日本裁判官ネットワークブログ
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1 先頃当地の法科大学院の司法試験の合格祝賀会をわが家で開催した。 合格者13人のうちの12人とわが事務所でエクスタンシップを行った3年生の法科大学院生1人とわが夫婦との総勢15人であった。妻は教授として,私は非常勤講師として教鞭を執っているのである。大いに盛り上がって楽しかったし,参考になった。

2 合格者には全員好きに喋ってもらったが,合格するためにどのような勉強方法の工夫をしたのか,将来の志望,趣味などを盛り込むことを求めた。合格者の勉強方法を聞いて次の学年の参考に生かそうというものである。

3 学生が授業の準備にどの程度の重点を置くかは大きな論点である。授業の予習をしないと授業が分からず,90分が無駄になるようでは困る。しかし実力がつくのはむしろ復習であるように思われる。徹底して予習するべきという人と準備はそこそこにするべきという人に意見が分かれた。

4  徹底して予習するべきという人は,旧司法試験時代から勉強しており,基本法の勉強がある程度できている人であった。授業の予習に時間を割いて,授業を中心に勉強することで力がついたと感じているようであった。これは一理ある納得できる意見である。ただし予習は時間がかかるし,勉強の効率としてはよくないと言える。

5 他方で旧司法試験時代の受験経験がなく,憲法,民法,刑法の基本法の勉強がまだ不十分な人は,授業の予習だけに力を入れると,基本法の勉強不足を解消できないという不安を感じるようであった。授業の予習もある程度して,授業について行けるようにするが,復習もし,また基本法の勉強もしたいということであった。

6 勉強方法の各自の工夫として,役に立つメモ,レジュメを作ったことが大変よかったという人がいた。メモの作成作業により頭が回転するようになり,勉強が面白くなったと述べていた。ずっと昔私が合格した時も,実践的で役に立つレジュメを作成したことで,飛躍的に力が伸びたという実感があるので,この意見には共鳴した。レジュメは各科目で2センチ位になったと述べていた。この合格者が作成したレジュメを参考に活用できないか,検討しようと思っている。

7 復習により力がつくので,復習が大事であるという意見もあった。覚えなければならないが,覚えようとするだけダメで,なぜなのかと考え,理解することの両方が必要であるとの意見もあった。

8 将来の志望として,社会に役に立つ法曹になりたいという意欲を示した合格者が多くて,とても頼もしく,嬉しく思った。今回の祝賀会の合格者の意見を参考にして,是非合格者を増やすために役立てようと思った次第である。(ムサシ)


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 NHKのHigh Vision で、「華麗なる宮廷の妃たち ― 西太后 ― 」を見て、独裁権力を握り、「垂簾聴政」を布いていた西太后が、日々決裁を求めて山積する案件の中から、ある刑事事件の一件記録に目をとめ、「この裁判はおかしい。調べ直せ」と命じた結果、妻が隣人と密通し、共謀して夫を毒殺したとして、死刑を宣告されていた男女二人の罪が無実と認められ、大勢の役人たちが裁判を誤った責任を問われて処罰されたという話が出てきたことに、本当かと驚いた。
 危うく死刑を免れた女は、通称小白菜、本名畢秀姑、巻き添えにされかけた隣人の男は楊乃武で、小白菜の夫は病死していたのに、毒殺を疑った官憲が残酷な拷問を加え、二人を冤罪に陥れたという話のようだ。
 中国では、この話は「清末四大奇案」の一つとされ、何度も映画やTVドラマになっているのだそうだが、露知らぬことだった。
 西太后は国を破滅させた悪女の代表とされるのが常で、内外を通じてすこぶる評判が悪いが、この「華麗なる妃たち...」では、最近の中国で、これまで世の爪弾きにされてきた西太后の縁者たちが、ようやく内輪だけに伝えられてきた通説とは異なる話を語り始め、もっと客観的に新たな評価を促す史料も発掘されはじめたことが紹介されている。
 番組の画面に登場して語り合うのは、中公新書の評伝「西太后」の著者で明治大学教授の加藤徹氏、精神科医の名越康文氏、脚本家の田淵久美子さん、女優の國生さゆりさんの4人で、真っ先に國生さんが、「この人大好き」と、過激とも思われる発言をする。
 もっともこの番組を見ても、西太后が庶民や弱者への思いやりを示す人であったというような話が出てくるわけではないが、皇帝の気まぐれ次第で浮き沈みする当時の後宮の女たちが、お召しがかからずに終れば一生飼い殺しにされる運命にさらされていたことを知れば、西太后も本来はもっとおだやかに生きられたかも知れないのに、生き残るために手段を選ばない夜叉への変身を環境が強いたという見方を受け入れ易くなる。
 彼女は、たまたま咸豊帝に気に入られ、男児をもうける幸運に恵まれたのだが、帝の死後、数え年の27歳で寡婦となった後、わが子を帝位に就けるために、宮廷の海千山千の大臣たちを向こうに回して、食うか食われるかのクーデターをやってのけ、最大の危険人物に有無を言わさず謀叛の罪を着せて処刑してしまい、まさに修羅場を走り抜けて、絶対権力を掴み取った。
 それから始まった彼女の治世が何をもたらしたか。けなす種はいくらでもあり、ほめるべき点を見つけるのは困難であろうが、加藤氏の評伝は、植民地化の危機を前にして、よく頑張ったと言える部分もあろうとして、見直しを促しているようだ。加藤氏は、彼女が負わされた悪名についても、多くは事実無根だとしている。しかし、彼女の悪名を決定的にした「珍妃の井戸」事件については、さすがに歯切れがよくない。
 北清事変で連合軍が北京に迫り、宮廷が右往左往の混乱に陥ったとき、西太后は光緒帝の最愛の妃とされていた珍妃が、紫禁城からの脱出を拒否し、ここに踏みとどまると言い張ったことに激怒し、衆人の面前で珍妃に自害を迫り、色を失った珍妃の命乞いにも耳を貸さず、宦官に命じて井戸に投げ込ませたというのが、「珍妃の井戸」事件だ。
 西太后一人の怒りの前に、その場にいた光緒帝以下全員が震え上がり、誰も止め立てせずに珍妃を見殺しにしたという。あまりにもひどすぎ、ほとんど理解を絶する話で、「中国とは、こういう国だ」と決め付けたがる議論には誂え向きだ。
 日本では、皇室は言わずもがな、徳川将軍家でも、さらに昔の権力者たちにも、こんなむちゃくちゃをやってのけた実例は、まずあるまい。これほどな権力の暴走が、まかり通ってしまう国柄は、今、どれほど変ったか。
 それはさておき、冒頭で触れた冤罪事件に関連して、名越氏は西太后の頭の冴えを高く評価し、恵まれた天性の直感力に、さらに磨きをかける努力をした人であったから、記録にさっと目を通しただけで、あやしいと気づいたのだろうと言う。
 手続法などに縛られない時代の独裁者だったから、あやしいという勘だけで突き返せたのだと、現代の裁判官は言うだろう。
 むろん、それはそのとおりだ。
 ただ不評山積の敵役に、まじめな為政者を顔を見出すのも、人間の営みの複雑さを学ぶよすがとなろう。
 とにかく、知らずにいたことをせっかく知らされたので、忘れないうちに記しておく。
 


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 無実の被告人が公判廷で、何の抵抗も示さずに有罪を認めるということは、そもそもないはずだというのが、裁判官に共通する信仰である。大部分の裁判官は、そういう信仰が揺らぐような実例には、遭遇せずに職歴を全うする。
 それが安易な思い込みに過ぎない場合があるということが、無実の菅家さんを17年間獄につないでしまった足利事件で実証された。
 菅家さんは6月4日に千葉刑務所から釈放された。私は、たまたま、その日の昼前に、ここに勾留されている被告人に会いに行って、報道陣で埋め尽くされた刑務所の門前で、何事かと訝った。しばしば足を運んでいるこの施設の中に、無実の受刑者がずっと閉じ込められていようとは、思いも寄らなかった。その2日後に、司法研修所15期裁判官の最後の一人となった泉徳治さんが、地裁高裁よりは5年長い最高裁判事の定年70歳を迎えて、ようやく「ゴールイン」した機会に、同期の裁判官経験者が催した旧交を温める集いに、私も参加した。 そこでこの事件について耳にしたのは、もし自分が裁判にかかわっていたとすれば、実際に裁判に当たった裁判官たちと同様な判断をしていただろうという告白ばかりだった。
 むろん、裁判所が誤りを犯したことを、避けようがなかったと免責しようというのではない。
 ただ、われわれが同じ過ちを(多分)犯さずに済んだのは、たまたま冤罪者が公判廷で真実に反する自白をするような事例に当たらなかったからに過ぎないというのが、共通する思いであったろう。
 冤罪者が公判廷で無実を訴えようとしない、訴えることが出来ない場合もあるということに、自分は目を開いてきたと、口には出さずとも、ひそかに自負できた人が、そこに何人いたか。

 では、菅家さんが公判廷で最初から無実を訴えていたら、冤罪を免れることが出来たか。
 その可能性も、かなり乏しかったのではないか。
 被告人が捜査段階での自白を法廷で覆しても、多くの場合、前にした自白が信用できると判断され、有罪と断じられているのであって、前の自白が信用できないとされることは、例外と言えるほどに稀である。
 菅家さんの場合、警察の取調べでも、早くから被疑事実を認めていたと言われるが、無実ならもっと抵抗できたはずだと決めつけてしまうのが、大方の裁判官の論理であろう。
 裁判官は、証拠が明白であるにもかかわらず、見え透いた否認をする被告人には慣れている。
 何度か、そういう経験を積むと、被告人は嘘をつくという思い込みに、我知らず陥ってしまいがちである。むろん、頻度から言えば、被告人の否認がでたらめであることの方が、そうでないことよりも多いに決まっている。
 
 自白のあるなしにかかわらず、被告人を無罪とすることが、自らの無能の告白にならないかという不安は、多くの裁判官を支配しがちな心理であろう。自信なしにはできないはずの有罪認定に比べて、無罪という結論は、裁く立場にある側の能力の限界を認めることである。
 一方、有罪者を免れさせる結果への不安を克服することもむつかしい。
 特に、この犯人を草の根を分けても見つけ出せという社会の強い要求がある事件で、証拠上、真犯人である蓋然性が高いと疑われる被告人を免罪し、その被告人が刑事責任を問われる可能性を全く消してしまう選択の前には、誰しもたじろがざるを得ないであろう。
 冤罪を生んではならない。しかし、罪ある者を免れさせてもならない。
 この二つの要求を両立させる能力は、誰にもない。
 裁判官はしばしば、そういう矛盾に直面して、綱渡りを迫られる。

 広く関心が寄せられているアメリカの刑事裁判の一つに、Scott Peterson という被告人が、妻殺しの罪に問われて死刑を宣告された事件がある。
 英語が達者な人には、websiteで情報の山が提供されているはずだ。私にはとてもそれらを読み解く能力はないが、状況証拠は圧倒的に被告人に不利だが黒と断じる決め手はなく、被害者がどんな方法で殺害されたのかも特定できないという難件であるようだ。
 黒にすこぶる近い灰色は、黒とすべきか、灰色とすべきか。
 そこで無罪であるかも知れないわずかな可能性のために、不利な証拠を積み上げられた被告人を免罪する陪審員や裁判官は、どこの国でも稀なのではないか。

 しかし菅家さんの場合は、鑑定技術の進歩によって真犯人ではないことが確実に認められたという稀有な例である。
 かつ弁護人の指摘が正しければ、確定裁判の上告審の段階で、当時は弁護人が密かに手に入れた菅家さんの髪の毛を資料としたというものであったが、有罪の認定が誤っていた可能性を示す鑑定がすでに現れていたというのであるから、もしここで裁判所も疑問なく受け入れられる方法で鑑定がやり直されていれば、それだけで事案の黒白が明らかになったと言えるはずだ。
 そうならなかったのは、痛恨の極みと言わざるを得ない。
 ただ証拠調べをしないことを建前とする上告審で、原判決の事実認定を覆す(あるいはその正しさを確認する)結果につながる再鑑定を求めるには、大きな障害があったはずだとは思う。
 この事件でDNA鑑定が決定的な証拠となるはずだという認識が、当時すでにあったかどうか、私にはわからないが、おそらく最高裁の裁判官たちは、DNA鑑定が無罪の決め手になるかも知れないなどとは思わず、刑訴法の規定に従う限り当然な結果として、上告を斥けたのであろう。
 15期裁判官の集いでは、木谷明さんにも会った。
 刑事裁判官としての木谷さんの業績は誰もが知るところ。無辜の救済を使命とする心構えに徹し、それを実践した人である。そこで木谷さんから、10チャンネルTVで今度の事件についての話を求められていると聞き、6月7日の日曜日の夜にその番組を忘れずに見た。
 画面に現れた木谷さんは、今日はどうも被告席にいる思いがするともらし、日ごろよりは歯切れがよくないと感じられたが、やむを得ないことであったろう。
 
 今、始まっている再審公判で、無罪の判決が確定した後、検察庁も警察も、それぞれ非を認めているのに、裁判所は何も反省を示さなくていいのか。
 そもそも検察庁や警察が自らの誤りを認めるということは、きわめて異例であり、今回の対応は、菅家さんが真犯人ではあり得ないことが、DNA鑑定で疑問の余地なく明らかにされたという稀有な事情に基づく。
 これまでは検察庁は再審開始手続でも再審公判でも、確定裁判に誤りはなかったと主張するのが常であった。
 そういう対応を許されなくした稀有の事情からすれば、裁判所も菅家さんに対して、非を詫びることが求められるのではないか。
 実は再審公判で無罪を言い渡した被告人に対して、裁判所が、かつて先輩が、あなたを冤罪に陥れ、あなたの人生を失わせた誤りを詫びると述べた実例がある。
 私が初任の判事補として名古屋地裁に着任した当時、名古屋高裁が吉田石松さんに対する再審公判の判決で述べたことである。
 裁判所内部では、公然とは現れなかったものの、この判決の評判は悪かったと思う。あるいは、よく言ったと密かに賛同した人がいたかも知れないが、私が耳にしたのは、裁判所内で力があると奉られていた人が、「どっちが誤判か、わかるものか」ともらした言葉だった。
 この再審を実現し、無罪判決に至るまでの推進力となったのは、成田薫さんであったと思う。多くの人の尊敬を集めた裁判官だった。
 裁判所は非を認めたり謝罪してはならないと説く人は多いに違いなく、その主張には相当な理があるとも思う。
 しかし無実の人を17年も獄につないだ結果に対して、裁判所が何らかの反省を示すことなくしては、裁判所に対する信頼は、結局低下するのではないか。
 「公判廷で、いいかげんな自白をされちゃ困るんだ」と言う言葉も、interviewで
現れた。しかし、虚偽の自白に追い込まれやすいのは、菅家さんに限ったことであろうか。そういう立場に置かれた経験がない人が、この人の「気の弱さ」を、どれほど論えるのか。少なくとも今後の裁判官は、自白を鵜呑みにしがちな裁判官自身の弱さへの警戒を怠ってはならない。それも無論、言うは易く、行なうは難い要求に違いないのだが。



















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 毎度一人合点の落書きで、このblogの知的水準を低下させることにのみ貢献しているようで、少しは気が引けるのだけれども、それほど先が長くないかも知れない
と思うと、やっぱり誰の役に立たずとも、今まだできることを今のうちにしておかないと、後悔するかも知れない、なんぞと勝手な理屈をつけて、また先日の投稿の続きを投稿します。

newcomerの白いネコの名前は、maleだからマロでいいということになり、一方、古株のキキには「お局様」という尊称が与えられた。
 ところが今月17日、土曜日の朝になって、前日までマロと追いかけっこをしていたミュウが急に元気を失い、うずくまったまま、動かなくなった。
 もうだめかと失望しかけたが、とにかく町内で行きつけの小山動物病院に連れて行くと、熱が39度5分あり、風邪でしょうという見立てで注射され、薬ももらって帰り、二階の一部屋に隔離して静養させた。因みにネコの平熱は38度だそうだ。
 注射の効き目があったのか、夕方には復活の兆しが見え、一階に下ろしてやると、また元のように、マロとからみ始めた。

 このネコ3匹は、今年初めからいるキキを含めて、屋内だけで暮らさせ、庭にも出さずにいる。
 庭には犬たちがいるだけでなく、オッチョコチョイの仔ネコたちが、もし外に出てしまえば、どんな災難にあわないとも限らない。
 交通事故で死んだネコを見かけることは、ここでも稀ではない。いなくなったネコに気をもむよりは、初めから外に出さない方がましだ。
 18日の日曜日に新しい山種美術館の速水御舟展で見た絵の中に「翠苔緑芝」と題する大作があり、その右端近くに、枇杷の木の下にうずくまる黒猫がいた。毛の色は違うが目つきがキキに似ていると感じて親しみを持てた。

 今ではマロは体重1・1キロぐらい、ミュウは1・5キロぐらいになった。
 朝から2匹で追いつ追われつ、組んづほぐれつ。ネコがこれほど遊びに熱中する生き物だとは、初めて知った。
 これから捨て猫の啼き声が気になり出すと厄介だなと思う。
 「捨てるな!」と叫びたい気がする。




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 先日,某大学主催の裁判員制度のシンポにパネラーとして参加してきました。

 今は國學院大学教授の四宮さんが制度全般の趣旨を解説し,その後パネラーがいろいろな問題点について議論する,という構成でした。

 ただ,そのパネラーに裁判員経験者が入っているのが大変珍しい企画でしたし,また私としても大変勉強になりました。

 その方に対して,守秘義務は厳しくないか,量刑まで判断するのは無理ではないか,などの質問が出ましたが,裁判員経験者としては,守秘義務はしつこい取材を断る口実になり,また評議の秘密が守られるという意味でむしろ自分たちを守っていという感じがしている,守秘義務はあった方が良い,量刑についてはそこまで判断しないと意味がない,量刑まで判断できたことから充足感が生まれる,など経験者ならではの感想を率直に述べられ,そういう感じ方もあるのかと感心しました。

 その方は,最後に今後の裁判員のために「誰ののために裁判をしているのか」をしっかり考えてやって欲しい,とも言われ,元裁判官としてはどきっとしてしまいました。

新しい市民が生まれつつあると感じた一日でした。

                        終始圧倒された「花」

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1 先日当地の第1号の裁判員裁判の法廷が,平成21年10月6日(火)から9日(金)までという日程で4日間に亘り行われた。その前の週の金曜日の夕方,突然地元のNHKの地方支局の依頼でコメントをすることになった。元裁判官である弁護士のコメントを求められたものである。急な話であり,既に仕事の予定もあって,全部の法廷を傍聴する余裕はなかったので,他に適切な人を捜すように求めて辞退しようとしたのであるが,結局断り切れず,傍聴できる範囲でコメントすることになり,1日目と,4日目の判決後の2回コメントすることになった。傍聴券はNHKが用意してくれた。

2 事件は,交際中の男女の別れ話のもつれから,男が女の左胸を果物ナイフ強く突き刺し,傷は刃の根本まで深さ約10センチに達したが,幸いに心臓をそれ,肺も僅かに1センチそれたために,女性は奇跡的に致命傷とならず,全治11日間という比較的軽傷であったという事件である。果物ナイフが刺さった瞬間,加害男性も被害女性も死の結果を疑わず,女性が死ぬ前に海を見たいと希望し,胸にナイフが刺さったまま,2人で車で海を見に行ったが,途中女性が次第に元気を回復したというのである。そしてもう死ぬことはなくなったと思われる状態で,途中人が多数いるガソリンスタンドに立ち寄り,女性はトイレに入ったし,それ以外にも女性にはチャンスはいくらでもあったのに,救いを求めたり,逃走しようとはせず,ナイフが胸に刺さったままで刺されてから約9時間もあちこち行動を共にしたのである。被害女性が病院へ連れて行ってほしいと要望したが,男は拒否し,最後は警察に逮捕されたという不思議な事件である。

3 1日目。法壇に3人の裁判官と6人の裁判員が座った光景は迫力があり,いよいよ裁判員裁判が始まったことを実感するに充分であった。そして被告人の氏名等の確認や,起訴状の朗読,裁判長による被告人に対する黙秘権等の丁寧な説明の後で,検察官と弁護人の冒頭陳述が行われ,事件の全容,経過や背景,双方の主張,証拠による立証の全体像が明らかにされた。
 これまでは冒頭陳述は検察官が行うだけで,原則として弁護人は冒頭陳述は行わなかった。また検察官の冒頭陳述も,難解な法律用語を駆使したもので,被告人や傍聴人に分かり易いかどうかの配慮は余りなされていなかったと思われる。今回は双方ともに,とても分かり易い言葉を選び,やむを得ず難解な言葉が使用される場合にも,その言葉について丁寧な説明がなされていた。
 また冒頭陳述をする際に,検察官も弁護人も,場所をそれぞれの机の席から裁判員の正面の位置に移動し,裁判員に向かって殆ど書面を見ることなく,記憶して40分ないし45分,熱弁を振るった。どちらも中々迫力があったし,分かり易かった。

4 私は2日目は,別の事件の関係などで殆ど傍聴できず,最後の部分を少しだけ傍聴したに過ぎない。被害女性の証言は全く傍聴できず,犯行に関する被告人の供述を少し聞いただけである。2日目が山場であったと思われる。
 3日目は被害女性を治療した医師による,犯行がいかに危険であったかという証言,被告人の父による被告人を弁護する証言,刑の重さに関する被告人の供述(情状),その他の書証等の証拠調べ,そして論告と弁論が行われて結審した。求刑は懲役8年であった。そして翌日の午後,判決の宣告を聞いた。主文は懲役6年6月であった。

5 私は1日目と4日目にコメントした。当地の大学の刑事訴訟法の教授が4日間を通して傍聴され,その日ごとにコメントをされた。
 私は,裁判官,検察官,弁護人の法曹三者が,裁判員や傍聴人に分かり易い審理を心がけ,とても分かり易かったこと,裁判員がいずれも熱心に審理に参加し,的確で鋭い質問をしたこと,判決はもう少し軽い刑もあるかと思っていたこと,しかし適切な判決であったと思っていること,国民の意見が反映される裁判員裁判として,期待できる裁判がなされたと感じたこと,今後の課題として否認事件などの難解な事件について,どのような審理が行われるか,特に証拠調べがどのようになされるかについては注目していることなどをコメントした。

6 判決内容がどのような議論のもとで決まったかは分からないが,裁判員も活発に評議に参加し,率直に自分の意見を主張したようであり,裁判員の意見が充分反映された結論であるならそれでよいと思う。法律の専門家はこれまでの20件足らずの裁判員裁判について,刑がやや重いと感じるというような感想もあるようであるが,結論や量刑の妥当性については余り性急な議論はせず,見守るのがよいと思う。

7 判決では分かり易い表現が工夫されており,裁判員の意見が反映されたものと感じた。
 なお弁護士の立場の一感想として,今後裁判員裁判を担当する場合には,準備が大変だろうと心配ではある。(ムサシ)

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 先週11日の日曜日夜10時から,NHK教育テレビで,ETV特集「死刑囚・永山則夫ー獄中28年間の対話」(http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html)というドキュメンタリー番組の放送があった。
 45歳位から上の世代の人間には,事件の発生や裁判の経過などで,この死刑囚の名前を聞いたことがある人が多いのではないだろうか。特に法律を学んだ人間にはそうである。自分の職務からしても,興味深い内容と思い見てみたが,1時間半の放映の間,テレビ画面に釘付けになった。一言で言うと,とても重い内容であった。
 永山則夫死刑囚は,昭和44年,4人の被害者をピストルで射殺し,19歳で逮捕され,平成9年に死刑を執行されるまでの28年間,獄中にあった。その間,多くの対話を繰り返していたようで,獄中結婚もしていた。ドキュメンタリーは,その対話を中心にしたもので,獄中結婚した女性も登場していた。この女性は,従来は表に出なかったと紹介されていた。もっとも,こうした人たちの他にも,被害者側の人も紹介し,その声も番組に直接入れるべきだったとの意見も当然あろうかと思われる。
 永山則夫死刑囚の事件では,第一次上告審判決で,死刑事件についてのいわゆる永山基準(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/E8A6053B84A1F5A949256A850030AA1F.pdf
)が作られ,同判決は今も実務上の影響力が大きいといわれる。事柄の性質上,この事件やその裁判を語ることは,職務上差し控えた方がよいと思われるので,ドキュメンタリーの中身に入っての詳しい論評は避けるが,番組が終わってから,いろいろなブログを覗いてみると,このドキュメンタリーに触れている人が実に多いのに驚いた。硬派の番組であったが,見ていた人は多かったのだと思われる。これも,裁判員裁判の実施で,特に重大事件について,刑事裁判への関心が高まってきているためであろうか。
  ETV特集は,基準ははっきり知らないが,時折再放送される。「死刑囚・永山則夫ー獄中28年間の対話」も再放送されるのではないだろうか。



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千葉大学教授新藤宗幸氏の「司法官僚」という本を読みました。

裁判官ネットや伊東さんの論文にたひたび触れているので好感を持ったことも事実ですが,身びいきを差し引いてもなかなかの好著と思いました。

われわれ裁判所関係に関係した者から見ても,資料分析がなかなか鋭く正確で,違和感のあるところがありませんでした。

なによりも,われわれがこれまで議論してきた,裁判官会議の復権,司法行政の分権化,裁判官ポストの公簿,報酬段階の簡素化,司法行政情報の開示制度の確立などが提案されているのは,非常に心強い限りです。

今後の裁判所改革を考えるうえで,必読文献と思い推薦します。

                      たまには本を読む「花」

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 今週の日曜日に、3匹目の猫がきてしまった。先月やってきたのはメスの三毛猫で、950グラムだった体重が、どんどん増え、ミュウという名前をつけられて、今ではこの家に住むのが当然である如く、家中を走り回っているが、今度きたのは白いオスで、体重750グラムぐらい。
 動物病院の先生の見立てでは、ミュウの方は生後4ヶ月ぐらい、新入りの方は生後50日ぐらいだろうとのこと。結膜炎で目が赤くなっているこのnewcomerは、ミュウにもまして元気がよく、すぐさま一回り大きいミュウと、追いつ追われつ、じゃれ合っている。ミュウは先日二階の廊下から一階に転落したばかりだが、昨日の朝は2匹が階段を上がって二階へ探検に出かけた直後に、newcomerの方が、やはり同じように転落した。どちらも飛び降りたわけではなく、まだ引力の作用をわきまえずに落ちてしまったに違いないが、さすが猫だけあって、脳震盪を起こしたり、ギャアと悲鳴をあげたりはしなかった。
 もっと世慣れた猫になると、結構見栄っ張りで、高い場所に飛び上がろうとして飛びつきそこなうというような失敗を認めたがらず、何も失敗なんかしていないような振りをするという、すこぶる人間的なごまかしや照れ隠しをするものだが、この2匹は、まだそこまで成長してはいないので、人間に見られたことを気にして、平気を装ったわけではあるまい。
 今では古顔となったキキの方は、メタボの体を持て余してか、坊ちゃん嬢ちゃんの相手はできないとでも言いたげな顔つきで、超然あるいは憮然と構えて、年寄りの貫禄を示している。

 世のネコ派の中で代表選手を探せば、「哲学するネコ」の著者である学習院大学文学部左近司祥子教授の右に出る人は稀だろう。
 左近司さんに養われている猫は、常に40匹ぐらいいるようだから、ギリシア哲学の専門家であるこの人は、おそらく始終、猫の死をみとるという重荷をも担っていることになるだろう。
 動物を飼うということは、「生者必滅、会者定離」の法則を、否応なく学ぶことでもあるが、どんな広い家があろうと、豊かな身代があろうと、最後の「みとり」ということを考えると、よほどな覚悟がなければ、40匹も飼えはしない。
 しかし左近司さんのような人も、犬や猫を捨てる人がいなければ、好き好んでそれほどの苦労を背負い込みはすまい。やはり捨てる人間が悪い。

 犬2頭、猫3匹となったわが家の同居者たちは、すべて元homelessである。
 まだ草深いとも言える環境で暮らしているおかげで、隣近所とのtroubleもなく、犬や猫たちには、都会では望めないような暮らしをさせているつもりだ。もっとも彼らがそう認識しているかどうかは疑問だが。特に猫にとっては、住みよい家であるはずだ。
 それでも捨てられて寄る辺なくうろついている犬や猫には、なるべく出会いたくない。目も耳も塞ぎたい。そこで目や耳を塞げないのが「哲学するネコ」で描かれる左近司さん一家の人々だ。
 その中で、「お助けレイディー1号」として登場するのは、1988年司法試験に合格、司法研修所43期にその人ありと知られる(多分)現職裁判官。私が定年後に千葉県弁護士会に登録した当時は、千葉地裁刑事部の単独事件係と合議部の陪席を兼ねていて、再三、法廷で顔を合わせたことがあったが、今では東京高裁第9刑事部の陪席判事で、気安くは傍に寄れない。
 祥子先生は、この長女が「うちの多くのネコの拾い手」で、「家族泣かせのお助けレイディー」だとおっしゃるが、命あるものを見殺しにできない気質がある裁判官の方が、冷ややかに見殺しにできる裁判官よりは、よほどましではあるまいか。 もっとも、そういう裁判官が出世できるかどうかは、保証の限りではないが。
 この駄文がご当人の目にふれて、お叱りをこうむると困るので、ここは「哲学するネコ」その他もろもろの左近司教授の著作を、皆さん、お読みくださいと提灯持ちすることで、お見逃しを願うことにしたい。

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1 少し前,HPでラ-メンの話を書いたが,長すぎたため一部削除した。本稿はその削除した部分である。

2 今から2年ほど前にTVで「スポーツ大陸」という番組を見た。ゴルフの中島常幸プロのトレーニングが放映され,その努力と工夫に感銘を受けた。その中で中島プロは,郷里の栃木県佐野市であったかと思うが,長年同じあるラーメン店で,毎年新年にラーメンを食べて1年のスタートを切ることにしているというのである。最近は1杯しか食べないが,若い頃はラーメンを2杯食べることで,「今年も頑張るぞ。」と決意したと言っていた。私はこの話ですっかり嬉しくなった。私の場合はラーメンを2杯食べて何かを決意したのではない。しかしなぜか私はこの話に感動し,中島プロにとても親近感を覚えたのである。華々しい活躍を経て既に全盛期を過ぎてはいるが,今も活躍されており,その後私は中島プロを勝手に熱心に応援しているという関係にある。

3 以前私たちは夫婦で高知の裁判所に勤務していたことがある。当時その裁判所の食堂のラ-メンは家族皆とても気に入っていた。今私が凝っている郷里のラーメンよりも,ずっと淡泊な醤油味でアッサリしていたが,麺がとてもラーメン臭い強い匂いがしており,毎日でも食べたいと思ったものである。そのラーメンがおそらくわが人生で最も気に入っている。当時は土曜日も休日ではなかったので,食堂は昼ころまで営業していた。当時小学生の長女と保育園の次女が,月に1回程度,「今日の昼ご飯は裁判所のラーメンを食べたい。」と言ったものである。そこで食堂に電話して,営業時間をほんの少し過ぎた時間になるのであるが,「何時ころ行きますので,ラーメンを4杯お願いします。」と注文をしておくのである。次女は先に保育園から連れて帰っておいて,長女の下校を待って車で裁判所に駆けつけた。食堂のおばさんはいつもニコニコしながら嬉しそうに待っていてくれた。とても懐かしい思い出である。

4 高知に勤務していた同時期に,裁判官としては先輩であるが,同僚として勤務していた親しい友人が,少し前に高知の裁判所の所長になったので,電話を掛けて「今でも裁判所のラーメンは昔のままおいしいですか。」と尋ねたところ,余り要領を得ない反応であった。「昔,ラーメンがおいしかったかなー?」というのである。すでに20年も昔のことなので,今は味が変わっているのかも知れないが,ETCで1000円で行けるのであるから,夏休みにでも宿を取って,妻と車で高知までセンチメンタルジャーニーに出かけ,高知の裁判所のラーメンを食べようかと話しているところである。その話をすると,結婚して関東方面に住んでいる2人の子供もきっと「私も行きたい」と言うに違いない。(ムサシ)


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 ご無沙汰しております。なかなか書き込みができずにおりました。
 毎日,多種多様な小さな事件に追いまくられ,土日もない状態が続いております。

 弁護士過剰というような議論がされておりますが,実感としては市井の法律問題はまだまだ未開拓で埋もれているという感じがします。たしかに高額の事件は少ないかも知れませんが,あまり資力はないものの弁護士を必要とする人たちは想像以上にが多いのではないでしょうか。

 また,弁護士が過剰で質的低下があるとの指摘もありますが,私の周りに現れる60期,61期といった若手弁護士は,国選や生活保護関連などあまり収入の期待できない仕事にも熱心に取り組む意欲があり,かつ裁判員裁判の進め方などにも勉強熱心で私としても感心して見ております。

 たかに法科大学院教育にはいろいろ問題点が感じられますが,法曹人口の増加自体は今後も推し進める必要があると感じる昨今です。

                ようやく書き込みの時間ができた「花」
 

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 長編「チボー家の人々」の半分以上を占める「1914年夏」は、第一次世界大戦直前の風雲急を告げる情勢から始まって、反戦陣営の瓦解に絶望したジャックが、飛行機でフランス軍とドイツ軍が睨み合う前線に飛び、空からビラをまいて両軍の兵士に戦闘拒否を訴えようという捨て身の企てに、飛行機の墜落で空しく挫折し、重傷を負った末、敗走するフランス軍の錯乱した一兵卒に射殺されるまでを描く。
 こうしてジャックが最期を迎えることは、この巻の結びとなる第85章で描かれ、8月10日、月曜日の出来事とされているが、第73章は、その8日前に遡り、8月2日、日曜日の朝、ジャックがジェンニーに向かって、«Repose-toi,» と口を開く場面で始まる。
 この一言には、実は重い意味があり、それは白水社版の「休んでいるといい」という邦訳では伝わらないが、日本語では外に訳しようがない。
 これまで二人は、互いに相手との距離を取る二人称の vous を用いていたのが、親しさを示す tu に変ったのは、このときからである。
 ジャックはさらに«Moi,je vais conduire Antoine au train. A la
fin de matinée, je reviendrai ici te prendre.»(ぼくは兄貴を汽車まで送ってくる。昼近くに君を連れに帰ってこよう)と続けるが、ジェンニーは即座にこの切り替えができず、やっと«Vous…tu m’y
trouveras si tu veux, en sortant de la gare du Nord.»(あなたは….北停車場を出て、もしよかったら…) という言葉で、vous と言いかけながら口ごもり、自分も初めて tu という二人称を用いて、二人がもう他人ではなくなったことを認める。
 ジャックがジェンニーに最後にvousを用いて語りかけたのは第71章で、«Pauvre,pauvre chérie… Il est tard… Vous n’en pouvez plus… Il faut aller faire un grand somme… Dans votre lit.» と言った言葉で、ごくやさしい言葉遣いであるのに、まだtu とは言っていない。しかし二人は、この後ですぐに抱き合って床をともにする。
 この8月1日、土曜日の夜が、二人の初夜であり、ただ一度の交りであったはずなのだが、この小説の筋の運びは不自然に回りくどく、第63章には、その前日の7月31日にも、二人が抱き合って眠ったというくだりがある。
 ここで既にジェンニーはジャックに、«Serrez-moi fort. Plus
fort… Encore plus fort… » (しっかり抱いて、もっと、もっと…)と迫り、結びの一節にも、Elle eut la sensation délicieuse que
c’était à lui, plus encore qu’au sommeil, qu’elle s’abandonnait.(彼女は身を任せたのが眠りというよりも、むしろジャックであったことに嬉しさを覚えていた)とあるので、このとき既に男女の交りがあったと理解するのが当然でありそうなものだが、それにしては翌日のジャックもジェンニーも、二人にとって新しい人生が始まったという思いにふけりもせず、vousから tuへの変化も生じていないのだから、7月31日の夜には、二人は抱き合いはしたものの、まだ結ばれてはいなかったということになろう。ジャックの禁欲的な性格が欲望に負けるには、手間がかかったとでも解すればいいのか。
 ともあれ、この8月1日には動員令(la mobilisation)が発せられ、愛国主義の狂気がフランス全国を覆い、社会主義者は総崩れとなって戦争協力に走り、ジャックがジェンニーに会うのも8月2日が最後となり、結局、二人のtutoyerは、わずか半日で終ってしまう。
 ジェンニーは、ただ一夜の交りでジャックの子を身ごもり、ジャン・ポールと名づけられる男の子を産む。
 ジャックの兄のアントワーヌは軍医として従軍中に毒ガスに侵され、余命いくばくもないことを知り、ジャン・ポールの将来のために、自分とジェンニーが婚姻して、二人の子としてジャン・ポールが生まれたという戸籍上の体裁を整えることをジェンニーに提案するが、ジェンニーは社会の卑劣な偏見と妥協するために実体のない身分関係を装うことは、ジャックが断じて許さない裏切りとなると決めつけて、アントワーヌの申し出を一蹴する。
 このあたりは、いま伝えられるフランスの離婚率の高さなどは、予想もされなかった時代の現代との隔たりを思わされる。



 


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 十三妹とは世を忍ぶ假の名、後に本名は何玉鳳と知られる明眸皓齒の佳人が、女だてらに鬼をもひしぐ技を磨いた劍と弓矢で、旅人を襲う兇賊一味を苦もなく退治してのけ、彼らの虜にされて切りさいなまれる寸前の良家の子息安驥や、この小説の二人目のヒロインとなる張金鳳一家の命を救う。
 こんな活劇で始まる「児女英雄傳」は、先に筋書きを知ってしまうと、儒教文化への著者の手放しの心酔ぶりに呆れ返り、本文を読む意欲をなくしそうな通俗小説である。
 讀書人にとっての最高の價値が、石にかじりついても科擧合格を果たし、政府高官に取り立てられて、榮達への道を歩むことであった時代に、ついにその夢を遂げられずに終った著者文鐡仙、實名文康が、空想の中で描き出した立身出世物語に、一人の若者が二人の美女に妻としてかしづかれ、合格めざし一直線の受験勉強をシャカリキに後押しされるという、いかに儒教全盛の時代であろうと、あまりにも虫がよすぎる幻想まで取り入れ、首尾よく成績第三位「探花及第」の譽れに輝き、一家繁榮、富貴長壽が約束される「めでたし、めでたし」の千秋樂で結んでしまったお話だから、誰にでも安心して「面白い」と薦められる本ではない。
 また筋書きを知らずに最初から読む人にとっては、ヒロイン十三妹が日本刀をふりかざして悪黨どもを片端からバラリズンと斬って捨てる前半が気に入れば気に入るほど、この女侠が彼女に命を救われた弱蟲安驥の父親で、儒教道徳に手足が生えたような君子人安學海の説得に抗いかね、彼女自身が張金鳳を妻に押し付けた安驥の何と二人目の妻となり、夫の尻を叩いて受験に勵ませ、繪に描いたような良妻賢母への變身を遂げる後半部に、龍頭蛇尾と言うか羊頭狗肉と言うか、とにかく詐欺にあったような不満を覚えるおそれがある。
 しかし著者は大まじめで、十三妹こと何玉鳳を丸め込んでしまう安學海を儒教文化の神髄の代表者として描き、中國を萬國に冠たる受験地獄の総本山たらしめた科擧という制度を、著者自身の苦澁に充ちた挫折體驗にもかかわらず、禮讚してやまないのだ。
 こういう著者の思想は、その當時としても、現実に目をふさいだ體制ベッタリズムとして、笑われても不思議はないものだが、そんな十三妹の變身を承知の上で、小むつかしいことを気にせずに読めば、「児女英雄傳」の語り口は、讀者を樂しませるという点では満点に近い。
 中國では古来の男尊女卑のお國柄にもかかわらず、男どもを尻目に絶倫の武勇を発揮する女英雄やリーダーとして卓越した統率力を示す女傑の話が、案外に好まれるようだ。
 日本ではあまり知られていない「楊家將演義」に登場する佘賽花、穆桂英らの楊家の女將軍や、遼の皇太后蕭銀宗が、そういうキャラクターの代表的な例と言えるだろう。
 武侠小説と一括りにされる傳奇物語にも、十三妹のような女侠が活躍する話は稀でないようだ。
 この小説では、危うい命の瀬戸際を十三妹に助けられた安驥が、恐怖のあまり失禁していた場面(他又俄延了半晌、低聲慢語的説道:「我溺了。」)や、十三妹に斬り捨てられた強盗坊主が住職に納まっていた古寺で、張金鳳も十三妹も尿意を催し、便器(淨桶)がないというので、坊主が使っていた洗面器で用を足す、その後で何も知らない安驥が、濡らしてしまったズボンを同じ洗面器で洗うというような場面が、はばかりなく描冩されていることが目に付く。 日本では、あまり例があるまい。
 安學海は、息子の命の恩人である十三妹こと何玉鳳が、実は旧師の孫に当たると知り、彼女の父母とも親しく交わった仲で、乳飲み子の玉鳳を抱かせてもらったこともあるという思い出を玉鳳に語るところで、「あなたはそのとき私の着物に便をもらしたので、あなたのお母さんがあわてて洗わせようとなさったのですが、私はそのしみを全部落とさずに残してもらいました。将来、あなたが私を他人扱いしたときに、そのしみを見せれば、グウの音も出なくなるでしょうから、と言って」と、人前であけすけな話をきかせる。
(你不曾小解、倒大解了我一褂袖子!那時候你家老太太連忙叫人給我收拾、我道:『不必、只把他擦乾了、留這點古記兒、將來等姑娘長大不認識我的時候、好給他看看、看他怎生合我説嘴。』)
 模範的な儒者であり君子である安學海が、若い娘にこんな話をしても、誰もあやしまず、玉鳳も気を悪くしなかったらしい。こういう神経の太さが中國人共通の特色なのか、そうだとすれば時代による變化はあるのか、どなたかの教えにあずかりたい。 



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 (ペットとの触れ合いを大切にしている人が多いと知って、自分が今年の二月に個人blogに書いた記事も、もっと大勢の人に読んでもらいたくなりました。ご笑覧ください。)

猫一匹と最初に記したのは、その方が口調がよさそうに感じるからであって、別にネコ派だというわけではない。もっとも猫は散歩に連れて行く手間がかからないだけ、犬よりも飼い易いという取り柄はある。
  奈良から連れて来たキティが死んだのは、去年の九月十四日、日曜日の夜明け前だった。一週間ほど前から食事がとれなくなり、やがて水も自力では飲めなくなったが、苦しさを訴えることはなく、ほとんど声もあげずに部屋の隅や庭の木陰で、ひっそりとしていた。食道癌であったのかもしれないが、十三年は生きたはずだから、ほぼ天寿を全うしたと言えよう。最後は日ごろ人間といっしょに夜を過ごす寝室の隅で、誰も目を覚まさないうちに息を引き取っていた。
 最後まで名前さえつけてもらえなかったのに、今なおその存在を天下に知られている漱石の猫が死んだのは、明治四十一年九月十三日だそうだ。
 翌日、漱石が門下生らに猫の死を知らせたはがきの文面には、
 「辱知猫儀久々病気の処 療養不相叶昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但し主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候。以上」とあり、やはり誰も知らないうちの臨終であったことがわかる。
 明治四十一年は即ち1908年だから、わが家の猫は日本文学に不朽の貢献をした明治一代猫の百回忌の翌日を命日とする縁を得たことになる。
 もっとも当の猫の身になれば、漱石の長女筆子の夫松岡譲が「最初ひどく虐待されたが、何かの拍子に福相があるとわかって優遇され、そのうちに一躍天下に大名を轟かすに至った」と書いてはいるものの、「無名なのに有名とは、これいかに」と、首をかしげているかも知れない
 しかし、そもそもは猫嫌いの鏡子夫人に何度つまみ出されても、へこたれずに上がりこみ、漱石の「そんなに入ってくるなら置いてやったら」というお声がかりで、やっと宿にありつき、たまたま出入りの按摩のお婆さんが「珍しい福猫でございます。飼ってお置きになると、きっとお家が繁昌します」という見立てをしてくれたおかげで、俄かに優待されるようになったという強運の猫だから、名前などつけてもらわずとも、誰にみとられなくても、安んじて成佛を遂げたであろう。
 ここまで書いてから、動物は成佛できるのかと気にかかり、「猫は成佛するか」と検索したところ、49万6000件の記事があると知って仰天した。「成佛します」という記事が続々と出てきたことは言うまでもない。大阪府箕面市には、この世でペットの霊を救うために降臨した唯一の観音様「放生観音」の霊場があるお寺(曹洞宗幸福山太春寺)があるそうだ。
 飼い主にとって猫が犬より楽な点の一つは、往生した後で手間がかからないことだ。
 キティもすぐに庭に穴を掘り、毛布にくるんで土をかけた。
 平成九年にこの家に越してきてから、それを待っていたように十八歳近くで寿命が尽きた犬も、この庭で眠っているが、さらに何頭もの犬を葬るにふさわしい場所は、そう残っていない。
 ご近所のラブラドル・レトリーバーのマックス君は、大分ぼけてきたようだが、ペットの葬儀社に頼むと大型犬は五万円かかるそうで、「五万円貯まるまで死ぬんじゃないよ」と言われている。
 とにかくキティがいなくなって、犬三匹が残った。
 ハスキー系のチロ、プードルのラッキー、とことん雑種のゴン太という面々。いずれも元ホームレスばかり。
 飼い主の方もいつ往生するかわからないので、もうこれだけでいいと思っていたが、先月の半ばごろになって、また寄るべない猫がやってきた。やはり追い払うのは寝覚めが悪く、とりあえず扶持を与えることにしたが、メス猫なので行き付けの動物病院で、格安の料金二万円で不妊手術をしてもらえた。とりあえずキキという名前にしたが、まだ気を許して寄ってはこない。
 この猫が十何年も生きたら、先にこちらにお迎えが来そうだが、そこまで苦にするにも及ぶまい。


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 有楽町駅から東京駅まで、高架線下の近道をたどって行くと、「シャノワール」という喫茶店の看板が目に入る(ここはもう過去形で書かねばならず、この店は消えてしまっただろう)。
 その前を通るたびに、これと名前が同じ喫茶店は日本中にいくつあるだろうと思う。
 その数はおそらく「ブラックキャット」という店より多いに違いない。いや、そもそも「ブラックキャット」なんていう店が見つかるだろうか。無論どこかにはあるだろうが、探すのに骨が折れそうだ。 「黒猫」という店はあるだろうか。エドガア・アラン・ポオを愛読する探偵小説ファンなら、そんな名前をつける気になるかも知れないが、いまどき同好の士が集まる溜まり場には、まずなるまい。でも「シャノワール」だったら、県庁所在地くらいの街へ行けば、すぐに見つかる.....
 こんなふうに思うのがまるで見当違いでないかどうか、実証的な調査をしたわけではないから判らないが、私の感覚では、黒猫とブラックキャットは同じものであってもいいが、シャノワールは違うのである。シャノワールは(何もノワールに限る理由はないが)、人間の目をかすめて魚をさらったりはしない。生まれたときから雨風にさらされる苦労とは無縁で、いつもMadameの膝に抱かれて音楽を聴いているというimageがあって、だから喫茶店の名前になる。
 これはフランス語で言えば何でも上等にきこえてしまうという日本人にだけ多い有り難がりやの思い込みだろうか。
 辞書でchatの項を引くと se faire chatte という成句が出てくる。日本語の「猫をかぶる」とは大分違うようだ。英語にこれと対応する表現があるかどうか判らないが、私がみた辞書にはそれらしいものは見当たらない。むしろcatにはtoughな、しぶといやつのimageがあって、A cat has nine lives. とか Care killed the cat.とかいう。
 やっぱりchatとcatは違うのではないかしら。これをそれぞれの言葉のconnotationが違うのだと言えるだろうか。
 漱石のフランス語訳で知られている天理大学教授の Olivier JAMET さんは猫がお好きときく。いつか先生のご意見を承りたいと願っている。
私がconnotationという言葉を耳にしたのも、JAMETさんからだったと思う(多分、奈良フランス語クラブの集いで、オウムの犯罪を話題にしたときだった)。それ以来、日本語で「国家」とか「官僚」とかいう単語につきまとうマイナスイメージが(そう感じるのも今はもうminorityのsignになっているのかも知れないが)、英語やフランス語で言えば消えてしまうのかどうかが気になっているが、これはもちろん、ずっと大きな、別の問題になる。


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