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続、この国の風景その6

2011年12月16日 | Weblog
開戦記念日

 12月8日は米国との太平洋戦争の始まりの日である。今年は丁度70年の節目にもあたる。毎年終戦記念日ほどではないけれど、先の大戦を振り返る機会となり、いろんなところで論評が見られたりする。工業力、軍事力に圧倒的に差のある米軍との無謀な戦争になぜ突き進んだのか。海軍は緒戦で勝利し早期講和に持ち込むことを算段し、陸軍は三国同盟国のドイツがヨーロッパ戦線で勝利し、米国さえ挟み撃ちにできると考えたのであろうか。

 日清日露の大国相手の戦争を勝ち抜き、第一次世界大戦でも勝者側になったことで、軍や国民の多くに慢心があったことは否めない。日露戦争は現在NHKで「坂の上の雲」が佳境であり、12月4日、11日の放送では旅順要塞への攻撃や203高地の攻防がリアルに表現されていたけれど、機関銃掃射の露軍に対してまさに日本軍は肉弾戦。多くの死傷者を出した上のギリギリの勝利であった。それも月日が経てば、勝ったという結果だけが独り歩きする。

 テレビの脚本は、司馬遼太郎の言う「戦下手」の第三軍司令官乃木希典に代わり、児玉源太郎が指揮を執るべく現地に赴いた時のやりとりを、原作*15)に忠実になぞっている。児玉大将は第三軍参謀長の伊地知少将に対して、罵声を浴びせかける。児玉にすれば、「この無能な参謀長のために死なずに済んだ兵がどれだけむざむざ敵の銃弾に倒れたか」との想いがある。現代の倒産企業にもありそうな話だ。私たちに事実は知り得ない。しかし、その後児玉の執った作戦によって、短時間に敵を制圧できた結果をもってすれば、司馬遼太郎の小説での考察が事実に近いものであろう。

 なぜ重要拠点の戦いの司令官に乃木を立て、伊地知を参謀長にしたのか疑問もある。軍はこの国の中で大きくなっていったが、その崩壊の兆しは、この203高地での戦いに見られるのではないかと思う。そして、「坂の上の雲」で司馬遼太郎が言いたかったことも、ともすれば戦争という究極の機能性が求められる状況の中でさえ、経歴とか人格とか二次的評価で人事を行い、専門家という権威が過去の型に執着するこの国の統治習性を糾弾したかった*16)のではないか。

 現在の日本に置き換えれば、先にも書いた大阪秋の陣の風景を思い浮かべればいい。橋下氏の猛りは児玉大将のそれとダブル。この機に及んで既得権者をのさばらせておれば、近くこの国は滅ぶ。大阪だけの改革ではないのだ。203高地への進攻は、バルチック艦隊に備える海軍のためでもあった。ここで失敗すれば旅順のロシア艦隊は温存され海軍の勝利も覚束ない。そして国は滅ぶ。

 日頃選挙に行かない政治に無垢の人々は勢いに乗る。投票率は上がり橋下氏は勝った。ただ、橋下氏の戦いはこれから始まる。この機に及んでも政府は国民が喜びそうな景気対策を名目にした補助金や減税などは先行させ、既得権者への手入れは先送りした。

 太平洋戦争に突き進んだ当時のこの国の指導層にも当然反戦派はいた。しかし、アジア諸国を植民地化し、大陸はじめその多くの権益を手中にした自分達は正当化し、日本の進出に異を唱える欧米各国への反発は強く、北にソ連の脅威あり、石油を止められては、日本は生きてゆけないという恐怖が、民衆にさえ浸透した大きな流れは止めることはできなかったのであろう。

 あまりに大きな犠牲を払った戦争であったけれど、もし日本が戦わなければ白人のアジア支配はさらに長く続いたであろう。戦後教育の中で、太平洋戦争を含む近代史を子供たちに多面的に伝える必要があった。マスコミなどを通じて一方的にこの国の過ちばかりが強調されてきた感がある。そのことが現在の無能の左翼政権を生んだ素地であり、この国の風景を悲しい色に染めている。そんなことを想う70年目の開戦記念の季節である。







*15) 司馬遼太郎著、「坂の上の雲」第四巻(全六巻)「203高地」、文藝春秋社昭和46年刊
*16)『・・・専門家にきくと、十中八九、「それはできません」という答えを受けた。・・・「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」』と作中*15)で児玉に言わしめている。
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