最澄
最澄は、日本天台宗の祖師である。近江国滋賀郡を根拠とする豪族である三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として767年に生まれた。空海の7歳年長である。
14歳で近江国分寺に入り得度し、19歳のとき、一人叡山に上った。彼の生家が叡山の登り口に在り、当時隠遁の僧が叡山に上って、庵を建てて隠棲することがあり、その影響を受けたこともあろうが、最澄には堕落した奈良仏教への強い嫌悪があり、人里離れた山中で新しい仏教を模索しようとしたのではないかと言われる。
当時、奈良の都で全盛を誇っていたのは華厳仏教であるが、天台仏教は、唐で栄えていた華厳仏教より一時代前の隋の時代に栄えた仏教であった。
最澄が、このように歴史の流れに逆行するような旧仏教の興隆が日本に必要であると考えたのは、彼が聖徳太子の仏教の伝統を継ごうとしたからで、太子の重んじた「法華経」を根本経典として巨大な思弁体系を構築した天台智顗(ちぎ)の教えを信奉する教団を日本につくる必要があると考えた。また、日本に戒律の教えを伝えた鑑真が天台宗の僧であり、鑑真および鑑真の弟子たちの厳しい戒律を守る精神に共鳴し、天台宗をもっとも優れた仏教と考えたためであろう。
孤独な隠遁者最澄に思いがけない光が差す。僧と高貴な女性との結びつきによって腐敗した奈良の都を捨てて、新しく京都の地に都を定めた桓武(かんむ)天皇との出会いである。桓武天皇は厚く最澄を崇拝し、彼を入唐還学生(にゅうとうげんがくしょう)に選んだ。空海が在籍20年の義務を持つ留学生に選ばれた時である。
最澄は在唐わずか9か月で、天台ばかりか禅、戒律、密教などを学んで帰ってきた。ただ、唐で十分真言密教を学んでこなかったため、空海にそれらの経典を借り、自分の弟子を空海の下で学ばせるなど、密教においては空海の下手の立場に置かれる。天台仏教を奈良仏教に代わる新しい時代の仏教にするには、国家鎮護と玉体安穏を祈る呪力が必要であった。巨大で思弁的な理論体系と止観というすぐれた修行の方法をもつ天台宗も、呪力の点で物足らなかったのだ。
時代は空海を寵僧とする嵯峨天皇の御代である。空海は最澄の要請を拒絶するようになる。両者の間には大きな亀裂が生じる。
最澄は「法華経」にもとづいて、すべての人間は仏性をもっていて、必ずいつかは仏になれると主張していた。その主張は鎌倉仏教に受け継がれ、日本仏教の大きな特徴となる。
また最澄は延暦寺に新しい戒壇の設立を望んでいたが奈良仏教の反対が根強く、生前に実現することは敵わなかった。彼は、奈良仏教の戒は真に大乗仏教の戒とはいえず、小乗仏教の戒も交じった不純な戒であり、純粋な大乗仏教の戒を与える戒壇を叡山に作るべきと主張していたのだ。
その戒壇は西暦822年、最澄の死後7日目に残された門弟の奔走で実現された。
本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から多くを引用編集したものです。