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安全考その8

2011年05月22日 | Weblog
交通安全

 昭和40年代に乗用車が国民の間に急速に普及した。私が社会に出た昭和41年には、100名くらいの独身寮で乗用車は3台程度、それも360ccの軽自動車だった。その年日産は1000ccのサニーを出し、翌年トヨタは「プラス100ccの魅力」とカローラ1100ccを出した。昭和43年には510型ダットサン、いわゆるニューブルーバードが発売された。4輪独立懸架が売り物で、スーパースポーツセダンでSSS(スリーエス)というグレードがあるのもかっこ良かった。蒸気機関車を颯爽と追い越して行くブルーバードのテレビのコマーシャル映像は車への憧れを強くさせた。価格は1300ccで60数万円。当時21歳の私の年収よりは少し高かったかと思う。

 そんな時節私の入社当時、すでに普通乗用車に乗っていた先輩がいた。工場柔道部の先輩で私が最も世話になり、また尊敬する先輩でもあった。その車種は410型ダットサン。ニューブルーバードの前身、日産の幸福の青い鳥ともなった二代目「ブルーバード」であった*17)。

 柔道部の夏の合宿は、日本三景のひとつ(現、世界遺産)宮島の鳥居のある裏側にあたる包ケ浦海水浴場で行ったりしたが、当の先輩の車に資材を積んで貰いフェリーで宮島に渡ったり、周防大島に会社の直営保養所がオープンして間もなく、その車に乗せて貰って二人出かけ、一晩飲み明かしたことなど、昨日のように思い出される。柔道も酒も人間としても敵わぬ先輩でもあった。

 その後に免許を取った私は、その先輩から次のような訓示をいただいた。「運転中道路で子供を見かけたら、それは地雷だと思え、触れればお前も吹き飛ぶ」と。それから丁度40年目になるけれど、今もその言葉は耳から離れない。運転するたびに思い出す言葉である。余談ながら現在私は、ブルーバード40周年記念車(平成12年製)エプリーズに乗っている。

 交通事故の悲惨さは、ここであらためて言うまでもない。交通事故の頭部損傷治療のため、脳外科手術の手法や技能が急速に進歩したとまで言われる。交通事故死のピークは昭和45年。年間16,765人の方が事故後24時間以内に亡くなっている。事故後1年以内の死者を加えると21,000人以上に膨らむ。当時は運転席のシートベルトさえ装備されておらず、道路や交通標識の整備も急速な車の増加に追いついていなかった。罰則規定もゆるく、運転者のモラルも低かった。

 その後、交通事故対策の向上もあって、交通事故による死者は漸減したが、10年後の昭和55年(約8500人)を境に再び増加し、平成4年11,451人という第2のピークを迎える。2009年のデータでは4,914人までと年間5千人を切るまでに減少しているけれど、先月18日の重機が登校中の小学生の列に突っ込むなど、悲惨な事故は後を絶たない。

 若者に死者が多いこともあって、交通戦争と呼ばれた昭和3,40年代と異なり、現在は65歳以上の高齢者の交通事故死亡者が若者(16~24歳)のそれの1.5倍ある*18)ことも様変わりである。

 とはいって、官民挙げての諸施策も功を奏して全体として死亡事故は減少する中、交通事故の総発生件数は2004年(平成16年)がピークであり952,191件。2009年(平成21年)では736,688件まで減少はしているけれど、まだ死者数が最大であった昭和45年(1970年)レベルにある。

 交通事故は現代でもなお、出かける時は元気だった家族を無慈悲に帰らぬ人とさせる懸念の強い安全への脅威である。その防止は、企業にとってはその安全管理活動の一環であり、次代を担う子供たちにとっては最重要である。そのためには、職場や学校で交通KYT(危険予知訓練)を取り入れることが、事故防止に有効であると思う。行政による道路や標識のさらなる整備、メーカーによるデジタル技術を駆使した車の安全対策とともに、人への訓練を忘れてはならない。












*17)ここらあたりのエピソードを含め、新車発売年次、価格などは私の記憶によるもので、不正確の部分はご容赦ください。
*18)平成4年に逆転している。高齢者の増加、若者の車離れも要因と思われる。
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