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閑話つれづれパートⅡその9

2009年09月25日 | Weblog
柔道と私(4)

 日本では、国の隅々にまで、囲碁や将棋の高段者が居る。そして剣道や柔道にも高段の先生は居られるものだ。囲碁や将棋は古来日本人の豊かな感性と創造性、論理性を育んできた。そして武道は体力と精神力を陶冶し、相俟って民族的資質の向上に貢献してきたのではないか。

私が入社した工場を含め周辺には、城下町として古来武道を受け継ぐ先生方や、戦後の柔道に尽力した企業の師範の先生方がおられた。私の工場柔道部の師範は、京都武専のご出身で、戦前は台湾で警察官の師範を務めておられた達人。西隣の市の企業の師範は、柔道師範としてその企業に招かれて社員となられた先生。海軍経理学校に学ばれ海軍時代には、全海軍柔道大会で準優勝するほどの実績を持ち、早くに八段に昇られた猛者。この先生には私は近隣のよしみもあって活法、指圧、古流柔術の手ほどきを受け、柔道の高度な形を教えていただいた。

柔道の形は、初段から昇段試験に必要なため、「投げの形」くらいは一般に教えて貰えるのだけれど、それ以上の形はめったに教わる機会はない。教えられる指導者も居ない。先生には「固めの形」、「極めの形」、「柔の形」、「講道館護身術」や「精力善用国民体育の形」まで教えていただいた。「精力善用国民体育の形」とは、城山三郎「落日燃ゆ」のドラマで広田弘毅首相がやっていた「拳突き体操」を思い浮かべていただければいい。

東隣の市の柔道名門企業には、昭和29年第3回全日本学生優勝大会の決勝戦で、日大の大将を得意の左内股に破り優勝に導き、その年の第6回全日本東西学生対抗では、勝利した東軍の大将を務めた*2)、そんな往年の大選手がおられた。

私が入社して配属された職場に、地元高校で柔道部だったという先輩がいた。小柄だったけれど、がっしりした体躯で、何より極端なガニ股だった。高校時代その工場の柔道場によく練習に行ったそうで、その時に見聞した話を聞かせてくれた。先の学生柔道大会を制した大選手を迎えたその工場柔道部には黒帯が30人ばかりいたそうである。一堂に集まった30人を向こうにまわして、連続して29人までを右の内股に仕留め、最後の一人、大将だけを得意の左内股で投げたという。学生時代には、東京の繁華街を治める親分に見込まれ、バーで飲むのにお金は要らなかったそうな。しかし、練習は過酷で主将であっても、練習をサボルと皆から徹底制裁を受けたという。神永先生やそして現在講道館を率いる上村春樹先生の大学の大先輩にあたる方だ。

その先生は、我々の工場対抗柔道大会には審判等で必ず見えていたが、私の工場師範からすれば大分若かったわけで、しっかりと礼を尽くしておられる姿が印象深い。一度だけ声をかけていただいた事がある。柔道が出来なくなってチームの応援で出向いた試合場で、一言「強かったのにな」と言って下さった。勿論強さの定義はいろいろである。ただ、一生懸命取り組んでいた姿を認めていただいたものと嬉しかった。


*2)工藤雷介著「秘録日本柔道」東京スポーツ新聞社版 昭和50年9月刊
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