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日本仏教をゆく 第9回

2019年11月25日 | ブログ
法然

 法然には祖師の中でもっとも多くの御影(みえい)が現存しているという。その像には一様に聖僧の面影がある。子供の頃から甚だ賢くかつ慈悲深く、しかも厳しく戒律を守った僧であったことを偲ばせるものである。

 法然は、押領使(おうりょうし:地方の治安維持にあたる在地豪族)を務める父を持ち、平安時代後期の1133年、美作国(岡山県)に生まれた。

 14歳で叡山に上り、師の叡空(えいくう)から戒を受け、正式な僧となる。師の叡空は法然の人一倍学問好きを見込み、天台宗の根本経典である「天台三大部」の書を学ばせた。法然は短期間にそれらの書物をマスターし、以後叡空の書庫の中に籠居して、ひたすら解脱を求めて仏教研究に耽った。

 叡空の教説は、源信が『往生要集』で語った浄土念仏の説であった。それは、末代の凡夫は天台、真言のような難行苦行によって成仏することは難しく、西方浄土にいる阿弥陀仏を念仏する(観心修行:阿弥陀仏及び極楽浄土がありありとみえるようになる修行)か、寺に寄付するなどの善行を積んで成仏するというものであった。

 しかし法然は、そのような普通の人にはできない観心修行や寺に多くの財物を寄付することのできる人でなければ往生できないというなら、それはすべての衆生を平等に救いとるという大乗仏教の精神に反すると考えた。

 そして法然は7世紀唐代の僧、善導の書いた、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」の注釈書である『観経疏(かんぎょうしょ)』を読んで、善導が念仏を口で「ナミアミダブツ」と称える口称念仏であると解釈していることを見出し、このような善導の説をとれば、いかなる凡夫も往生できることになり、すべての衆生を平等に救う阿弥陀如来の意に適うと、ひとえに善導の説による念仏の教えの道を進んだ。

 こうして法然は、頑固に観心修行にこだわる師の叡空との思想的対立によって叡山を下る。1175年、法然43歳であった。法然は、知も徳もない凡人でもまた悪人さえも「ナミアミダブツ」と称えれば間違いなく極楽浄土へ行けると説いたのである。

 法然自身は厳しく戒律を守る人であった。その法然が師に逆らってまで悪人までも救済したいと考えた訳は、彼の両親への想いがあったのではなかろうか。

 押領使であった父は、律令制度の秩序を乱す悪党とも称される武士たちの取り締まりの中で、血で血を洗う土地争いに巻き込まれ、恨みをかって殺された。また母の里は秦氏であり、絹織物を生産する業をしていた。秦氏は渡来の民であり、しかも律令国家の基本となる農業ではなく手工業に従事していたとすれば、農業に携わる土着の日本人からは、出身と職業の面で二重に差別される身で、差別する側から悪人といわれる人間であった。

 法然は父や母を悪人と考えざるを得ず、自身は堅く戒律を守り、一生不犯の清僧であったが自分の中における悪を深くみつめざるを得なかったのであろう。

 法然が叡山を下りて間もなく、源平の戦乱が起こり、加えて地震、台風、飢餓などが起こった。戦乱は律令社会を崩壊させ、権力は京都の王朝から鎌倉に移る。公家たちさえ自分たちの階級的基礎が崩壊してゆく不安にかられ強い無常感におそわれた。そのような時代に法然の教説は身分を超えて人々の共感を呼んだ。法然の教えが燎原の火のように広がったのは源平の戦乱が終わった戦後であった。

 しかし、念仏を称える人であれば自分の弟子だという法然浄土教の隆盛は、旧仏教、特に延暦寺や興福寺などの反発を招き、法然は四国に流罪となる。

 流罪4年、法然は京都に帰ったが、すでに老耄の徴候がひどく間もなく死んだ。1212年、80歳であった。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。


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