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日本仏教をゆく 第1回

2019年11月01日 | ブログ
仏教伝来

 仏教は、西暦552年、大和朝廷欽明天皇の御代、百済の聖明王によって日本に伝来した。歴史書に仏教伝来は538年としているものもある。いずれにしても時代区分ではわが国の古墳時代(3~7世紀頃、弥生~飛鳥~奈良時代)。この時代全国に多くの前方後円墳が造られている。大阪平野に残る仁徳天皇陵を中心とする「百舌鳥・古市古墳群」は今年ユネスコの世界文化遺産に登録された。

 仏教伝来から200年後の752年、東大寺(奈良、大仏殿)という巨大な寺が建立された。この200年で日本は仏教国家になったのである。仏教を日本国家の根底においた最大の功労者こそ聖徳太子(574-622)であった。

 聖徳太子は、「憲法十七条」(604年)や「冠位十二階」(603年)を制定したことで知られる。当時、わが国は中国文化を朝鮮三国の百済・高句麗・新羅を通じて受け入れていたが、未だ古い氏姓制(大和朝廷の政治的な身分制度で、氏(うじ)という血縁を中心とする集団が、姓(かばね)という家柄や職業に応じた称号を持つ)が支配する国家であった。太子は、日本を中国並みの成文法を持つ律令制(律:刑法、令:民法・行政法など、法律に基づく国家制度)の国にするため、遣隋使を派遣し、先進国中国の文化を積極的に移入した。

 太子は用明天皇の子として生まれたが、用明天皇の父は欽明天皇であり母は蘇我(稲目)氏の娘であった。蘇我氏は欽明天皇以上に熱烈な仏教の崇拝者であり、太子も幼いころから仏教崇拝の心を植え付けられたものであろう。太子が生まれた574年は仏教に懐疑的であった敏達天皇の御代であったが、没後用明天皇が即位した。しかし、用明天皇が亡くなると、崇仏の蘇我氏と排仏の物部氏の間で争いが起こった。このとき太子はまだ14歳であったが、木で四天王の像を造り戦勝を祈ったと言われる。争いは崇仏軍の勝利に終わり、崇峻(すしゅん)天皇が即位。この時「法興」という年号が制定されたが、それは日本が仏教国になったことを宣言するものだった。

 崇峻天皇は蘇我(馬子)氏と対立して殺され、敏達天皇の皇后であった推古天皇(欽明天皇の娘、用明天皇の同母妹)が即位する。推古天皇は太子の叔母であり、その摂政となり(593年)、蘇我(馬子)氏と共に政治を司ることになる。

 「憲法十七条」の第二条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧(ほとけのりほうし)なり」とあり、これははっきりとした仏教国家の宣言である。第一条の「和を以て尊しとなす」、第十条「忿(ふん)を絶ち瞋(しん)を棄て人の違ふを怒らざれ」や第十四条「羣臣(ぐんしん)百寮(ひゃくりょう)嫉妬あること無(なか)れ」も仏教の和の奨励、怒りの抑制、嫉妬の否定の思想である。

 「冠位十二階」も、身分の上下を問わず、広く才あり徳ある者を用いるという精神によってつくられている。太子はそれを実践した人でもあった。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から多くを引用編集したものです。



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