千葉県弁護士会は1月22日に臨時総会を開き、会員433人中の213人が出席して、会員提出の裁判員法の施行延期を求める決議案の採否について討議した結果、賛成121、反対86、棄権4という結果で、決議が成立した。
会則によれば、総会成立に必要な定足数は、会員の3分の1に相当する145名であり、これまで執行部が定足数を充たすために苦労した例もあったようなので、民事専門の会員には、関心がうすいかも知れない議案のための臨時総会に、それだけの参加が得られるかどうか、ひそかに危ぶんでいたが、半数近くの会員が出席して、熱のこもった議論の末、有効な表決に至ったのは、さすがにこの問題では、あなた任せ、どっちでもいいという無関心派が、懸念したほど多くはないことを示しているように思われた。
もっとも、業務の予定がすでに入っているなどの理由で総会に出られなかった会員も、かなりいたであろうし、そのほかにも、法の施行期日が間近に迫っており、最高裁も日弁連執行部も、国民の気乗り薄にかかわらず、まず実施してから問題点があれば見直そうという構えを変えていないことからして、今さら延期を求めるほどの理由は乏しく、その効果もあるまいという判断から、総会に参加しなかった人々が少なくなかったであろうと推測でき、そういう人々を無関心派扱いすべきではなかろう。
とにかく、定足数は大幅に上回る出席が得られ、その人数を基準とすれば6割近くの多数が決議案に賛成したことは、決議を求める立場からすれば、まずは成功であったと言える。
欲を言えば、総会の定足数145を上回る賛成があれば、なおよかったが、それには及ばなかったので、もし反対意見の会員が、全員で総会にそっぽを向いて帰ってしまえば、総会そのものが流れてしまうところだったが、反対派もそういう姑息な手段は選ばず、その限りで決議の成立に協力してくれたことになる。
延期を非とする発言の多くは、裁判員法の欠陥は認めるが、職業裁判官のみによる絶望的な刑事裁判の現状を打開するには、裁判員が参加する裁判をとにかく実現する以外に道がないとする意見であり、冤罪の救済に力点を置く論旨が多かったと思うが、それならば被告人が無実を訴える事件のすべてについて、裁判員の関与を可能とすべきであるはずなのに、重大事件のみを一律に裁判員対象事件と定めるのでは、どんな罪種についても例外的にしかない無罪主張事件に裁判員が関与することは当然稀になる上に、国民に求め得る司法への協力に限界がある以上、裁判員法が、いわば一方的に押し付ける対象事件以外に、その範囲を広げる改正の可能性は予め封じられているに等しく、窃盗や詐欺で無実を訴えている被告人が、この制度によって活路を見出せることはあり得ない。
要するに裁判員法には冤罪を減らすという立法目的はないことを、なぜ認識しないのかという疑問がわいた。
一方、延期を求める発言者の意見には、裁判員の負担を軽くするという要請が重視される結果、弁護人の立証が制限されすぎ、実質的に現行の裁判よりも被告人の不利に帰するおそれが著しいとする指摘が多かった。
私個人は、どちらかと言えば被告人の利益が侵されるという心配よりも、裁判員に選ばれる国民が、ほとんど実益のない苦労を強いられることの方を重視していたが、弁護士にとっては弁護活動が制限されることの危惧の方が、強い説得力を持っていたに違いない。
こうして法実施の延期を求める要望が千葉県弁護士会の意思として表明されたが、それがどれほどの実効を持つかは、まだわからない。
私は昨年秋以来、国会内で法の見直しを促す動きが現れたことから、その実現を期待していたが、麻生政権が総選挙の日取りを先送りし続けている結果、直接政局に結びつかない裁判員法の見直しが議論される環境は生まれず、日弁連の宮崎執行部も、依然として面子と行き掛かりにこだわるだけで、裁判員問題にも弁護士増員問題にも、責任を持って取り組む意欲を示さず、どうせ行き詰まる前に任期が終るくらいにしか考えてはいないように見える。
まじめな国民は、裁判員の仕事には法律知識は要らず、たいていの事件は三日以内で終るという類の無責任な広報活動を信じて、法が義務として課することであれば受け入れようという姿勢を示しているようだが、法がこのまま実施されれば、現実がそう甘くはないことに、間もなく気づくだろう。
確かに事件の多くは、三日以内の審理で終るかも知れないが、そもそもそのような事件の審理に国民が加わることに、どんな実益が期待されるのであろうか。
模擬裁判では強盗殺人を犯した少年の事案も取り上げられ、家裁調査官の報告書の取り扱いをめぐって、難問が生じることが認識されたと報じられているが、そういう事件を無差別に裁判員対象事件とすることによって、誰のために、どんな実益が期待できるのか。
裁判員制度に意義を与えるためには、特定の罪種に属する事件を無差別に裁判員対象事件とすることは避けなければなるまい。
私は、むしろ被告人が望む限り、できるだけ広い範囲で裁判員の関与が可能になる法制を目指すべきだと思う。
最高裁は絶対にいやがるに決まっているが、横浜事件の再審公判のような場合にも、裁判員の関与を求められる制度にすべきである。
この事件は、実は裁判所自体が当時の治安維持法を前提としても是認できないような冤罪を被告人に押し付け、さらに敗戦後その公判記録を廃棄するという卑劣な手段に訴えてまで、裁判所の責任を闇に葬ろうとした点で、現在なお裁判官が公正な態度で被告人らの遺族の訴えに耳を傾けることが困難な事案と言える。
たしかに治安維持法が廃止された現在、免訴の判決しかあり得ないとする論理は、覆しがたいように見える。
しかし、裁判所自体の責任が問われるべき、この特殊な事案において、その責任逃れを可能にする、そういう形式論理を許していいのか。
判例至上主義、実定法万能主義に安住することが骨がらみの習性となり、有能な官僚として出世コースを歩む裁判官に、免訴という形式論理上明白な結論に飛びつくなと言っても無理であろう。
こういう事案にこそ、裁判員が出る幕があっていいのではないか。
裁判員法を歓迎する論者の間でも、誰かが私のこういう主張に理解を示してくれることを望みたい。(山田眞也)
(追記 栃木県弁護士会が、裁判員法の抜本的見直しと、それまでの実施延期を求めた2008年5月24日付決議からの引用)
「この制度は、刑事裁判の根本を変質させる契機を多く含んでおり、このままでは公平な裁判所で裁判を受ける権利がないがしろにされる可能性が大きい。
その典型は、部分判決制度である。
裁判員の負担の軽減のために導入されたこの制度は、審理に関与しない事件についても裁判員の判断を求めるものであり、被告人に対しては、そのような裁判員が加わった裁判を強制するものである。
同様のことは更新手続にも表れている。
審理を最初からやり直すことが保障されていない更新手続は、審理の一部しか知らない裁判員による裁判と同じであり、到底、公平な裁判所ということはできない。
また、この制度は、公判前整理手続と一体となって実施されるものであるが、同手続は、その手続終了後は、もはや新規の証拠の提出を認めないことを原則とする刑事訴訟法316条の32の規定の存在を含め、防御権、弁護権を侵害する危険が内包されており、徹底した審理とその上に立った公正な判断が実現される裁判とはならないものである。」
たしかに部分判決制度などは、あまりにも無理というほかはない。
これに対する反論は、誰にもできまいし、おそらく誰もしていないと思う。
| Trackback ( 0 )
|