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日本仏教をゆく 第2回

2019年11月04日 | ブログ
役小角と行基

 聖徳太子の後に続く飛鳥・奈良時代の重要な僧として、役小角(えんのおづね)が挙がるが、太子に匹敵できる僧と言えば、行基(ぎょうき)となる。ただし、行基は役小角より半世紀ほど後の人であり、行基の中にはすでに役小角の影がさしている。

 役小角は大和(現在の奈良県)の葛城山に住み呪術で有名となり、朝廷の呪禁師(じゅごんし:病を治す呪文唱えることを仕事とする)の師となったが、人々を妖惑し、朝廷に反逆の心があるとの疑いを持たれ、699年に伊豆に流された(3年で放免)と続日本紀にある。しかし、その他については彼を知る確度の高い資料はほとんど残っていない。

 そんな役小角がなぜ聖徳太子の次にくるのか。日本の基層文化を縄文文化とし、日本という国家は、渡来した弥生族が土着の縄文人を征服してつくった国家である。この弥生人である最終的な日本の征服者がいわば皇室の祖先にあたる天孫族である。天孫族はもともと南九州に渡来したが、初代ニニギノミコト(天照大神の孫)の曾孫にあたる神武天皇がはるばる大和に出征し、ナガスネヒコ(長髄彦:大和の指導者)を殺害し、日本国の最初の王となる。

 弥生人に征服された縄文人は山に逃れた。縄文文化は甚だ呪術的な文化であり、役小角のように山人は縄文時代から脈々と伝わる呪術に長じ、また新しい呪術である道教や仏教を取り入れ、里人がとうていもつことのできない呪力を持ったのであろう。

 山や森は縄文時代以来、神のいるところであった。蘇我・物部の戦いという仏教と反仏教の天下分け目の戦いによって仏教側が勝利し、日本は仏教国となった。山に逃れた山人の心の奥には、怨念がたまる。本来その反逆性を持った修験を仏教は取り込み、反逆性を弱めたとも言える。

 仏教が山に入るとき、そこには必ず神がいて、何らかの意味で神と仏が合体し、役小角の如き信仰が生まれる。彼は修験道(修行者を山伏と呼ぶ)の祖として後々まで厚く尊敬されたのである。

 行基は、河内国に生まれ、西暦682年出家した。その後、仏教と社会事業を結び付けて精力的に活躍した僧、薬師寺の道昭(どうしょう)に師事し、やがて山野にこもり、山岳修行者となる。

 行基の活躍が目立つのは710年、すなわち、平城京遷都の頃からである。律令制の完成に伴い国家の統制が厳しくなる中、行基は僧の統制を乱すとして国家から非難された時期があった。しかし行基は、単に仏教の教えを説くばかりではなく、師である道昭にならって道を造り、橋を架け、地を掘り、旅人が泊まることのできる家を建てた。山岳修行者であった行基はこのようなことのできる工人集団を抱えていたのであろう。

 僧としての行基の評判は高く、行基が行けばそこに大勢の人が群れ集って彼の説法を聞いた。行基がとどまったところ、そこに道場ができ、寺には行基集団による多数の素木の仏像が残された。

 聖徳太子は死の前に、「私はこの国の皇子として生まれて仏教を広めたが、次には貧しい家に生まれて衆生を救済したい」と言ったというが、この太子の生まれ変わりが行基であるという伝承が強くある。

 行基はまことに貧しい女の私生児として生まれた。自らを「が子なり、海辺の旋陀羅(せんだら)が子なり」といった日蓮よりも。もっと身分の低い貧しい家庭であったという。このような生まれゆえに、彼は民衆の生活の苦しさをつぶさに知ることができ、多くの衆生を救済することができた。

 その民衆のカリスマは、東大寺建造という国家の一大プロジェクトに際し、民衆の協力が必要な国から大僧正という最高の僧位を授与され、大仏開眼3年前に82歳で亡くなった。

 千葉県鋸南町の鋸山にある日本寺(日本一の大仏(石像)がある)は、725年行基が聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けて開山したものである。



本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から多くを引用編集したものです。



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