漫画映画の志(再掲)

「漫画映画の志」(高畑勲 岩波書店 2007)
副題は、『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』。

「ポニョ」を観てからジブリブームになり、この本も読んでみた。
内容は、副題のとおり、「やぶにらみの暴君」と「王と鳥」についての研究書といえるもの。

個人的に、処女読書問題とよんでいる問題がある。
ある作者の作品がABCとあり、Aができがよく、Cができが悪いとしたら、読者が最初に接した作品によって、作者の印象が決定してしまうというもの。
第一印象をぬぐうのはむつかしい。

この問題のヴァリエーションに、作者が自作を書きかえるというものがあると思う。
いちばん有名なのは、井伏鱒二の「山椒魚」の書きかえだろうか。
書きかえるまえの作品が好きだった読者にとっては、これは大事件。
でも、作者の手によるものだから、いかんともしがたい。
「山椒魚」では、たしか亡くなった書評家の向井敏さんが、作者にもとのままにしてほしいと訴えた文章を書いていたと思った。

で、本書だけれど、同種のことは、ポール・グリモー監督、ジャック・プレヴェール脚本によるフランス産アニメーションの傑作、「やぶにらみの暴君」でも起こった。
ことのはじめは、映画がいつまでたっても完成せず、資金の底がついたため。
プロデューサーが監督を追い出し、勝手に作品を完成させ上映してしまった。
これが、「やぶにらみの暴君」。

1955年、当時学生だった高畑監督は、この作品に感激し、アニメーションの道を志すことに。

ところが、グリモー監督は不屈の闘志のもち主で、裁判で勝利したあとネガフィルムを買いもどし、資金をあつめ、プレヴェールと構想を練りなおして、この作品を「王と鳥」として復活させる。
しかし、つくりなおされた「王と鳥」を観た高畑監督は、深く落胆。

普通なら落胆し、不満をもつだけで終わるのだろうけれど、高畑監督はちがった。
両作品を、制作過程から映像表現まで、徹底的に比較し、両者を止揚させるという挙にでた。
それが本書。
すさまじい力業。

「やぶにらみの暴君」は、権利をとりもどしたグリモーにより、ニセ作品としてお蔵入りの憂き目に遭う。
でも、世の中には、ディレクターズカットなどというものがあり、それが公開されたところで、だれも元がニセ作品だなどといわない。
だから両方観られるようにしてほしい、と高畑監督は訴えている。

「やぶにらみの暴君」は観たことがないけれど、「王と鳥」はDVDの旧版で観たことがある。
とにかく、静かで、うごきがなめらかだった。
静かな印象は、カメラが引いていて、バストショットがほとんどないせいもあるかも。

「〈現代史〉をまるごと隠喩で捉えようとする空前絶後の試み」とは、DVDの旧版に記された高畑監督の文句。
「王と鳥/やぶにらみの暴君」が長い生命をたもったのは、この隠喩のためだろうと、このDVDを観た者として思った。
隠喩の海のような作品は、容易な改変では、その魅力は失われないにちがいない。

高畑監督が指摘するように、新作カットは稚拙なので、容易にそれと判別できる。
色はじつに渋い。
いい色だなと思っていたら、本書によればDVDの旧版の色彩は退色したためであるらしい。
2006年の劇場公開時に修復したというから、DVDの新版では「パステルカラー」とよばれたその色彩が再現されているはず。
でも、それを観て、いい色だなと思えるかどうか、最初の印象を払拭できるかどうかはなんともわからないことだ。

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政治と秋刀魚(再掲)

「政治と秋刀魚」(ジェラルド・カーティス 日経BP社 2008)
副題は、日本と暮らして45年。

著者は高名な政治学者。
この本は著者が日本語で書いたそう。
一般に、日本語を母語としないひとが日本語で書いた本は、文章が明快で読みやすいものだけれど、この本もその例にもれない。

本書は、著者と日本とのかかわりを中心とした回想記。
日本と暮らして45年だから、ほとんど自伝。
前半は日本とのかかわり、後半は「日本政治は当然、日本社会の特徴を反映する」として、日本社会の変化とこれからの展望を語っていて、とても示唆に富む。

面白いのは、なんといってもディティール。
1964年、はじめて来日した著者は、タクシーの運転手に「日本語が上手ですね」といわれて感激する。
まだ、外国人がめずらしかったころのお世辞で、いまではこうはいかない。
著者いわく、「日本語が上手ですねとタクシーの運転士さんから言われる時代に日本を訪れることができたことを、今でもありがたいと思っている」。
ありがたい、ということばづかいがうれしい。

はじめてカレーライスを食べたときのこと。
郷に入っては郷に従え、というわけで、著者はボーイさんに「お箸ください」と頼んだ。
必死で箸をつかいカレーライスを食べていると、周りの日本人はだれひとり箸などつかっていない。
著者は、スプーンで残りのカレーをかきこみ、逃げるように店をあとにしたという。

日本の政治研究者としての体験も面白い。
著者は、中曽根康弘さんの紹介で、大分2区から出馬する佐藤文生さんのもとで、選挙活動をつぶさに見学する機会を得る。
おそらく、そのとき仕入れた知見かと思うけれど、昔の別府市長がやっていた驚くべき選挙運動を紹介している。

公職選挙法では、戸別訪問は禁止。
にもかかわらず、市長は選挙前になると、市内を走り回って有権者の家にずかずかとあがりこんだ。
そして、なにもいわずに仏壇に封筒を置いて去ったそうなのだ。
つまり、票を頼むのではなく、祖先に敬意をあらわす行為であるといって、法律をかいくぐったというわけ。
よくこういうことを思いつくなあと感心してしまう。

中選挙区制と小選挙区制についての話も、非常にわかりやすく語られていて興味深い。
著者は、小選挙区制には否定的。
「選挙制度がどう機能するかは、その国の社会構造によって変わってくる。そのことを日本の選挙制度改革論者は見逃した」

「小選挙区制では製作の争いになると改革論者は思っていたが、結果はそうなっていない。政策が前より重要になったというよりも、それぞれの政党のトップリーダーの人気が大きなファクターになったことである」

後半の、日本社会に対する意見は、穏当かつ常識的。
ただ、著者の場合、体験の質と量がとても豊富なので、説得力に富む。

現在、半年ごとに東京とニューヨークをいったりきたりする生活をしているという著者は、東京にきたとき、まず区役所にいくという。
外国人登録をすれば、日本国民ではなくても、国民健康保険に加入できるからだ。
アメリカではお金持ちでないと保険には入れないらしい。
この分野では、アメリカが日本の制度を学ぶべきだと著者は記している。


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