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閑話つれづれパートⅡその17

2009年10月19日 | Weblog
書と政治家

 文藝春秋11月号の『現代政治家「文字」に品格を問う』は、やっぱり来たかという感じである。社民党党首の丸文字で話題になった、例の「三党連立政権合意書」の3党首の直筆署名の感想に始まり、『・・・だからこそ私は言う。政治家諸君、書に向き合いたまえと。書や詩に向き合うことは政治に向き合うことを意味する。書や詩の不在は、政治の不在を意味するのだと。』で終わる、書家で京都精華大学教授の石川九楊先生の論評である。書を命とされる先生方には、いかに文明の世といえど、国のリーダー層が書を疎かにしていることに一言、いいたくなるお気持ちは十分に分かる。

 それにしてもこれは私などにも耳の痛い話ばかりだ。私は別に政治家でもなければ、それを目指す者でもないが、やはり日本人に生まれながら書のひとつのたしなみもなく、和歌も解せぬ身には、このような話は辛い。外資系企業に勤めながら英会話も出来なければ、出世はおぼつかないのは当たり前だけど、「書」どころか政治のイロハも分かっていないと思われる人でも国会議員に成れるところが、民主主義の緩いところでもあり、まあいいところかもしれない。

 ともかく「書」については、世のリーダーに求められる資質というものも時代とともに、シフトするということでもあろう。しかし、石川先生の論評は恐らく正しい。書に向き合うことで、ある意味精神が陶冶され、自身の経験知識というものが己の信念に沿って集中してゆくものであろうと思うからである。

 しかし、現代の政治家に書が必須科目かというと、それぞれ個人の価値観でいいようにも思う。書は中国や日本では重用されても、元々欧米の政治家には無縁の代物だ。それでいて政治力は欧米の政治家が劣るわけではない。日本では、例えば大平元首相に代表されるような「アー、ウー」政治家でも十分通用した。すなわち「巧言令色鮮し仁」「沈黙は金」のお国柄だ。書は評価されても、すぐれた演説の妙はあまり評価されていなかった。反して欧米では、現在もオバマ大統領に代表されるごとく、いかに言葉で聴衆を魅了するかの話術を必要とした。最近のグローバル化は日本でも明らかにそちらのスキルが政治家に要求されるようになった。英会話くらいは必須となりそうである。政治家に書が疎かになっても仕方がないところもあるように思う。