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閑話つれづれ其の7

2008年08月17日 | Weblog
友情と遺恨

 東京オリンピック柔道無差別級決勝を争ったヘーシングと神永先生はその後友情で結ばれ交流があったようだ。神永先生が網膜剥離を患った折にも、ヘーシングは見舞っている。

ヘーシングの勝利の瞬間、興奮したオランダ関係者が試合場に駆け上がろうとしたのを、ヘーシングは厳しく制した。柔道はじめ日本の武道はショーとして発達したものでないため、観衆にアピールするようなポーズは本来とらない。敗者に対する労わりもある。囲碁や将棋にもその傾向は顕著だ。ヘーシングは確かに神永先生を圧倒したけれど、彼は日本の武道を深く理解しかつ謙虚であった。その技においては神永先生を尊敬するところが大きかったのだと思う。その気持ちが両雄の友情に繋がったのであろう。

 思えばあの頃の柔道は美しかった。北京オリンピックの柔道でみる通り、最近の国際柔道は、まず中々組み合わない。レスリングのように始めから手で足ばかり狙うことも多い。何がなんでも勝ちたいいという勝利への執念は大切であるが、勝利に至る工程が美しくないと、延いてはその種目の衰退に繋がりかねない。神永先生もヘーシングも正々堂々の美しい攻防を繰り広げた。

 話を本題に戻そう。そんな中、東京オリンピックで柔道無差別級を制した全盛期のヘーシングを見て、「私だったらヘーシングに勝てる」と断言した柔道家がいた。「柔道の鬼」、「昭和の姿三四郎」、「木村のまえに木村なく、木村のあとに木村なし」などと謳われた木村政彦である。柔道史の上で鬼の名を冠せられるのは横山作次郎(講道館四天王の一人)、徳三宝、牛島辰熊そして木村政彦である。

 戦前から戦中にかけて、相撲の双葉山、将棋の木村義雄14世名人そして柔道木村政彦は常勝の庶民のヒーローであったそうな。拓殖大学の後輩にあたる極真空手の創始者大山倍達も木村を兄貴と慕い敬っていた。木村政彦は強く、そして人間的にも魅力溢れる人物であったようだ。

 その木村は戦後プロ柔道に転じ、プロレスラーともなった。そしてかの有名な力道山との一戦がある。木村はすでに全盛期の木村ではなく、ショーとしてのプロレスを生業としていただけだ。一方力道山には野心があったのではないか。日本一のプロレスラーは自分であると。試合前の申し合わせは反故にされ、突如真剣勝負にさらされた木村は大観衆の前で打ちのめされる。

 この顛末に、本人は勿論、木村の熊本県鎮西中学の大先輩であり拓大での柔道の恩師でもあった牛島辰熊、極真空手の大山倍達らは逆上した。大山は一時力道山を付狙い、路上勝負も厭わぬ構えであったとある。その後力道山は、テレビの普及とも相俟って外人悪役レスラーをやっつける庶民のヒーローとして大活躍する。しかし、ヤクザの短刀に不慮の死を遂げる結末を迎える。

 正々堂々の勝負は友情を育み、あるショーの顛末は恨みしか残さなかった。


  
本稿は、工藤雷介著「秘録日本柔道」および原康史著「実録柔道三国志」に加えて、木村政彦著「鬼の柔道」(株)講談社昭和44年刊および
  大山倍達著「大山倍達わが空手修行」(株)徳間書店昭和50年刊を参考にさせていただきました。
  なお、本稿では登場していただいた方のほとんどに、敬称を略させていただきました。ご了承ください。
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