天台と密教の融合(台密)
最澄そのものは「法華経」(大乗仏教の経典)の強い信者であったが、仏教が国家鎮護の役割を引き受けるときに、やはり加持祈祷によって呪力を発揮する真言密教がどうしても必要であった。しかし密教の理解において最澄は空海に劣り、空海に教えを請わねばならなかった。それゆえ最澄の弟子たちは密教を本場の唐で学び、密教においても天台宗を真言宗の上に置こうとする強い願望があった。
最澄の後継者にあたる有力な僧に円仁(えんにん)、円珍が居た。円珍は円仁より20歳若く、二人は風貌・性格も対照的な僧であった。円仁は見るからに慈悲溢れる聖者の相であり、唐においても周囲の人々に気を遣い、また唐人たちも円仁を心から愛した。一方円珍は、頭は丸くとがってすりこぎ状で、甚だ珍奇な風貌をしていたばかりか、その知性はまことに鋭く、その言葉は一言で人を威圧した。仲間に対する疑惑や非難も手記に残し、毒舌を吐いた。人格の円満さを欠いていたようだ。
伝教太師最澄が開いた比叡山延暦寺はやがて座主制をとり、第一世の座主は最澄が入唐にあたって通訳を兼ねて伴った僧、義真(ぎしん)が就任した。義真は最澄の直接の弟子ではなかったため、最澄の弟子との派閥争いを生じた。義真の死後第二世座主は最澄の愛弟子円澄が着く。円仁は最澄門下のエースとして、唐で天台仏教とともに密教を学び、帰国後すぐに天台座主(ざす)となっている。一方円珍は義真門下のエースであり、円仁同様入唐僧であったことで、同様に天台座主になっているが、二人は最澄の直接の弟子か否かで派閥を異とした。すなわち最澄・円仁系と義真・円珍系である。
その対立は日々激しくなり、ついに円珍系の僧は叡山を下り、三井寺(園城寺)を根拠地として、山門仏教に対して寺門仏教を立てた。
このように円仁と円珍は派閥こそ異なるが、思想的には間違いなく円珍は円仁の後継者であり、両者によって日本の天台宗は大きく変貌した。それは天台と密教の融合であり、真言宗の密教に対して台密(天台宗の密教)という。
円仁は794年、下野国(現在の栃木県)都賀に生まれ、鑑真の門下の弟子が住職を務める生家の近くの大慈寺で僧となり、15歳で比叡山に上り最澄の弟子となる。学業きわめて優秀、温和な性格で最澄にかわいがられ頭角を現す。838年入唐し、当時の中国仏教界の碩学から天台教ばかりか真言密教や華厳を学ぶ。847年、円仁54歳で帰国。翌年に京都に帰ると伝燈大法師、854年天台座主。松尾芭蕉の句(「閑さや岩にしみ入蝉の声」)で有名な山形の立石寺(山寺)は860年に清和天皇の勅命で円仁が開いたと伝わる。上下の厚い尊崇を受け、864年71歳で死んだ。
円珍は814年、讃岐の国(香川県)那加の郡金倉郷に生まれた。母は佐伯氏の娘で、空海の姪にあたる。幼くして異常な学才を現し、828年叔父の僧仁徳に伴われて叡山に上り、義真の弟子となる。12年の籠山行を行って後、33歳で真言学頭となり入唐。6年後858年帰国すると、とんとん拍子に出世し、55歳という異例の若さで天台座主となる。数々の著作を残し、78歳で死んだ。
本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。