や運転免許の更新などをめぐって,役に立ちそうな知識やノウハウが少し蓄積できたように思う。これらを整理してこのブログに載せると,参考になったとか,助かったという人が出てくるかも知れない。弁護士などの法律実務家からほんのちょっとしたアドバイスを受けることで助かることも多いに違いない。法律の実務家は,職務上様々な日常生活に役に立つ知識やノウハウを蓄積できるのであるから,それらをもっと社会的に有益に活用する必要があると思う。私はこれまでそのような知識やノウハウをできるだけ親族や友人などに伝える努力をしてきたが,十分とは言えない。俗に友人に医師と弁護士と僧侶がいると何かと役に立つと言われるが,身近に法律の実務家がいることのメリットを実感してもらえるように,一層努力したいと思うのである。

2 ある時知人が運転中に,夜横断歩道でない所を横断中の歩行者を撥ねるという人身事故を起こし,被害者が骨折して入院したため,刑事処分や損害賠償,免許取消処分などがどうなるか,心配な事態となった。私はその知人から相談を受けたが,聞いてみると被害者の過失が大きい。私は以前ある弁護士から聞いていた話を参考にして,すぐに詳細な交通事故の状況報告書を作成して,公証役場に持参し,確定日付を得ておくようにと知人にアドバイスした。事故直後に作成した文書であることの証明付きであるから,記憶も正確であるし,信用性も高く,必ず役に立つと伝えた。

3 知人は早速翌日,事故とほぼ同時刻に,カメラと巻尺を携えて事故現場に出かけ,現場の写真を沢山撮影し,片側何車線かとか,車の交通量,横断歩道の有無と位置,信号までの距離などを確認し,巻尺による距離の測定などもして,メモを取ったそうである。

4 そして知人はパソコンで詳細な事故状況報告書を作成した。客観的な事実ではあるが,自分に有利な事情を詳細に記載したということであった。
 事故の態様を詳細に記載したほか,運転当時食事をしておらず,勿論飲酒もしていなかったこと,長年の運転免許歴があるが,人身事故は初めてであること,被害弁償については上限無制限の任意保険に加入していることなども記載したそうである。

5 以上のような詳細な事故報告書を作成し,確定日付を取り,取調べの呼び出しを受けた際,予め検察庁にそのコピーを提出しておいたとのことであった。そしてこの報告書のお陰と思われる経過で不起訴処分となり,損害賠償問題も無事解決し,免許についても講習を受けただけで,免許の取り消し等の処分を受けることはなかったそうである。

6 かくして知人の人身事故騒動は無事解決したが,いずれにしても事故直後に作成した事故状況報告書が絶大な威力を発揮したことは間違いないということで感謝された。事故の状況としては,自分に不利な場合もあるだろうが,事故状況報告書を作成しておくと,客観的な事実を超えて不利益な結果となることを防ぐ作用をしてくれることになる。

7 私はこの話を家族や多くの友人などにも話した。万一の場合には直ちに正確な事故状況報告書を作成し,確定日付を得ておくようにと,今も機会あるごとに勧めている。なお物損事故の場合には,特別な場合を除き事故報告書の作成は必要ないかも知れない。(ムサシ)



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所属弁護士会からの依頼で三庁の模擬裁判員裁判の主任弁護人を引き受けました。
昨年までは模擬裁判員裁判の裁判長をしたりしていましたので,いささか戸惑いながらも,張り切っています。

事件は傷害致死事件で,被告人は酔っていて良く覚えていないものの,いくつかの状況証拠がある事案です。

弁護団会議では,若い弁護士たちと,どう争うか,情状の主張はするのかなど激論を闘わしたあと,状況証拠の不十分さを指摘して無罪主張を貫くことに一致しました。

弁護側の主張予定書面は,検察側の主張する状況証拠がいずれも被告人を犯人と断定するには疑問が残る内容であると,各論点ごとに簡潔に指摘したうえ,被告人以外の犯人の存在の可能性を指摘するものにしました。

今日は第1回の模擬公判前手続きがあり,検察官がどう反論するか楽しみにしています。

模擬とはいえ,裁判員に無罪を説得できるようにいろいろ努力しようと思っています。

                        変わり身の早い「花」

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 昨日のネットの名古屋例会は,大成功でした。近日中にネットのHPに報告が出ますので,ご覧下さい。
 ところで,今もファンの多い亡尾崎豊さんのお兄さんが,現役の裁判官なのですが(昨年の9月6日欄参照),そのお兄さんが,昨日のネットの例会及び懇親会に参加して下さいました。ご本人の承諾を得て,掲載させていただきます。昔から亡尾崎豊さんの大ファンの私は,お兄さんに,懇親会で弟さんの思い出話を聞き,ファン冥利につきました。
 2次会では,2人で代表曲「卒業」を一緒に歌いました。いや,まさか,こんな経験ができるとは思ってもみませんでした。周囲から,「ホントに嬉しそうやね」と言われて赤面してしまいました。お兄さんは,他の曲も歌われましたが,声を上げるところが,弟さんに似ていて,私はファンの一人としてしびれてしまいました。
 お兄さん,ありがとうございます。心から感謝いたします。ずうずうしくてすいませんでした。これに懲りずに,ネットの例会にまたご参加下さい。(瑞祥)

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