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日本仏教をゆく 第4回

2019年11月10日 | ブログ
続、鑑真

 『・・・この寺の一室で一行は鑑真と会った。鑑真の背後には三十数人の僧が控えていた。この時鑑真は55歳であったが、骨格のいかにもがっちりした感じの大柄な人物で、額は広く、眼も鼻も口も大きくしっかりと座っており、頂骨は秀で、顎は意志的に張っていた。普照の眼には、准南江左、浄持戒律の者、鑑真独り秀で、これに及ぶものはないといわれている高名高徳な僧は、故国の武将に似ているように見えた。

 道抗が一行を紹介し終ると、栄叡は、仏法と東流して日本に来たが、単に法が弘布しているばかりで、未だに律戒の人がいない、適当な伝戒の師の推薦を賜りたいと言った。栄叡はまた聖徳太子のことを話し、・・・現在日本には舎人皇子(とねりのみこ)があって、皇子がいかに仏法を信奉し、伝戒の師僧を求めるに熱心であるかを語った。

 話を聞き終わると、鑑真はすぐ口を開いた。・・・諄々と説くようなその口調には魅力があった。

 「私は聞いている。昔南岳の思禅師(しぜんじ)は遷化の後、生を倭国(やまとのくに)の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度されたということである。またかかることも聞いている。日本国の長屋王子(ながやのおおぎみ)は仏法を崇敬して、千の袈裟を造ってこの国の大徳衆僧に施された。・・・こういうことを思い併せると、まことに日本という国は仏法興隆に有縁の国である。いま日本からの要請があったが、これに応えて、この一座の者の中でたれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか」

 たれも答える者はなかった。暫くすると祥彦(しょうげん)という僧が進み出て言った。

 「日本へ行くには渺漫(びょうまん)たる滄海を渡らねばならず、百に一度も辿りつかぬと聞いております。・・・」

 相手が全部言い終わらぬうちに、鑑真は再び口を開いた。「他にたれか行く者はないか」

 たれも答える者はなかった。すると鑑真は三度口を開いた。「法のためである。たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」・・・鑑真と、17名の高弟が日本へ渡ることが須臾の間に決まったのである。・・・

 もともと四人の日本僧の帰国のための渡航さえ非合法的なものであったが、況して唐土から鑑真ら18名、道抗ら4名、総勢20名を越える一団が日本へ渡るというのは表向きには許されるべきことではなかった。事はすべて隠密に運ばなければならなかった。・・・』

 鑑真は、西暦752年に派遣された遣唐使が翌年に日本へ帰るに従って無事日本についた。最初の渡航の計画から12年、6度目の航海であったことになる。すでに鑑真は盲目となっていた。

 奈良の都に着いた鑑真は、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇、太政大臣藤原仲麻呂らの熱い歓迎を受け、伝燈大法師(でんとうだいほうし)を賜り、大仏殿の前に設けられた戒壇で、上皇、天皇以下に戒を授けた。そして755年、東大寺に戒壇院が設けられ、翌年、鑑真は大僧都(だいそうず)に、鑑真の弟子法進(はつしん)は律師に任じられる。

 当時の日本になぜ優れた戒師を唐から呼び、戒の制度を確立する必要があったのか。当時僧になって課税を逃れようとする人民が多く、国家財政安定化のために授戒の制度が必要であり、僧の腐敗、堕落を正す必要もあった。

 そして確かに財政的要求を満たし、東大寺の地位も著しく高くなった。しかし、鑑真が大僧都になって2年後の756年、鑑真はその地位を失う。戒壇院をつくれば東大寺に鑑真という僧は必要なくなったのである。

 鑑真は新田部親王の邸宅の跡地を与えられ、759年そこに彼自ら唐招堤寺という私立の寺を建てた。

 鑑真の来朝以後、日本の僧侶の腐敗が改められることはなかった。戒の軽視あるいは無視が日本仏教の滔々たる流れになってしまったのである。

 鑑真は688年唐の揚州江陽県に生まれ、763年に日本で亡くなった。



本稿は井上靖氏の小説『天平の甍』新装版(昭和54年)からの引用に加え、梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊を基に編集しています


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