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日本仏教をゆく 第10回

2019年11月28日 | ブログ
親鸞

 親鸞は、平安末期1173年、後に室町時代の足利将軍の妃を出す家として栄えた京都日野家に生まれた。当時日野家はまだ中級貴族であり、父は以仁王(もちひとおう)の乱に連座し失脚していた。9歳の時、四度も天台座主を務めた宗教会の大ボスである慈円の弟子となり、将来の出世を期待される身となった。

 しかし、純潔な心を持つ親鸞には叡山仏教の腐敗堕落が耐えがたく、29歳で京都の六角堂に百日参籠し、聖徳太子の夢のお告げによって法然門下となる。この時法然は69歳。浄土念仏の教えを説いた法然の名声は高く、彼の教えに対する旧仏教側の反撃も起ころうとしていた。

 すでに法然には多くの弟子があり、親鸞が特に法然から重んじられていたとはいえない。親鸞は法然の外様の弟子としかいいようがないが、親鸞は「法然に騙されて地獄に落ちてもかまわない」と語り、一生師を厚く敬い、深く慕い、師の教えを反芻しながら思索し、布教し、著作した。法然を宗祖とする浄土宗に代わって、浄土真宗という教団を興す意志などなかった。親鸞が「浄土真宗」と語る時それは「浄土宗」という意味であった。

 法然の教えに従えば、「ナミアミダブツ」と称えればどんな人でも必ず極楽往生できるという。ならば戒を守ることはほとんど意味を持たない。法然自身は固く戒を守り、それが世の僧俗の尊敬を集める所以でもあったが、親鸞は純粋に法然の教説に従って戒を廃棄し公然と妻帯を主張する。

 その頃、法然教団に対する弾圧運動が激しくなり、1207年、法然はじめその主要な弟子が流罪・死罪となる。この時親鸞も連座し死刑と決まっていたが、親族の公卿の尽力で越後に流罪となる。親鸞への重い刑罰は、公然と妻帯を主張するなど過激な行動が、旧秩序を重んじる人々の憎しみを買ったゆえであろう。

 親鸞は、これらの事件をでっち上げだと後鳥羽上皇はじめ君臣の非を激しく責める。日本の仏教界の祖師にして、時の上皇にこれほど激しく批判を投げつけた人はいない。そして彼は法然から貰った善信という名を捨てて、天親と曇鸞(どんらん)という二人の浄土教の祖師からとった「親鸞」を名乗る。すでに親鸞には法然とはいささか異なる浄土念仏の教えを立てようとする意思の表れではなかったか。

 流罪となった親鸞は、流罪地で恵信尼(えしんに)と結ばれ、子をなした。5年で赦されたが、都には帰らずしばらく越後にととまった後、常陸に行き約20年間をそこで過ごす。常陸の国のひとびとも親鸞の人間救済への純粋な熱情を知り、かなり多くの弟子や信者ができた。しかし、60歳を超えて彼を慕う弟子や信者を捨て都に帰る。

 親鸞ほど自己の中にある悪を深く見つめた仏教の祖師はいない。悪の自覚と懺悔において親鸞ははるかに師の法然を凌駕した。

 そして、法然の阿弥陀仏のおかげでこの世から極楽へ往生するという往相廻向だけでなく、再び極楽からこの世に還ることができる還相廻向を説いた。極楽往生した人間は利他のためにそこにいつまでもとどまるわけにはいかず、この世に再び帰って、悩める人たちを救わねばならないというのである。この還相廻向こそ浄土真宗の要であると親鸞はいう。

 亰に帰った親鸞は著作にいそしみ1262年、90歳の天寿を全うした。法然が哲学者であったのに対し、親鸞は詩人であった。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。


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