柔道と私(3)
初段のまま実業団柔道界の片隅に踏み込んだ。そして分かったことは、全日本クラスの選手以外はあまり昇段を目指さないことである。相当に強い連中が、高卒で企業に入った連中だけれど初段のままやっていた。当時はいろいろな柔道大会は体重別ではなく、段位分けが普通だったためもある。団体戦ではチーム5名で合計段数10段以内というような制限がついた。低段位のまま強いメンバーを揃えたチームが有利だったのだ。
西隣の市内の柔道大会では個人戦は初段以下と弐段以上に分かれていた。就職して昇段試験を受けなかった私は、その初段以下の部に出場し昭和43年から45年まで3年連続優勝を果した。その前年までのチャンピオンは、市内企業の体重100kgを超える選手で、その方が転勤で居なくなったこともある。その選手は数年後、転勤先の地区代表として全日本選手権に出場されている。そのレベルの人が初段で試合していたのだ。
一方東隣の市にある柔道名門企業は、県内柔道有力高校から柔道選手に試合をやらせて採用すると聞いたが、その企業の若い選手も段位は大抵初段だった。柔道有力高校で抜群の者が、東京はじめ各地の柔道で名をなす大学に進学して技を磨く。高卒のまま企業に就職した者はその点落ちこぼれに思えるが、その時点の実力で、普通の大学の柔道部で三段を取って卒業した者より強いはずである。入社数年後には、初段のまま大会に出て現役の5段を投げ飛ばした猛者も居た。
入社試験で柔道の試合をやらせるというのは、私の先生(柔道師範)の奥様の話である。「あの会社の道場には練習に行ってはいけませんよ。怪我をさせられます。あの会社は柔道選手に試合をさせて採用するのですから」。豪の者を多く見ておられる先生の奥様からすれば、上背はあっても細身の私がさぞひ弱に見えておられたことだろう。しかし私の入社3年目、再開された近郊工場の柔道大会で私は彼らと同等以上の闘いを演じることになる。さらに昭和45年の西日本柔道大会には、私は主将としてチームをベストエイトに導いた。準々決勝の相手はその大会の優勝チームで、全日本実業団大会でも常勝のチーム。そのチームの先鋒は高卒の初段だったけれど、その後世界選手権軽量級で2連覇を果した当時からすでに有望視されていた選手だった。わがチームの先鋒は、見事な足払いに数秒しか持たなかった。勿論相手は違うが、私だけは5分間戦った。
その年の秋、柔道を断念せざるを得なくなるまでの入社5年間の対外試合の成績は116勝34敗26引分け。勝率.773であった。
初段のまま実業団柔道界の片隅に踏み込んだ。そして分かったことは、全日本クラスの選手以外はあまり昇段を目指さないことである。相当に強い連中が、高卒で企業に入った連中だけれど初段のままやっていた。当時はいろいろな柔道大会は体重別ではなく、段位分けが普通だったためもある。団体戦ではチーム5名で合計段数10段以内というような制限がついた。低段位のまま強いメンバーを揃えたチームが有利だったのだ。
西隣の市内の柔道大会では個人戦は初段以下と弐段以上に分かれていた。就職して昇段試験を受けなかった私は、その初段以下の部に出場し昭和43年から45年まで3年連続優勝を果した。その前年までのチャンピオンは、市内企業の体重100kgを超える選手で、その方が転勤で居なくなったこともある。その選手は数年後、転勤先の地区代表として全日本選手権に出場されている。そのレベルの人が初段で試合していたのだ。
一方東隣の市にある柔道名門企業は、県内柔道有力高校から柔道選手に試合をやらせて採用すると聞いたが、その企業の若い選手も段位は大抵初段だった。柔道有力高校で抜群の者が、東京はじめ各地の柔道で名をなす大学に進学して技を磨く。高卒のまま企業に就職した者はその点落ちこぼれに思えるが、その時点の実力で、普通の大学の柔道部で三段を取って卒業した者より強いはずである。入社数年後には、初段のまま大会に出て現役の5段を投げ飛ばした猛者も居た。
入社試験で柔道の試合をやらせるというのは、私の先生(柔道師範)の奥様の話である。「あの会社の道場には練習に行ってはいけませんよ。怪我をさせられます。あの会社は柔道選手に試合をさせて採用するのですから」。豪の者を多く見ておられる先生の奥様からすれば、上背はあっても細身の私がさぞひ弱に見えておられたことだろう。しかし私の入社3年目、再開された近郊工場の柔道大会で私は彼らと同等以上の闘いを演じることになる。さらに昭和45年の西日本柔道大会には、私は主将としてチームをベストエイトに導いた。準々決勝の相手はその大会の優勝チームで、全日本実業団大会でも常勝のチーム。そのチームの先鋒は高卒の初段だったけれど、その後世界選手権軽量級で2連覇を果した当時からすでに有望視されていた選手だった。わがチームの先鋒は、見事な足払いに数秒しか持たなかった。勿論相手は違うが、私だけは5分間戦った。
その年の秋、柔道を断念せざるを得なくなるまでの入社5年間の対外試合の成績は116勝34敗26引分け。勝率.773であった。