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閑話つれづれパートⅡその16

2009年10月16日 | Weblog
幻の東京オリンピック

 石原知事が独断先行したというイメージもあってか、国内の盛り上がりを欠いたという減点もあって、2016年のオリンピック開催地候補東京は、結局シカゴの次に落選してしまった。しかし、客観的にみて今回はリオで正解ではないか。知事はじめ当事者たちからすれば、納得がいかないかもしれないが、所詮オリンピックが参加することに意義があることと同様、開催都市選考レースにも参加することに大いに意義がある。150億円以上ともいわれる招致費用の責任問題云々もあるけれど、十二分に健闘した招致チームであれば、その労をねぎらってこそあれ、誰にも責任など無い。国民一人150円足らずで、都民一人当たりにしても1500円程度の夢をみたと思えばいいのではないか。開催地リオデジャネイロへは、東京に開催準備ノウハウがあるなら教示して大いに協力すべきであろう。

 冒頭に「石原知事が独断先行したというイメージもあってか」と書いたけれど、現在の日本では何かあればリーダー不在とブツクサ言う癖に、リーダーシップを発揮すれば民意のコンセンサスがどうとかまた文句をいう。確かにリーダーシップの発揮に巧拙もあろうが、東京オリンピックなど石原知事くらいでなければ発想できない。

 それにしても、落選が決まったその直後のテレビの報道番組で、コメンテーターの一人が「私は東京に住んでいるけれど、今でもオリンピックを東京に招致する意義が分からない」のような発言をされていた。人それぞれで、思想は自由で勿論発言は自由である。しかし、人情の機微として招致委員が一生懸命頑張り、たとえ形だけであろうが1国の総理も出向いた招致レースであるなら、全国ネットのテレビのこと、もう少し言い方もあるのではないかと思ってしまった。そこらあたりにも、この国の知識層といわれる人々の「知の衰退」をみる思いがした。

 私は山口県に住まう頃、広島市が近かったこともあって平和公園にはよく行った。かの地でアジア大会は開催されたことがあるけれど、広島でオリンピックはいいのではないかと考えたことがある。都市機能や財力もあって無理なのかもしれないけれど、これまで国内選考都市にも立候補していないのではないか。核廃絶のオバマ大統領のノーベル平和賞もあったことだし、周辺地方都市の活性化の目論見も含めて、平和都市ヒロシマへのオリンピック招致を企画して欲しいものである。

 と、これを書いた翌日(10月11日)の新聞の一面を見て驚いた。広島、長崎共同で2020年のオリンピック招致を行うというのである。私はこれまでも書いてきたように夢想する理想論は好きではない。しかし、オリンピックは例えばディズニーランドがひと時の夢の世界に人々を誘うように、たとえ架空であったとしてもその空間においては、確かな平和の世界が現出されるものなのだから。広島、長崎は世界の平和の祭典に相応しい地であろうと思う。