中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

閑話つれづれパートⅡその20

2009年10月28日 | Weblog
続、デジタル化

 手塚治氏の「鉄腕アトム」がハリウッドによるアニメ映画化もあって、復活している。確かに「アトム」が視野に入るほど、人型ロボットが実用化されつつある。アトムが10万馬力(ジャンボジェット機並み)で空中をマッハ3(=音速の3倍)で飛ぶと、風を切る頭部は、空気抵抗で1000℃以上の温度になるそうである。しかし、それだけの耐熱性を有した炭素と珪素から成るプラスチックも開発されているようだ。

 また、美人の受付嬢ロボットは、体重か何かを問いかけた男性のからかいに、顔をゆがめて、不愉快さを表現したと聞いたけれど、集積回路とコンピュータソフトの発達によって、限りなく人間の感情に近い表現力を持つ人型ロボットが完成するのもそう遠くない気がする。

 そんなことを考えていて思ったのだけれど、コンピュータが人間に近づくと同時に人間もまたコンピュータに近づいて、お互いに歩み寄っているのではないか。日本の幕末の頃、日本人はよく泣いたという。国を憂い、家族を想い、己の使命を思い、議論が沸騰しても泣いたという。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という逆説的な表現もあるし、「男は泣くものではない」、「人前で泣く男を信用するな」などとも聞くけれど、これらもケースバイケースで、兎に角現代人は泣かなくなった。それだけ感情の襞が少なくなっているのではないか。

 学問に励むこと、スポーツの世界で、芸術の世界でまた職人が技を磨くこと。それらに共通するキーワードは、己の感性を高めることにある。極め抜いた暗黙知をいかに形式知に変えるかという役割の人材も必要だけれど、兎も角修業は感性を鍛えることは間違いないし、そもそも修業の目的は感性の陶冶にあると考える。

 昔は、「床屋の政治談議」などと庶民が語り合う政治評論は、大筋で間違いが少なかった。そもそも民主政治における国政選挙では、感性以外に候補者を選択する尺度はない。マニフェストなどは、あくまで補助的なツールでしかない。それを逆転させるアピールを行い、「お客様は神様です」と同じレベルの発想で選挙を行う政党が登場した。

 何でも便利になった世の中で、テレビを見て暮らす現代人は修業の機会を少なくしているだけでなく、自身で考える機会さえなくしている。己が必死で求めない限りその感性が陶冶される機会は少なくなっている。先の選挙結果に国民が賢くなったなどと迎合する向きもあるけれど、当時の与党のリーダー不在と稚拙な候補者選びや内部抗争のドタバタを差し引いても、現実はデジタル化された大衆の感性の衰退を示すものでしかない。