中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

歴史に学ぶ 第9回

2018年06月25日 | ブログ
(続)上杉鷹山

 鷹山は1751年7月、日向の国(宮崎県)高鍋藩主秋月種美の次男として江戸の麻布で生まれた。母は筑前の秋月城主黒田甲斐守の娘で、米沢藩の8代藩主上杉重定のいとこに当たる。重定に男の子がいないと知り「私の方に秋月の次男で松五郎(鷹山の幼名)という子供がいます。まだ九つですが、とてもりこうな子です。それに、毎日の遊びなども、普通の子供と違って、みんなの褒めものになっています。この子を養子に推薦します」この養子縁組は鷹山10歳にして成り、17歳で重定の娘である幸(よし)と結婚し9代目の米沢藩主となる。

 しかし、鷹山と同い年である幸は生まれながらに心身障害者であり、17歳にしても幼女のような肉体と精神状況は変わらなかった。若き鷹山は、日々障害者の妻のために、紙で鶴を折って持っていった。幸は、それを糸でつなげて、鶴が日々増えていくのを手を打って喜んでいたと言う。

 鷹山のこのような優しさは、身分の低い足軽から藩士にまで差別なく、そのことが心ある藩士に伝わってゆく。

 「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、良い人のまわりには良い人が、悪しき者のまわりには悪人ばかりが集うものである。米沢藩の心ある藩士は鷹山に期待する。この殿様なら我々の藩を良くしてくれるのではないか。

 鷹山は、江戸屋敷のこれはと思う藩士を集めて、財政再建のための藩政改革案の作成を命じる。「しかしその目的はただ一つ、藩内の弱者を労わる政治を実現したい。米沢藩の藩政改革は民を富ませることにある。藩政府が富むことではない」。

 「上杉家は、大家から小家になった。しかしそれにも拘わらず、藩の上下は、諸事についていまだに大家の昔を慕い、家格に囚われている。・・・これほど衰えた藩をどうしたら立て直すことが出来るだろう。・・・皆がギリギリの力を出し合って努力するしか道はない。どうか頼む、最後の努力をしてくれ、この通りだ」と鷹山は藩士に向かって頭を下げたという。

 鷹山の藩政改革が現代の経営学に通じるところがあるとするなら、それは、「あらゆる生産物に付加価値を与えよ」ということであったろう。米沢藩の気候や土壌に適した漆や楮(こうぞ)や桑、藍、紅花などを増産し、それを藩内で加工すれば非常に利益を生む。塩分を多く含んだ温泉から、塩まで生産したという。他藩から技術者を招いて作り方を教わり、原料の農産物は武士も植林に、加工には武士の妻も労力として動員した。250年前にすでに女性活用を実践していたのだ。

 江戸中期には、8代将軍吉宗の幕政改革が有名で、吉宗は徳川幕府中興の祖と呼ばれるほどだ。しかし大奥と称して、将軍一人のために1000人もの女性を抱えていた幕府と、米沢藩とでは窮乏状態は天と地ほどの違いがあったのではなかろうか。

 「ほんとうの優しさをもつことのできる人は、しっかりした心構えのある人きりだ。優しそうに見える人は、通常、弱さだけしかもっていない人だ。その弱さは、わけなく気むずかしさになり変わる」上杉鷹山が本物のやさしい人だったからこそ乗り越えられた改革であった。



本稿は、童門冬二著、「上杉鷹山の経営学」1992年初版。PHP研究所刊を参考にしています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歴史に学ぶ 第8回 | トップ | 歴史に学ぶ 第10回 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ブログ」カテゴリの最新記事