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日本仏教をゆく 第3回

2019年11月07日 | ブログ
鑑真

 『すべての人々は仏になることができるとして、自分だけが悟りの境地に到ることだけを目指すのではなく、大きな乗り物(大衆)のように多くの人々を悟りに導くことを重要視する大乗仏教は、釈迦の滅後、紀元前後から興った仏教思想である。この仏教思想は、この世は無常であり、苦であると考え、出家して修行を積み、煩悩を捨てて自ら悟りの境地に至ることを目指す禁欲主義の原始仏教と異なり、ありのままの生命を肯定した。そして仏教は少数の人のものでなく、大衆のものとなったが、大衆的な仏教には、同時に堕落の影がさす。それは戒律の無視であり、僧尼の俗化である。・・・

 大乗戒の思想をこの国に伝えんとして、5度渡航を計画、5度失敗。密告、逮捕、投獄、漂流、難破、そして失明。あらゆる苦難が鑑真の運命となったが、鑑真の人類救済の意思は微動だにしなかった。ついに渡航の計画をたててより十二年目、66歳のときに奈良の都につき、東大寺に戒壇(僧侶が戒律を受ける儀式のために造られた壇。中国では3世紀頃から存在した)をつくる。・・・

 戦後、鑑真が有名になったのは井上靖氏の小説「天平の甍」昭和32年12月初版、中央公論社刊、の影響にもよろう。この小説は演劇にもなり、各地で上演され、鑑真の名をあまねく日本人に知らしめた。』

 以降本稿は、井上靖氏の小説『天平の甍』新装版(昭和54年)から引く。

 『・・・時の政府が莫大な費用をかけ、多くの人命の危険も顧みず、遣唐使を派遣するということの目的は、主として宗教的、文化的なものであって、政治的意図というものは、若しあったとしても問題にするに足らない微小なものであった。大陸や朝鮮半島の諸国の変遷興亡は、その時々に於いて、いろいろな形でこの小さな島国をも揺すぶって来ていたが、それよりもこの時期の日本が自らに課していた最も大きな問題は、近代国家成立への急ぎであった。中大兄皇子に依って律令国家としての第一歩を踏み出してからまだ九十年、仏教が伝来してから百八十年、政治も文化も強く大陸の影響を受けてはいたが、何もかもまだ混沌として固まってはいず、やっと外枠ができただけの状態で、先進国唐から吸収しなければならないものは多かった。・・・

 平城京はその経営に着手されてから二十三年、唐都長安を模したという南北九条、東西各四坊の整然たる街衢(がいく)は一応完成はしていたが、都の周辺には夥しい流民が屯し、興福寺、大安寺、元興寺、薬師寺、紀寺を初めとして四十余寺が建立されていたが、壮大な伽藍には空疎なものが漂い、経堂の中の経典も少かった。・・・

 二人の全く型の異なった若い僧侶、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)に、隆尊は持前のおだやかな口調で説明した。日本ではまだ戒律が具わっていない。適当な伝戒の師を請じて、日本に戒律を施行したいと思っている。併し、伝戒の師を招くと一口にいっても、それは何年かの歳月を要する仕事である。招ねぶなら学徳すぐれた人物を招ばなければならないし、そうした人物に渡日を承諾させることは容易なことではあるまい。併し、次の遣唐使が迎えに行くまでには十五、六年の歳月がある。その間には二人の力でそれが果たせるだろう。・・・

 この時、普照が入唐の話を承諾する気になったのは、十数年という長期に亘る唐土の生活が許されるということのためであった。・・・』(続)




本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊を基に、井上靖氏の小説『天平の甍』新装版(昭和54年)からの引用により構成しています。



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