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作家柴田翔の裁判員制度に対する意見について

2007年12月12日 | 風船
作家柴田翔の裁判員制度に対する意見について

柴田翔といえば、昔、「されど我らが日々」という小説で、芥川賞をとり、一世を風靡した作家である。中高年の者にはなつかしい名前であり、同書を青春のバイブルとして愛読した人も多いと思う。しかし、現在の私にとっては、すでに過去の作家となり、最近では思い起こすこともほとんどなかった。その柴田翔が、日経の夕刊にコラム「明日への話題」として短文を書いている。12月4日には、裁判員制度に触れて、つぎのようにいう。

「不勉強を棚上げにしていえば、一般市民の裁判参加が一般市民の不参加のまま、決まった、という印象があった。、<職業裁判官による閉じた法廷を市民の常識に開く>という根本理念は分かるし、法曹界が自らそこに踏み切るにはそれなりの必然性があったのだろうが、その理念が具体的にどういう形をとるのか、とるべきなのか。」かと

司法に従事する者にとっては、「市民の司法参加」についてずいぶん議論したつもりであったが、残念ながら、専門家と一部関心のある人たちだけで論じられた嫌いはなきにしもあらずだ。もう少し、一般の市民を巻き込んでの議論がなされていたら、よかったかもしれない。もっとも、仮に広範囲に、つまりもっと国民を巻き込む形で議論が展開されたとしたら、裁判員制度が日の目をみたかどうか、疑わしい。重要な改革が、必ずしも、世論の後押しで行われるとは限らない典型例かもしれない。

柴田翔は、さらに、重大事件を裁判員裁判の対象とするよりも、「むしろ判断するものの世界観、倫理観が直接に反映する事件こそが、職業裁判官とは違う一般人の常識を裁判へ導入する裁判員制度にふさわしいのではないか。」とされ、その例として、「選挙区による一票の価値はどの程度まで許容すべきか。長時間勤務で疲れ切った医師の過失はどの程度まで罪に問えるのか。過密運行の鉄道の踏切事故の責任は誰に帰するのか。尊厳死、臓器移植はどんな条件の下なら認められるのか。」といった事例に、裁判員制度がいかされるべきではないか、と主張する。

傾聴に値する意見であり、私もその趣旨に賛成だ。そういった裁判への市民参加を実現するためにも、(少しずるいいい方だが)これから始まる重大事件に関与する裁判員裁判を成功させる必要があるように思う。仮にも、裁判員制度が市民の不協力により失敗したとしたら、少なくとも今後50年は市民参加の機運は遠のいてしのまうのではなかろうか。そのつけは決して小さくない。とにもかくにも、市民の理解を得るため、法曹界にいる人間として、最大限、がんばらねばならないと思う。  (風船)