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日本仏教をゆく 第8回

2019年11月22日 | ブログ
浄土教を広めた二人の聖

 法然・親鸞による鎌倉浄土教以前に、すでに浄土教は平安時代に発展し、日本人の多くが浄土教の信者になっていた。一つの思想が発展するときには、その思想の権化のような行の人とともに、その思想を理論的に明らかにする知の人が出現するものである。

 浄土教の発展は、行の人・空也と知の人・源信という二人の聖(ひじり)によるところが大きい。空也と源信には約40年の年齢差があるが、当時の人は空也によって浄土教信仰に心ひかれ、源信によって浄土教の素晴らしさを理論的に知った。

 空也は903年に生まれ、尾張国(愛知県)国分寺で出家した。父は醍醐天皇とも仁明天皇ともはたまた常康親王ともいわれるが、空也の残した宗教詩が、学識に裏づけされた比類なく高い調べをもちながら、どこかに深い疎外感、孤独感を宿していることからも、高貴な生まれの人であったと感じられる。

 空也は若き日、行基の如く日本の各地を遊行し、道を造ったり、井戸を掘ったりした。さらに生きし生けるものに異常なまでの愛情を示した逸話が多く残されている。空也が蛇に飲み込まれようとする蛙を哀れみ、錫杖(しゃくじょう)を振ったところ、蛇はやがて蛙を放ったという。

 彼は死人にもやさしかった。京都の東、六波羅のあたりは、昔は死骸の捨て場であり、骸骨が散乱していたが、空也はその骸骨を一か所に集め、阿弥陀仏(西方の極楽浄土にいるとされる仏)の名を唱えながら油を注いで焼き、そこに西光寺という寺を建てた。西光寺は後に六波羅密寺になったが、そこには日本の木造彫像の最大傑作の一つであろう空也の彫像がある。

 源信は942年に大和国(奈良県)に生まれ、9歳にして叡山に上り、天台宗の中興の祖といわれた良源の弟子となる。良源とは台密の完成者であり、今の延暦寺は、伝教大師最澄の寺であるというより、元三大師(がんざんたいし)良源の寺とみえるとまで言われる高僧である。

 源信は天性聡明、特に論理の才に恵まれ、37歳で『印明論疏四相違略注釈(いんみょうろんしょしそういりゃくちゅうしゃく)』という論理学の難問を解く書物を書き、学僧としての名声は高くなるが、母の名利よりも清らかな僧にとの願いから、横川(よかわ)に隠棲する。

 源信はまた984年、『往生要集』三巻の執筆を始めわずか6カ月で完成させた。源信44歳であった。たちまちこの書の写本が作られ、人々は争ってそれを読んだ。藤原道長も、紫式部も、後の鴨長明、西行もこの書物を愛読して多くの影響を受けた。

 源信は詩や書物ばかりでなく、絵や彫刻もよくした。特に地獄の世界の描写はすごい。あたかもサディストの如く、これでもかこれでもかと、悪いことをした人間が死後に往くべき地獄の世界の凄まじさを示すが、そこには人間の悪と苦への深い洞察がある。

 源信はこのような六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の徹底的に苦の世界、不浄の世界、無常の世界)の世界を離れて、浄(きよ)く美しい極楽を欣(ねが)い求めよといい、その極楽の比類なき浄さ美しさを経典から引用して語り、素晴らしい極楽の絵を残した。多くの画家が彼にならって多種多様の極楽の絵や阿弥陀来迎の絵を描いた。宇治の平等院は極楽のみごとな造形化である。

 この極楽への往生する方法が念仏である。源信の念仏はあくまで美的創造力を行使する観想の念仏であり、平安浄土教は多くの素晴らしい造形芸術を生んだ。



本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。

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