日本裁判官ネットワークブログ
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 あれは私が高校を卒業する直前の昭和36年1月ころのことだったと思う。私の大学受験に必要であったため,母が革靴とオーバーを買ってくれることになり,岡山市の北20キロの片田舎から,母と2人で岡山市へ買い物に出た。革靴を買った後オーバーを買うために洋服店に入り,私が気に入ったオーバーを見つけて「これが欲しい」と言うと,母は「こちらの方がええよ」と言って,別のオーバーを指さした。私はやはり私の選んだ方が気に入っていたので,「やはりこちらがいい」と言ったところ,母は悲しそうな顔をして首を縦に振らなかった。孝行息子だった私はやむなく,母が指さしたオーバーで我慢することにしたが,母の気持ちを理解できなかった。確か私が選んだオーバーは9000円で,母は6000円のものを選んだのだと思う。僅かの違いだし,孝行息子が人生でそれまでたった一度だけ母にわがままを言ったという場面である。私は口には出さなかったが,母を恨んだように思う。その後そのことはすっかり忘れていた。
 私は大学を卒業後上級職として当時の厚生省に就職した。両親もとても喜んでくれた。しかし私はどうしても弁護士になりたくて,司法試験に合格してもいないのに就職2年目の12月父母に相談せず勝手に退職手続きを取り,それから母に電話した。事前に相談すると到底退職が不可能であることは目に見えていたからである。母は電話口で暫く絶句していたが,「辞めないでほしい。退職を撤回できないのか。」と聞いた。私がそれができないことを伝えると,母は泣きながら,説明のために帰省するという私を遮り,「帰省には及ばない。試験に合格するまでは家の敷居を跨ぐことは許さない。」と言った。私は勘当されたのである。翌年も残念ながら試験に今一歩及ばず,私も頑張って勉強していたが,更にその翌年の4月,私の5月の試験の直前に母は肝臓ガンで死んだ。更にその翌年2月には父が交通事故で死んだ。まさしく親不幸の天罰というものであろう。私は長期間立ち直ることができず,兄弟は私の自殺を心配するという状況になった。その後文字通り「地獄に仏」という形で妻となる女性に出会って婚約し,運よく二人一緒に試験に合格した。そして私は一人で帰省し,父母の墓前に合格と婚約を報告したが,私は父母の墓前で号泣したということがあった(このあたりの経過は,「裁判官だってしゃべりたい」の本で詳しく書いた。)。
 その後長期間を経て平成になって間もないころ,法事の夜だったと思う。私は裁判官であった。飲酒しながら兄弟達で父母の思い出話をしていたときに,母が私が希望したオーバーを買ってくれなかった話をして,母の気持ちを理解できなかったと話したことがある。兄は「それはなあ。きっとおふくろの財布には6000円はあったが,9000円はなかったのだろう。」と言った。私はガーンと頭を強打されたような衝撃を受けた。そうか,私はなぜそれに気がつかなかったのだろう。我が家がそこまで貧困であったことを知らなかったためではあるにしても,その時点で気がつくべきであったと思う。買いたくても買ってやれない母の悲しみに私は気がつかなかった。母はどんなに切ない思いをしたことだろう。しかし母は私に何も言わず,ジッと悲しみに耐えたのだと思う。法事の夜,私は母の悲しみに思いを馳せて,「洞察力もなく出来の悪い息子を許してほしい」と悔やみながら,トイレで家族に隠れて大泣きをした。その後間もなく,私は墓参りをして母に詫びた。
 最近NHKのテレビで「ジャッジ」という番組が5回に亘り放送され,とても感動した。その第2回目であったと思うが,介護に疲れて老妻が老夫を殺害したという殺人事件で,息子が島の人達から多額の金銭を詐欺して都会へ逃げてしまい,老父母が被害者に必死で弁償を続け,ついには経営が行き詰まっていないのに,工場を処分してまで弁償を続け,ついに病の夫の看護に疲れて妻が夫を殺害するに至ったという筋書であった。被告人である老妻は執行猶予を希望しないと言って多くを語ろうとしない。主人公の判事補は,被告人の態度からも事件の展開に疑問を抱いていたようであった。主人公の判事補が証人となって証言台に立っている息子に「両親があなたに代わって弁償を続けられたのはなぜだと思いますか。」と訊ねたとき,息子は「島の皆さんに申し訳ないと思ったのだと思う。」と答えたところ,判事補は「それだけでしょうか。」と聞き直した。「えっ」と驚く顔の息子に対し,その判事補は「あなたに代わって償えば,あなたが島に帰りやすくなると・・。つまりあなたに島に帰ってきてほしかったんじゃあないでしょうか。」と聞いた。このひとことが老母の凍り付いた心を溶かし,老母が真相を語り始めて,事件は一気に展開し,「夫に楽にしてくれ」と頼まれたという承諾殺人の核心に迫り,事件は有罪だが執行猶予付き判決として解決したのである。これは疑問を直視して考え抜いた主人公裁判官の洞察力のたまものであると思う。まことに鮮やかな手並みであり,感動した。
 裁判官には総合的な判断力が必要であるが,そのためには深い洞察力を身に付けることが望まれる。時に裁判官の深い洞察力が,事件の真相に迫る決め手になることがあると思う。深い洞察に基づく裁判官のひとことが決定的な意味を持つことは案外多いのではないだろうか。そしてその洞察力を身につけるには,個々の事件に潜んでいる小さな疑問点を深く考えてみることが大切ではないかと思う。また読書その他の自己研鑽や合議での議論を通じるなどして,裁判官が法律的にも人間的にも大いに実力をつけてほしいものであるが,そのためにも裁判官にはもっともっと心身の余裕が必要であると思うのである。
(ムサシ)


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産経連載「君たちのために」第2回(07年4月11日大阪版夕刊)
         
 弁護士   井垣康弘

みんな「良い子」だったのに

 中学2、3年生ころになって非行に走った子どもたちに限って言うと、小学生の段階では、みんな「とっても良い子」であった。

後で分かった問題は、本人が「勉強をしたくない」、親も「まだまだ構わない」、小学校の先生も、「親子がそれで良いならば」で過ごしてきたことである。

この子たちは、授業中にウロウロしたり、学校で暴れたり、先生に楯突いたり、不登校になったりはしない。

分からなくても、授業時間の間、おとなしく、教室の机に座っている。終わったら、一目散に帰って友達やゲームで遊ぶが、家のお手伝いは何でも良くする。犬の散歩はお得意の一つだ。近所のお年寄りにも、丁寧なあいさつができる。

実際、勉強こそしないが、親子兄弟の間で話もちゃんと出来るし、人に優しいとても良い子なのである。

大人(親や先生など)からもほめられ、本人も自己評価が高い。将来、非行を行う(ましてや中学生の段階で少年院に行く破目に陥る)とは、親子も先生も全く思っていない。

だから、参観に行った少年院での中学卒業式で、卒業生代表の話が、「何と言っても皆3年前の入学式を思い出す。桜が咲き誇る校門を期待に燃え、ニコニコしながらくぐった。お母ちゃん(2年後には、ババア、ウルセイ、ダマレとののしる相手であるが)と仲良く手をつないで、ルンルン気分で、行った子もいる。しかし勉強が分からず、部活につまずき、不安でいっぱいで、それを紛らすために『ワル』になって行った。でも本当は寂しかった。そしてとうとう少年院に来てしまった。でも、これからやり直せると言う確かな手応えを感じているので、割と明るい。頑張るので期待してください」ということになるのである。

 実際には、小学校で、読み書き算数が皆目分からない子が、中学校の授業に普通に付いていける訳がない。見る見る引き離される。本人たちは、決して言葉として語ろうとしないが、その「劣等感」やすさまじいものがあることだろう。

 少年審判の席で、少年たちから「ボクは万引が上手だから一生食うに困らないと思っていた…」とか、「ちょっとにらんで貸せと言ったら学生から簡単に金がせびれた。優越感を味わっていた…」とか、「ボクはひったくりの名人で、とった金を一千万円貯めて何か事業をしようと思っていた…」とか、「学校の先生や親は、『ウルサイ!』と怒鳴ったらそれでおしまいだった…」とか言う言葉を聞く度に、それらは「落ちこぼれ」にされた子どもたちの苦しみや恨みの裏返しの表現だと思った。

 少年院に入ってからとはいえ、毎日何時間も頑張り、漢字の読み書きだって、「アッと言う間」に修得し、人生に対する期待に満ちあふれるようになるわけだから、そもそも本人たちに努力不足の責任があったことには間違いがない。


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